昭和までの日本周辺の動向
大陸の大国、清国は日本の江戸時代後期、1839年〜アヘン戦争でイギリスに敗れて以降、欧米列強の強い影響下にありました。加えて朝鮮半島の動乱をきっかけに勃発した日清戦争(1894年、明治27年〜翌28年)の敗北により朝鮮への宗主国としての立場を失い、日本に台湾、遼東半島(清国、朝鮮北部の国境付近の半島)の割譲、それに多額の賠償金を払う破目となり、そこに目を付けたフランス、ドイツ、ロシアの三国干渉により日本はやむなく遼東半島の還付に応じますが、還付の代償金を清国から得ること、それに大陸への足がかりには成功します。
遼東半島を還付せざるを得ない要因は三国干渉にありますが、暗躍していたロシアの存在に、日本はロシアを仮想敵国として認識し、強い不信感と脅威を持ちました。
日清戦争に勝利しながら三国干渉という外圧に屈した日本は、国内経済力の充実、軍備増強を徹底します。
案の定、朝鮮半島を狙うロシアの南下政策により平和は長く続きませんでした。
満州を占拠していたロシアは遼東半島まで進出、目前の朝鮮半島を視野に入れました。
江戸時代に対馬を占拠した過去もあるロシアをこのまま放置すれば、日本海はおろか、日本本土すら危なくなると日本政府が考えるのは当然でした。
日本は戦費調達に苦心するも、ユダヤ人の銀行家、クーン・ローブ商会のヤコブ・シフから多額の日本公債を引き受けてもらい、資金調達を得ることに成功しました。
慈善家としても活動していたシフは、同胞のユダヤ人がロシア国内で激しい迫害に遭っている現状に憤慨していたことから、とても日本が大国、ロシアに勝てるとは考えることは無いものの、銀行関係者の晩餐会で戦費調達のために訪れていた当時の日銀副総裁、高橋是清に面会すると、日本の返済能力や日本軍人の強さなどを問い、とりわけ日本軍人は天皇陛下と国家国民のためならば、最後の一兵まで戦うとの考えを踏まえ、公債の引き受けを確約、シフは後に3度の公債引き受けを担いました。
日露戦争は1904年、明治37年2月9日の仁川沖会戦で開戦となり、戦死者、戦傷者でロシアを上回る犠牲を払うも203高地で有名な戦い〜旅順要塞を陥落せしめ、旅順港のロシア艦隊を壊滅。やがて地球半周の大航海を経て到着したバルチック艦隊を旗艦 三笠を先頭に連合艦隊が撃滅させて勝利。
遼東半島の玄関口でもある奉天の会戦での勝利をもってロシア満州軍総司令官〜クロパトキンを退却させ、日本の勝利をもって終結しました。
実際は、この時 日本にはこれ以上、進軍する余力が無かったのが実情です。
アメリカが仲介する講和会議が開かれ、日本は清国(現在の中国)東部の満州南部。樺太南部、朝鮮半島の権益を確保しました。
しかし、宛にしていた戦後賠償金は獲られず、日本国内では講和を結んだ政府に不満を爆発させた民衆が各地で暴動を起こすなど、治安は乱れ、日本は長く戦費調達の際に借り入れた資金、利息の返済に増税として国民に課され、重税の負担に苦しむ形となりました。
満州
日本本土から離れた大陸で、租借地という名ばかりの満州の地に自由に使える土地を獲た日本政府は、満州に殺到します。
講和間もなく奉天に行政機関〜関東総督府が置かれます。
明治末から大正時代にかけて、日本国内は貧しい者と富める者の差は広がる中、望みを求めて人々は満州に活路を見出そうとしました。
民間行政を担う関東庁と防衛を担う関東軍が配置されます。関東軍の主任務は、講和によりロシアから譲渡された鉄道網〜南満州鉄道と民間人を守ることにありますが、この関東軍が後に日本を国際的に世界から孤立させる大問題を引き起こします。
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