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日本歴史紀行

歴史 今日の出来事 1905年 明治38年 5月27日 日露戦争 日本海海戦 連合艦隊勝利 4






バルチック艦隊迫る


明治37年10月15日、ロシア政府は、第2太平洋艦隊【ロシアバルト海艦隊】を指揮するロジェストウェンスキー中将に対し、旅順港を母港にしているロシア旅順艦隊が日本の連合艦隊に苦戦し、なお、旅順要塞が再三、日本陸軍に攻め込まれている報を受け、日本海に出撃する命令を出しました。


一方の日本の連合艦隊、東郷平八郎司令長官は、明治37年12月25日までにロシア旅順艦隊を全滅せしめ、旗艦三笠以下の修理と補給、それに戦況報告と打ち合わせのために、日本へ帰還します。


そして明くる明治38年1月2日、日本陸軍は203高地攻略から突破口を見出した旅順要塞を陥落させました。


帰国し、戦況報告を終え、次期作戦会議において、東郷平八郎司令長官は、ロシア太平洋第2艦隊が大西洋を南下して日本海に迫りつつある報告を受け、来るロシアバルト海艦隊【日本側の通称〜バルチック艦隊】を迎え撃つ決戦に備え、射撃、発射等の猛訓練を艦隊に課します。



明治38年2月、日本に帰還した連合艦隊は、ロシア、バルチック艦隊との戦闘に備え、艦隊総出での猛訓練を開始します。
 

射撃訓練は、砲塔の砲身から海上に浮かせた小さな的を狙うもので、また、艦隊の操艦練習も繰り返しました。


この2つの訓練は、バルチック艦隊との戦闘で、絶対に負けられないという意思を持ってやり遂げ、極めて日本に有利に働きます。


バルチック艦隊は、日本と同盟を結んだ英国と、英国の息のかかった植民地への寄港を許されず、弾薬、石炭、食料の補給にさえ苦しむ状態となります。

これは、開戦以来、日本は同盟国の英国に働きかけた外交が功を奏し、中立国の民間船さえも、拿捕、撃沈してきて、多くの批判を受けたロシアの撒いた種でもあります。

また、多くの乗組員が航海中に病死する事態も深刻さを増し、バルチック艦隊の士気は、著しく低下ていきました。

そして、バルチック艦隊のロシア兵士から、鞄(かばん)と呼ばれて怖れられる兵器が登場します。


5に続きます。


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