自尊心とは、「自分の人生に対して、自分で任をもつ」という心です。自分の幸不幸について他人や神様仏様をあてにしない、という心です。
他人の悪に対して怒るのは凡人でもできます。でも、予期せぬ悪天候に見舞われたかのごとく、その悪に対して平常心を 保つことができるのは偉人だけです。
「理性的な人間」とは、偏見や迷信や先入観をもたず、あらゆる現象を「原因と結果の法則」に基づいて、ありのままに見、ありのままに聞き、そして考えることのできる人です。
人間の肉体はある程度、運動やダイエットによって、自分の思い通りに管理することができます。でも、結局は老いること、病むこと、そして、死ぬことを乗り越えることはできません。人生についても、夢や希望も大切ですが、最終的には何が起きても、受け入れる覚悟が必要です。
誕生したときのあなたと、現在のあなたは別人です。心身ともに全く違う別人です。だから、誕生日といっても、所詮、他人の誕生日です。人間は、毎日毎日生まれ変わっているのですから、お祝いするのであれば、今日、誕生したことをお祝いすべきです。
今から十年前でもあなたが生きていたのはその時の“現在”という一瞬間だけです。十年後でも、あなたが生きているのはその時の“現在”という一瞬間だけです。“現在”に年月日はありません。だから、“現在”のみに一所懸命生きている人に年齢はありません。
執着とは「しっかり抱えて、手放さない」心の状態です。執着の対象は財産や地位、健康や家族だけではありません。不思議にも人間は、憎しみや怒り、悲しみや悔いなどの感情にも執着しているのです。自分の身も心も破壊してしまうようなものが執着するほど価値があるのか、を考えてみることです。自分にとって価値がなければ、抱えていないで捨てるべきです。
成功してもいいし、失敗してもいい。好かれてもいいし、嫌われてもいい。ほめられてもいいし、けなされてもいい。ひとりでもいいし、みんなといっしょでもいい。人は我欲がなくなったら、怒りも嫌悪もなくなって、自由になるでしょう。
人間の欲望を満足させる宗教ははやります。でも、欲望を捨てさせる宗教ははやりません。「モノを持てば幸せになる」という人間の思考があべこべだから、宗教もあべこべです。