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日本歴史紀行

歴史 今日の出来事 明治10年 4月16日 青年よ、大志をいだけ〜ウィリアム・スミス・クラーク博士、北海道を去る








ウイリアム・スミス・クラーク像

札幌市豊平区羊ヶ丘1番地 さっぽろ羊ヶ丘展望台



北海道民 【道産子~どさんこ】で、世代を問わず、ウイリアム・スミス・クラーク(クラーク博士)を知らない人は、まず居ないでしょう。

また、不朽の名言

~ボーイズ ・ビー ・アンビシャス~

~青年よ大志を抱け~

この言葉も、北海道民~道産子~には、忘れられない言葉です。



昨年、新聞社をはじめとした調査で、北海道に貢献した歴史上の偉人として、トップ10の2位に入ったのがクラーク博士です。
【1位は北海道の名付け親~松浦武四郎、3位に衆院議長 故・町村信孝の父で、北海道知事を三期務めた町村金吾。9位にはなんと大泉洋がランクイン 】

1位の松浦武四郎が北海道の名付け親なら、
2位のクラーク博士は、北海道開拓の父とも言えると思います。





ウイリアム・スミス・クラークは、アメリカ、マサチューセッツ州生まれで、学力優秀によりドイツへ留学、20代で教授となり、博士号を習得。

帰国後、マサチューセッツ農科大学 アマースト校の学長となり、動植物学に加え化学、農業教育と、様々な分野に精通していました。

また、教え子に、初の日本人留学生 同志社英学校【現在の同志社大学】を設立した新島襄がいました。

群馬県安中に生まれた新島襄ですが、アメリカへは、函館港から密航により渡りました。

クラークの授業を受けた新島は、日本人初の学位習得者となり、教え子、新島襄との出会いは、クラークを日本へ導く縁となります。

新島襄は、訪米中の岩倉使節団の木戸孝允らと出会い、通訳者として同行を要請され、その中で、明治政府が北海道開拓のために、優れた教育指導者を探していることを知り、クラーク学長を挙げました。

明治政府による北海道開拓は、明治7年に黒田清隆が開拓長官に就任するとより加速し、黒田清隆は優れた外国人指導者(御雇い外国人)を招聘するにあたり、農業教育の指導者として、クラークに訪日を熱心に要請し、クラークは一年間の約束で訪日します。


明治9年、明治天皇が北海道行幸を行った夏、北海道開拓と、農業指導者の育成を目的に設立され、札幌農学校【後の北海道大学】の初代教頭として来日したクラークは、聖書に基づく人格教育と、農業の実践教育に情熱を捧げました。

当初は厳格なクラークの指導を快く思わなかった学生達も、生徒の自律と自主性を重んじる教育姿勢に生徒も感化され、熱心に指導を仰ぎました。

クラークは共に訪日したマサチューセッツ農科大学の優れた教え子達を後の指導者として学校を託し、明治10年4月16日、北海道を去ります。


クラークとの別れを惜しむ教え子達は、見送りと称して、札幌から約30キロ離れた島松まで馬で並走しました。


〜Boys, be ambitious〜


~青年よ、大志を抱け~

の言葉を残し、去りました。




わずか8ヶ月余りの札幌での指導でしたが、1期生の教え子には、佐藤昌介(北海道帝国大学総長)や、大島正健(言語学者、旧制甲府中学校校長)といった教育者から伊藤一隆(道庁勤務を経て石油会社経営者)、クラークの跡を継いだ二代教頭のウィリアム・ホイーラー教頭もクラークの精神を引き継ぎ、2期生からは、5000円札のモデルにもなった新渡戸稲造(教育者)、内村鑑三(思想家)、広井勇(土木工学)、宮部金吾(植物学)といった面々を輩出し、彼らは「札幌バンド」と呼ばれ、北海道開拓のみならず、その後の日本の発展に大きな影響を与えました。


北海道開拓の初期に輝かしい功績を残したクラークですが、アメリカでの晩年は鉱山経営の失敗に破産、さらに相次ぐ訴訟に悩まされる失意の日々を送って体調を崩し、59歳でこの世を去ります。


臨終の床で、クラークは、~札幌で過ごした9ヵ月こそ、私の人生で輝かしい瞬間だった。~と言い残しました。




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コメント一覧

kikokikonoriko19888888
関寛斎のご婦人はお子様の関係で札幌にお住まいだったようですが先生より早く亡くなられて、先生は陸別の生活は孤独なご最後でした。奥様のお着物で作られたカバーのかかった日記帳が、陸別に保存されていました、3日間泊りこんで、、読んだ時代がありました。 歴史も、空撮の写真のような視点も面白いし、接写の視点の面白さもありますね。期待しています。
aoikitakaze4390031
@kikokikonoriko19888888 おはようございます。
関先生、以前 調べたことがあります。
高い志し叶わず、最後は悲劇的な人生の幕引きを遂げました。
明治期の北海道には、伊達や稲葉一族、それに二宮尊徳といった世に知られる子孫が入植しましたが、厳しい自然に直面しました。
陸別町はなかなか行くのは難しいですが、北海道の偉人のカテゴリーを設けて載せるのも良いかも知れませんね。
kikokikonoriko19888888
日本一寒いと言われる陸別に、「関寛斎医師が夫人と来道」しています。北海道の医療に関して調べた時期が在りまして、網走刑務所の服役者が医療を受けられず,関寛斎先生の息子の一人が,初代網走刑務所の医師として赴任していました。サロマ湖のホタテの養殖の第一人者が、京都大学を卒業されていました。湖畔には石器が落ちていて、東京大学の研究所もありました。地名のいわれや、読み方もわからないうちに、80歳になろうとしています。

北海道の、隠れた歴史を、、ぜひ、掲載してください。
楽しみに待っています。
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