朝顔の松
朝顔の松
静岡県島田市河原1丁目
江戸時代、各街道の整備が進んだ東海道ですが、大きな川には橋が架けられず、旅人などは川越制度(川越人足による渡川)により川を渡って通行していました。
ですが、大雨などで川の水かさが増し、流れが急になると危険と判断されると(川止め)といって渡川を禁止され、旅人や通行人は何日も足止めを余儀なくされました。
大河級の川のある宿場町は、足止めの旅人を受け入れる宿として繁盛していました。
川越制度のある駿河と遠江の国境の大河 大井川。
大井川には、東の駿河側の宿場町、島田宿のはずれに一本の松の木が旅人や人足達を見守るように立っていました。
島田の宿場町の宿には、朝顔という名の盲目の若い門付け(三味線弾き)がいました。
哀しげな音色を奏でる三味線を宿屋の軒ごとに弾きながら歩き、宿屋から声がかかるど座敷に上り、客に披露して生活の糧としていました。
朝顔は、かつて宮仕え(現在の京都御所での仕事)の休日に蛍狩りをしていた所で宮城阿曽次郎という青年と恋仲となりました。
故郷の安芸国(現在の広島県)に帰ると親が駒沢次郎左衛門という武士の青年と縁組みを決めたと聞かされます。
阿曽次郎への想いを断ち切れない朝顔は家出をしました。
ところが、縁組みした次郎左衛門こそ、駒沢家を継いだ武士、阿曽次郎でした。
朝顔は門付きをしながら阿曽次郎を捜し諸国をさまよい歩くうちに目が見えなくなってしまい、やがて島田の宿場町にたどり着きました。
ある日、宿【戎屋、えびすや】から声がかかり、座敷に上ります。
声をかけた人こそ、捜していた阿曽次郎本人でしたが、主命を帯びた急ぎの旅だったために名乗れずに去って行きいました。
あとで阿曽次郎本人と知った朝顔は、急いで後を追いかけますが、大井川は川止めとなっといました。
朝顔は半狂乱となって激流の大井川に飛び込みますが、宿屋の主人 戎屋徳右衛門が命がけで助け上げます。
(徳右衛門はかつて朝顔の祖父に仕えていたことがあり、なにかと朝顔を気にかけていました。)
奇跡的に助かった朝顔は、目が見えるようになり、最初に目に映ったのが大きな松の木でした。
大きな松の木は、朝顔の松と名付けられ、地元の人々に大切にされてきましたが、昭和になり枯れてしい、惜しんだ人々により、御堂が建てられ、木碑となって生まれ変り、そばには現在、二代目の松が立っています。
朝顔の話は、1811年文化8年に 【朝顔日記】として浄瑠璃として上映されて大評判となりました。
上映は現在でも続いています。