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日本歴史紀行

思い出フォト 104 2020年 3月 鬼平のルーツを訪ねて





小川城跡 石碑と案内板
駿河 小川(こがわ)城跡

静岡県焼津市 西小川5丁目

2020年3月あたりから、あのコロナの猛威が本格的に暴れ出し、様々な影響が出始めました。

遠出の好きだった ぼくも、この年の春頃から遠出をあまりしなくなりました。

静岡県内の近場を巡ることが多くなりました。




静岡市の西部にある焼津市は、漁業の盛んな港町です。


この焼津市から後に【鬼平犯科帳】の時代劇で人気を博した火付盗賊改方、鬼の平蔵(鬼平)こと、長谷川平蔵の先祖を輩出しました。




戦国時代の先駆けを走ったのは北条早雲ですが、早雲が飛躍する過程の中で、今川の当主に御曹司、対立する東遠州地方の豪族 横地、勝間田氏と様々な家の人々が関わってきました。

今川家の当主、今川義忠が凱旋の帰途、横地、勝間田の残党に襲撃され、還らぬ人となりました。

これにより今川家中は義忠の遺児 竜王丸と義忠の伯父にあたる小鹿範満を後継者に推す派閥が家臣団の間に争いとなって起こります。

小鹿範満の母方の縁者は相模国守護 扇谷上杉家で、重臣 太田道灌を派遣し、竜王丸を推す派閥に圧力をかけました。

この行為に竜王丸の母 北川殿は、京で幕府に仕える弟(兄とも)の伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)に助けを求めます。

妹(姉)の急報に新九郎盛時が駿河に下向するのですが、その間の母子の危機を、一人の家臣が匿って難を逃しました。

小川(こがわ)城主 長谷川長重の婿養子、長谷川正宣でした。

1476年 文明8年、後継者争いが激化して家中を二分にした今川家。


先代 今川義忠の嫡子 竜王丸こそ、今川家を継ぐべきと考えた小川城の長谷川正宣は、対立する小鹿範満が縁者にあたる関東管領の扇谷上杉正憲の家宰、太田道灌を呼び寄せて威嚇すると、竜王丸と母 北川殿の身を案じ、小川城に匿います。

北川殿は、京で幕府に仕える父の下で働く伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)に窮状を訴えました。

盛時は、8代将軍 足利義政に、竜王丸を今川氏の次期当主として認める御内書を認めてもらいます。

足利一門に連なる今川家の内紛は、関東に封じた堀越公方の動きを駿河で留めておきたい幕府に役の無いことと認識した義政は御内書を盛時に託し、盛時は義政のお墨付きを携えて駿河に下向します。

駿河に到着した盛時は、数百騎の軍勢で威嚇し、太田道灌を背後に擁する小鹿範満と対面、将軍 足利義政 直筆の御内書を披露した上で、竜王丸の元服まで小鹿範満を当主代理とする妥協案を示します。

小鹿範満は盛時の案に同意し、今川家中を二分した後継者争いは一旦 収束しました。

竜王丸と北川殿は、引き続き母子を推す家臣により保護されることとなります。


長谷川正宣の長谷川家は、この地で法永長者(法永は正宣の出家名)として知られ、子孫は今川氏の没落後に徳川家に仕えます。

やがて江戸で火付盗賊改方の長谷川平蔵を生み出します。





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