赤い靴の少女と母の像
静岡県静岡市駿河区 日本平
赤い靴の少女と家族の像
北海道小樽市色内 運河公園
岩崎きみ の母、かよ のその後
きみ をヒューイット神父夫妻に託してから2年間、かよ は鈴木志郎と結婚し、二人の間には娘(その)が生まれますが、留寿都(るすつ)村での開拓は困難続きでした。
留寿都村での開拓は結果的に失敗し、家族は大都会 札幌に出ました。
札幌で夫 志郎は北門新聞社に入社、そこで知り合ったのが当時、北門新聞社にいた野口雨情でした。
同世代、そして子供1人という同じ家族構成ということもあって、両家族は親しくなり、やがて一軒家を二家族て借りて共同生活をはじめました。
新聞社編集の傍ら、作詩もしていた野口は、やがて かよ の手放してしまった娘 きみ への想いを聞きます。
決して消えない母親の愛情を見た野口は、詞に綴りました
後に詞に本居長世が曲をつけて完成したのが 童謡【赤い靴】で、母親の かよ は、野口の発表した童謡 赤い靴 をよく口ずさみ、アメリカに行くことなく早逝した娘の死も知らないまた、1948年 昭和23年、【きみちゃん ごめんね…】の言葉を残して、64歳で晩年を過ごした小樽市で亡くなりました。
5に続きます。