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日本歴史紀行

八十八夜 寄稿 8 初代静岡県知事 関口隆吉を輩出した茶産地 菊川 2


初代静岡県知事 関口隆吉 像
静岡県菊川市堀之内 JR菊川駅前



山岡鉄舟
関口隆吉の太刀を下げ、西郷との会見へ


1868年 慶応4年 3月9日、隆吉の大小を拝借した山岡鉄舟が駿府に滞陣中の東征軍参謀 西郷隆盛を訪ね、将軍 徳川慶喜の赦免嘆願を懇願、後に西郷は勝 海舟と江戸で会談を行いますが、その露払いとなる駿府で流れが決まってました。


江戸城引き渡しが成り、徳川家は駿河 70万石の藩として存続となり、明治新政府の世になると隆吉は公用人(政府と藩の交渉役となる藩の代表者)の役を徳川家から命じられ、成立間もない政府との間を取り持ちました。


尊王攘夷、倒幕運動、大政奉還、王政復古、鳥羽伏見、そして無血開城と、およそ これら四文字の出来事をたどることにより、1853年 嘉永6年 ペリー来航の衝撃から15年後の1868年、日本は明治維新を迎えることになります。


政権を担っていた幕府は倒れ、倒した薩摩、長洲を中心とした外様藩の藩士から倒幕で目立った者が政政権を担う側となり、維新から10年あまり、日本はもっとも激しい変化にさらされます。



明治3年、江戸城 紅葉山の徳川家祖廟を久能山への移設へ同行することを契機に公用人を免じられた隆吉は一家で駿河へ移住することとなり、同輩だった中条金之助景昭らと牧之原の開拓を本格的に推し進めます。


関口隆吉、束の間の入植

隆吉は牧之原台地から西に離れた月岡(現在の菊川市月岡)の平地に入植し、茶畑の開墾に取りかかります。




関口隆吉の入植した菊川市月岡地区







関口隆吉顕彰碑






ところが、明治政府から隆吉の元へ三潴(みづま)県参事への要請が届きます。

静岡藩公用人としての仕事をこなした力量を評価されたものでした。

三潴藩は、現在の福岡県の大宰府周辺を含んだ九州の小藩で、旧徳川幕臣とは縁の無い土地でしたが、ここでも参事の仕事を的確にこなします。

明治9年には政府への不満が爆発寸前の山口県令となり、元長洲藩士で政府役人でもあった前原一誠らが間も無く起こした萩の乱には、政府と連携して速やかに鎮圧し、翌年、西郷隆盛らが薩摩藩士族らと決起した西南戦争では、九州への門戸となる山口県の治安維持に苦心しました。




3に続きます。



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