みんなが幸せになりますように。みんなの苦しみがなくなりますように。みんなの願いごとが叶いますように。
自分を
好きに
なるのも
自分を
嫌いに
なるのも
自分への
とらわれに
過ぎません。
”好き”
”嫌い”
条件や
は
環境に
よって
すぐに
変化して
しまう
感情
です。
食べ物や
着る物への
”好き”
や
”嫌い”
という
物質への
とらわれと
あまり
変わらない
のです。
そうした
自分への
とらわれを
超える道
とは
「いまは
自分が
好き」
「いまは
自分が
嫌い」
と
その時、
その場の
自分の
感情の
ありようを
しっかりと
知ること
なのです。
それが
できていれば
心は
つねに
平静
平安
の状態を
保つことが
できるでしょう。
幸福
とは
幸福感
であり、
不幸
とは
不幸感
です。
しかも
その
幸福感も
不幸感も
長続き
しません。
川面の
泡のように
現れては
消え、
生じては
滅していく
一時的な
感覚に
過ぎない
のです。
だから、
不幸を
避けて
幸福を
求めても
それは
実現しません。
川の流れを
見つめるように、
心に
生ずる
幸福感、
不幸感
を
静かに
見守ることで
平安が
訪れるのです。
人間の
最終的な
安らぎ
です。
自分に
都合の
いいことが
あれば
幸せ。
都合が
わるければ
不幸せ。
これは
古今東西
老若男女
を
問わない
人間の
”心の癖”
です。
この
癖を
自分の
努力で
矯正
しない限り、
人間は
幸せには
なれません。
どんなに
相手を
変え、
仕事を
変え、
環境を
変えても
幸せには
なりません。
多くの場合、
結婚前は
恋愛相手の
美点
や
長所
ばかりが
目に
映ります。
でも、
結婚後は
相手の
欠点
や
短所
ばかりが
目に
つくように
なって
しまいます。
お互いの
自省と
思いやりが
天国と
地獄の
分かれ道
です。
宇宙大自然の
現象は
すべて
因果の理法
に
支配されて
います。
すべては
あるべくして
あり、
起こるべくして
起こる
のです。
政治も
その
例外では
ありません。
選挙の
結果も
因果の法則に
したがって
います。
どの
政党が
政権を
取ろうが、
どの
政治家が
統治しようが、
目的は
国家と世界の
平和と繁栄
です。
政策や政見に
ついて
お互いに
批判し
論議する
ことは
あっても
現時点で
政権を
託された
政党や
政治家
それぞれの
能力が
十分に
発揮され、
国民全体が、
そして
人類全体が
幸せに
なるよう、
念じ、
祈ることが
大切です。
一見、
何の変哲も
ない
砂でも
顕微鏡で
見れば、
砂粒の
一つ一つが
色も形も
違い、
まるで
宝石の
ようです。
ミクロの
世界は
人間の
肉眼で見る
様子とは
まるで
違うのです。
人間が
見ている
物体は、
”そのもの”
ではなく、
”そのように
見えるもの”
に
過ぎません。
みんな
「錯誤の世界」
で
生きているのです。
そのことに
気づいているのと
気づいていないのとでは
人間としての
生き方が
大きく
違ってきます。
日本に
ある
上り坂
と
下り坂
の
数は
同じです。
一つの
坂を
下から
見上げれば
上り坂だし、
上から
見下ろせば
下り坂
だからです。
衣食住
などの
生活環境や
生活条件から
見た、
人間の
幸福も
不幸も
ほんとうは
コインの
表と裏
です。
他人が
どう
見ようと、
世間に
どう
思われようと、
自分は
幸せである、
と
納得する
人生を
送れば
いいのです。
”興味”
とは
”おもしろ味”
です。
そして、
”おもしろ味”
は
工夫することから
生まれます。
自分の
仕事に
”おもしろ味”
を
育てる。
子育てや
家事や
介護に
”おもしろ味”
を
生み出す。
人生に
”おもしろ味”
を
見出せる人は
明るく
楽しく
生きることが
できるでしょう。
仏教でいう
「色即是空」
の
”空”
とは、
心を
”空っぽ”
にする
ことです。
欲望や
期待を
捨てる
ことです。
欲望も
期待も
過去や
未来の
ものです。
それらを
捨てれば、
不安も
怒りも
落ち込みも
なくなります。
心を
”空っぽ”
にすれば、
”いま、ここ”
を
生きることが
できるのです。
人間、
自分が
欲するもの、
望むもの、
期待するもの
があると、
生きる
元気が
湧くものです。
でも、
実際は
心が
緊張する
だけで、
リラックス
できません。
ストレス
が
少なく、
リラックスした
人生を
生きたければ、
できるだけ
欲望や
期待を
もたないことです。
どちらの
人生を
選ぶか、
あなた次第
です。