寿都町カントリーサイン
寿都町
寿都町は北海道西部の漁業の町で、最近、国に対して原発の核廃棄物の最終処分場への調査協力を表明したことで、全国ニュースに度々 町の名前が出ることが増えました。
さて、町名の由来ですが、アイヌ語源でシュプ キ ペッ~茅の川を意味します。ここも漢字をあてた際、漁で賑わうことから寿都町と名付けられました。
かつてニシン漁で栄えた町ですが、ここは義経主従の中で、武蔵坊弁慶ら、義経郎党にまつわる伝説が残る町です。
この地まで来た弁慶は、義経を慰撫しようと土俵を造りました。
やがて土地の若者を集めて相撲大会を催し、若者達と相撲をとり、若者らを次々と投げ倒しました。
この場所は弁慶の土俵跡といわれ、土俵の形と四本の柱跡が残り、時には弁慶も敗れたといわれる弁慶の尻餅岩や弁慶の鼻血跡というものものが残ります。
この逸話を書いたのが松浦武四郎で、武四郎の記した西蝦夷日誌に~
~弁慶が甲冑を曝し処やとて弁慶岬と云へり。
此処に弁慶の角力場というものあり、幅およそ十余間、土俵の如く土を丸く積上たり。
是恐らくは土塁なるか、上に物見台という小山あり。
義経卿ここより見給しと云伝う。~とあります。
義経が見た先は、遥か大陸の大地でした。
後にチンギス・ハンの義経伝説が広まりますが、こうした伝説は、北海道の他の海岸の町にも伝わります。
義経伝説にまつわる逸話をもうひとつ。
寿都町の歌棄(うたすつ)地区に、寿都がニシン漁で賑わう江戸時代に町一の網元として君臨したのが佐藤家でした。
佐藤家は歌棄、磯谷地区の漁場を取り仕切る場所請負人を務める名主で、明治時代には、駅逓取扱人を政府から任されました。
この佐藤家の先祖が源平合戦の屋島の戦いで義経の身代わりで戦死した佐藤兄弟の兄、佐藤継信で、その末裔にあたるそうです。
(末裔が継信の遺した遺児なのかは詳細は不明ですが、この佐藤家は陸奥国信夫郡飯坂~現在の福島県福島市付近から江戸時代後期に蝦夷地に渡り、主従の縁の残る寿都付近に腰を下ろしました。)
弁慶と佐藤継信。
義経郎党の伝説がこの町には残っています。