壇ノ浦古戦場
山口県下関市みもすそ川町
壇ノ浦の戦い
〜驕る平家は久しからず〜
古代、飛鳥時代の蘇我馬子、入鹿父子。
平安時代の貴族の頂点に立った藤原道長。
そして平清盛。
権力の絶頂にある為政者が驕り昂ぶるのは無理もないこと なのでしょう。
ぼくの個人史観になりますが、平家最大の罪は、驕り高ぶり一門を優遇させたことよりも、三種の神器と幼帝である安徳天皇を同行させたことにあると考えます。
平家滅亡への布石
1185年 寿永4年2月18日、四国、屋島の戦いで敗れた平家の軍勢は海上に逃れました。
屋島の戦い直前、帰属しない河野通信を討つべく、平家の信任の篤い阿波教能が出払っていたことが後の壇ノ浦の戦いの決定的な布石となります。
平家の軍勢は屋島の東の志度浦にて体勢を立て直すべく赴くも、屋島から追撃してきた義経の軍勢に襲われ、海路で逃れます。
屋島で平家が敗れ、逃れてしまったことを知らずに、河野通信の軍勢を破って屋島へ凱旋してきた阿波教能に、義経に策を授けられた郎党の伊勢義盛が出迎えます。
屋島の戦いは平家が敗れ、平家一門は滅亡したと伝えると、教能は義経に降伏し、軍勢を源氏に預ける意志を固めます。
屋島で敗れた軍勢を率いた清盛三男の宗盛は陸へ上がることも ままならず、
清盛の四男、知盛が陣取る長門国(現在の山口県西部)の彦島を最後の砦として目指しました。
水軍勢力を強みとした平家軍。
清盛が生前に推し進めた日宋交易で獲た莫大な利益は、瀬戸内海の制海権を掴み取り、支配下に置いたことで、他の勢力の追従の及ばない程、力を持つこととなりました。
平家が木曽義仲に敗れて都落ちして以降、義経らの奇襲に屈した一ノ谷、屋島の戦いの敗戦は平家が強みとしていた水軍勢力の離反を招きまます。
これまで平家に従ってきた熊野水軍の首魁、熊野別当湛増(たんぞう)や伊予に勢力を誇る河野水軍も平家を見限り源氏の配下となり、義経の味方として長門、彦島に逃れた平家を追います。
一ノ谷、屋島と陸の奇襲で勝利を掴んで来た義経。
経験のしたことのない、海上での戦いに赴くことになります。
5に続きます。