五日市の通りを散歩しました。
五日市郷土館敷地内にある市指定有形文化財の<旧市倉家住宅>です。
江戸時代末期から明治時代にかけての一般的な農家だそうです。
五日市特産品ののらぼう菜の縁起についての古文書(江戸時代後期1767年のもの)が展示されていました。
その解説文によると、関東郡代伊奈備前守忠宥より当時の小中野村名主四郎右衛門(福村家)と網代村名主五兵衛(網代家)宛に幕府の直轄領の村々へ闍婆菜の種を配るよう命じたものだそうです。
「江戸時代鎖国の時の日本は、オランダの支配下にあったインドネシアのジャワ島を経てオランダ船で物資がもたらされました。ジャバ菜もジャワ島より来た菜ということだと思われます。ジャワは昔の人はジャバと言いましたし、外国から来たものを排他的な感情で軽蔑してそのように呼んでいました。のらぼうは油菜科の植物で、その元は地中海が原産地だろうといわれています。」
市内小中野・子生神社に野良坊菜之碑があるそうですが、採油用や救荒作物として栽培が奨励され、天明・天保の飢饉の際この菜花のおかげでこの地域の住民が救われたとあるそうです。
そうだったんだー。
20数年前に香港に旅行したとき、飲茶ワゴンから選んだ青菜をのらぼう菜と同じものだと思いましたが、謎が解けた感じです。
屋根裏は蚕飼育のための部屋となっていました。
ウィキによれば、養蚕は紀元前200年頃稲作とともに日本に伝わったそうです。
江戸幕府が養蚕を推奨し、幕末には良質な生糸が生産されるようになったそうです。
明治時代に隆盛期を迎え昭和初期には221万戸(当時の農家の1/4)が養蚕業に従事したそうですが、戦争やナイロンの発明等により衰退していったのだそうです。
手前右の漉し器のようなものが重なっている器具は、刻んだ桑の葉を蚕の成長に合わせたサイズにするために大きさの違う網目を通すものだそうです。
初めて見ました。
お蚕さまは大変だったんだー。
端午の節句(菖蒲の節句ともいうそう)も近く、五月人形が展示されていました。
中国から伝わった端午の節句の端午とは端め(はじめ)の午(うま)の日を意味し、節句(節供)は季節の変わり目に身の安泰を祈って神に食物を供えることだそうです。
菖蒲等の薬草を摘んで邪気を払うなどされてきたものが、鎌倉時代以降「菖蒲」が「勝負」に通じることから武家社会の中で好まれ、男の子の出生を祝いその健やかな成長を願って兜や人形などを飾る風習が定着したのだそうです。
鎧や兜は身を守るお守りなのだそうです。
大正時代の五月人形は面白い。
五月人形は歴史物語や歌舞伎狂言に登場する英雄・豪傑を表したものが多かったそうですが、これは、左は弁慶(歌舞伎十八番・勧進帳の)、中央と右は神武天皇(日本国をはじめて統一したと言われる)かなー。
五日市郷土館に入ってみました。
2階では企画展「五日市鉄道創業時を振り返って~開業90周年~」が行われており、沿線に住む者として興味深かったです。
この写真は、1階の「五日市の地質」のコーナーです。
五日市周辺は古生代・中生代・新生代にたまった海底の堆積物からなっている、とあります。
先カンブリア時代(地球が誕生した約46億年前以降、肉眼で見える大きさで硬い殻を持った生物の化石が初めて産出する5億4,200万年前以前の約40億年の期間)の後、現在までを古生代・中生代・新生代というみたいなので、このポップの表現だと大雑把すぎる表現な気がするなー。
約300万年前(約6500万年前~現代を新生代と呼ぶ)は網代・弁天山あたりまで海がせまっていて、ステゴドン象が住んでいた、とあります。
ステゴドン象・「ミエゾウ」学名「ステゴドン・ミエンシス」は九州から関東地方にかけて生息していた古代ゾウだそうです。
約370万年前にはかつては最初の人類とされたアウストラロピテクス(猿人)がアフリカに出現していたのですよね。
考えるとロマンですね。
数十万年前~数万年前、五日市は大きな湖で、ナウマン象が湖岸を歩いていた、とあります。
ナウマン象の化石は日本列島の至る所で発見されているそうで、長野県の野尻湖畔では、ナウマン象の化石とともに石器や骨角器などが出土しているそうです。
ホモ・サピエンス(新人)は20万年前ごろにアフリカで誕生し、6万年ほど前からユーラシア大陸に広がり始め、日本列島では4~3万年前の後期旧石器時代には住み始めていたそうです。
ナウマン象を狩りしたのではなく他の動物が狩り食べたものの残りをいただいたのではないかと、家畜の歴史で聞いたような気がします。
五日市周辺では、3億4千5百年前の古生代・石炭紀(イギリスで研究された石炭層がこの時代の名前になった。日本列島では海の堆積物特に石灰岩が主で石炭はまれだそう)以降の化石が発見されているそうです。
地質時代の名前の由来が面白い。
「化石の日々」さんによれば、産業革命(18世紀半ばから19世紀 にかけて起こった工場制機械工業の導入による産業の変革)がおきたとき地質学はそのエネルギー源である石炭の調査に必要なもので、石炭探査を進めながら地質時代が決まっていったのだそうです。
そのため「石炭紀(石炭を産出する地層ができた時代)」が地質時代の中で最も先に設定されたのだそうです。
石炭紀以前の、カンブリア紀・オルドビス紀・シルル紀・デボン紀はいずれもイギリスの地名や部族の名前が由来だそうです。
イギリスが一生懸命石炭を探したのでしょうかねー?
イギリス・ロンドンの冬は霧が発生することで知られています(温暖化で少なくなったそうですが)。
イギリス西部を流れるメキシコ湾流で温められた湿った空気が偏西風で流され、イギリス東部の冷たい空気で冷やされて霧が発生するのだそうです。
イギリスでは産業革命後爆発的人口増加が起こり1700年代55万人だったロンドンの人口は、1850年には232万人を超え1900年には652万人にも達したそうです。
この一般家庭の暖房用ストーブ・工場で使用した石炭燃焼等により発生した煙やすすが霧に混じって地表に滞留し大気汚染となり、その後100年以上にも渡って健康被害を出し、大気浄化法により汚染物質の排出が厳しく制限されるまで続くこととなったそうです。
五日市郷土館を後にして通りを歩いてみました。
丸市屋さんでかき氷をいただきました。
小倉ミルク300円です。
小倉あんは底にたっぷり入っていました。
有限会社福島氷室さんという、大正時代から営業している多摩地区が販売エリアの氷屋さんがあるそうです。
この有限会社福島氷室さんのサイトによると、純氷とは、原料の水道水(一部地下水)を徹底的に濾過し、−10℃の温度で48時間以上かけてゆっくり氷らすことで残留塩素やカルキなどが放出され、純粋な水の成分だけが凍って透明で硬い氷が出来あがる、とあります。
丸市屋さんに純氷という表示がありました。
もしかしたら、こちらの氷かなー。
口に入れるとふわあととけるかき氷でした。
初夏の気分になりました(^^)V。