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日本歴史紀行

歴史紀行 52 池禅尼之塚







池禅尼 之塚

愛知県知多郡美浜町 野間 大御堂寺


平 清盛の父、忠盛の正妻 池禅尼は、名を藤原宗子。

後妻の池禅尼は、清盛とは血縁は無く、若くして病没した家盛、正室の子として平家一門の中で重きをなした頼盛の母として影響力をもちました。


その縁者に鳥羽法皇の寵臣、藤原家成が居り、さらに家成の従兄弟に鳥羽法皇が愛した美福門院に繋がり、平家が結んだ朝廷との太いパイプは、清盛の父の代から既に存在感がありました。


ただ、池禅尼は、崇徳天皇の第一皇子、重仁親王の乳母を務めていた過去があり、鳥羽法皇が崩御した直後に勃発した後白河天皇と崇徳上皇の戦い、保元の乱では、崇徳天皇方の不利を悟り、清盛に従い、後白河天皇方につくように実子の頼盛を諭します。

義弟で清盛の叔父にあたる忠正が離反する中、平家一門の分裂を最小限で避けた清盛は保元の乱を勝利で終わらせることが出来ました。


1159年 平治の乱で敗れ、頼盛の家人 平 宗清に捕らわれた源 義朝の三男、源 頼朝が京に運ばれてくると、宗清から頼朝は若くして亡くなった家盛に似ていることを聞かされた池禅尼は頼朝の助命を清盛に懇願します。


最初は取り合わなかった清盛も、池禅尼が食を断ってまで懇願した熱意に根負けし、頼朝を伊豆への配流で済ませることにします。


1160年 平治2年春、池禅尼は伊豆へ発つ頼朝を呼び寄せ、生涯 親類への菩提の弔いを欠かさぬ様に言い聞かせ送り出します。


頼朝が伊豆へ発ち、主だった敵対した勢力は既に無く、平家一門がこの世の春を謳歌し始めるのを見届けると池禅尼は61年の生涯を終えますが、自ら助命を懇願して助けた頼朝が20年後に挙兵し、平家一門をことごとく滅ぼしたことは黄泉の先で知ることになります。

平家一門を滅ぼし、鎌倉幕府を開いた頼朝は後に父の義朝の墓参に訪れた野間の大御堂寺に池禅尼の塚を父、義朝の墓の塋域(えいいき)に建立して助命の恩に報いました。





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