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日本歴史紀行

歴史 今日の出来事 1616年 元和2年4月17日 徳川家康 公逝去




1616年、元和2年 4月17日 徳川家康 公 逝去




徳川家康 公像

愛知県岡崎市 康生町 岡崎公園


徳川家康は、1543年 天文11年、12月26日 三河国(現在の愛知県岡崎市)の岡崎城で生まれました。【幼名 竹千代】


父はかろうじて三河を死守(駿河の今川氏の庇護を得ながら)している松平広忠で、竹千代わずか2歳のとき、母 於大の実家 水野家が敵国 尾張 織田家に寝返ったため、於大は広忠に離縁され、生き別れとなります。





松平竹千代と今川義元 公像

静岡県静岡市 JR 静岡駅前


やがて竹千代は、駿河 今川氏の人質となるも、駿河に送られる途中に家臣に裏切られて織田家に売られてしまい、約2年を尾張で過ごし、父 広忠が家臣に殺された後に、今川氏が三河衆を率いて織田家の息子(信長の兄)を生け捕り、人質交換で今度は駿河今川氏の人質として約13年を過ごし、家康19歳の時、駿河の今川義元は織田信長に桶狭間で敗れ、家康は晴れて自由の身となります。





徳川家康 公像
愛知県岡崎市 名鉄 東岡崎駅前




家康は今川氏を見限り独立し、織田信長と同盟を結びます。

家康と信長の同盟は、信長が本能寺の変で亡くなるまで続きます。


家康は甲斐 武田家との戦いに苦しみながらも武田信玄の死後、武田家を長篠で破り、九年の後、武田氏滅亡をもって束の間の安堵を勝ち取ると思った矢先、織田信長が京 本能寺で家臣の明智光秀の手にかかり、堺で遊んでいた家康は、僅かな家臣らと急いで伊賀山中を抜けて命からがら三河に戻ります。(後の神君伊賀越え)


次に台頭した羽柴秀吉と小牧長久手で戦い、局地戦ながら、秀吉に土をつけました。





徳川家康 公像

静岡県静岡市 葵区 駿府城公園





やがて家康は秀吉と和解、秀吉は天下統一。
家康は秀吉の足下に伏すも、秀吉の天下は10年足らずで綻び始めます。

我が子可愛さから甥の秀次を死にやり、一族皆殺し、二度の朝鮮外征で家臣と諸大名の分断の種を蒔いたまま亡くなります。


秀吉の死後、家康はゆっくりと天下取りにかかります。


石田三成ら吏寮派と加藤清正ら武断派との抗争を利用し、関ヶ原の戦いでは、戦いに参加した大半が豊臣家臣で、この戦いに勝った家康は事実上の天下人となります。






駿府城 巽櫓

静岡県静岡市 葵区 追手町 駿府城公園



家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開き、自らは将軍職を2年余りで三男、秀忠に譲り、駿府城で大御所として外様 諸大名に睨みを効かせながら10年以上を待ち、豊臣家と雌雄を決する大坂の陣で勝利し、徳川の世を盤石なものとした翌年の1616年 1月に鷹狩りの最中、振る舞いで出された天ぷらを食していて発病します。(胃癌と推測されます)

死期を悟った家康は、葬儀は増上寺で執り行い。遺骸は駿河 久能山に納め。位牌は三河 大樹寺へ。と三つの遺言を残し、3ヶ月後の1616年 元和2年 4月17日、75歳の生涯を閉じました。




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コメント一覧

aoikitakaze4390031
えーっ❗羨ましい❗

お城とは縁の無い北海道で育った ぼくにとって、家康公が少年時代を過ごし、晩年に終の住処として選んだ駿府城公園は聖地なんです。
人生、生まれ変わりがあるなら、静岡市に生まれたいと思ってます。
麻乃
駿府城懐かしいです。✨✨
お堀の直ぐ側の女子校に通っていて駿府公園はバス停までの通り道でした。
美術の写生の時間も駿府公園でしたねぇ。😓
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