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Never a dull moment

煌きのあの風景の向こうに…

Dakota

2012年02月15日 | 60th st-
メトロポリタン美術館の屋上が開放される季節、階段を駆け上がりルーフに立つと視界の中心をセントラルパークの緑が、そして東西に美しい建物がずらりと建ち並ぶ光景に身を置く事が出来ます。東が5th ave、西がCentral Park West。 マンハッタンでも随一の高級住宅街です。セントラルパークウェストと72丁目といえばDakota House。その歴史と風格、セントラルパークを隣に従えたロケーションは、数あるマンハッタンのアパートメントの中でも別格中の別格といっていいでしょう。
’Dakota’、それが既に銘柄なのです。

このフランスの古城を思わせるアパートメントは、プラザホテルの設計でも有名なヘンリー・ハーデンバーフの作品で1881年に建設が始まり1884年に完成しています。この優雅な建物が建設された当時、街の中心はここから遠く離れたダウンタウンにあり、この地は’遥か遠くのDakota state’の意味合いを込めて’Dakota territory’と呼ばれていたといいます。
まだ田園風景の広がるような未開の地であったこのあたりに目をつけたのが後にシンガーミシンの2代目社長となるEdward.Clarkでした。彼は街の中心が北上してくることを予測し、500万ドルをかけて特にマンハッタン島の北西部を当時の所有者から買い占め、この地域の開発を始めます。これは当時「クラークの愚行」と揶揄されたのですが、その後のマンハッタンの開発の歴史をたどれば「クラークの先見の明」ということになります。

ダコタハウスにはレナード・バーンスタイン、ローレン・バコールら多くのセレブリティたちも居住しました。中でも有名なのがジョン・レノン。彼はここに住み、その非業の死をもここダコタで遂げます。ビートルズとして一世を風靡し、後半生は世界平和を訴えて政治活動に身を投じた彼は1980年12月8日、熱狂的なファンであったマーク・チャップマンによって、このアパートメントのエントランスで暗殺されました。

レノンはかつてインタビューでこう語っていました。
「時に不思議に思う。自分の現実を作るのは自分で、自分の進むべき道を自分で選ぶことが出来ることも分かっている。けれど例えば運命として決められてしまっていることはどれだけあるのだろうかと…。」

*Dakota(W72nd&Central Park West)

Joyful

2012年02月13日 | 60th st-
セントラルパークの西側、西62丁目から西66丁目までを占める広大な敷地に1大芸術エリアがあります。野外ステージを含め、オペラハウス、劇場、ホールがあり、コンサート、オペラ、バレエ、演劇など世界一流の芸術家たちの競演を堪能することが出来ます。Lincoln Centerがその場所。
1955年から1969年にかけて総工費1億7000万ドルをかけて完成され、その費用のほとんどが一般からの寄付だったそうです。このあたりはもともとあの名作「West Side Story」の舞台で、1960年代中頃までは治安の悪い犯罪多発地帯のひとつとして恐れられていましたが、このセンターの建設後は次第に整備され、かつての様子はまるで感じられません。
 とある冬、Holiday seasonにニューヨークを訪れる機会に恵まれました。街のライトアップはどの季節よりも輝いて見え、いくつかの心に留まる風景を目にしました。寒い季節のお楽しみ、そう、音楽シーズン真っ只中でもありリンカーンセンターでもオペラ、ニューヨークフィル、バレエ「Nutscrucker」などなど、日本では考えられないようなラインナップがひとところに、そして豪華に、そして気軽に愉しむことが出来ました。
このとき観たオペラが、私の大好きなロッシーニの「セビリアの理髪師」。開演時間は20時。日もすっかり暮れ一層空気に冷たさが混じる頃、リンカーンセンターに向いました。水をたたえた噴水の前にそびえるツリーには、音楽にちなんだ楽器のオーナメントが光り輝き、その奥にあるエントランスをくぐると見事なマーク・シャガールの壁画が迎えてくれました。
案内員にチケットを示してシートにつき、Play Billを片手に開演を静かに待ちます。いざ開演のとき、感性の肥えた観客たちがそれぞれのシートから拍手を送った後、観客席と舞台との対峙、真剣勝負が始まり、場内は一気に静まりかえります。そしてシーンごとに舞台上で真摯に繰り広げられたパフォーマンスに対して観客席からは歓声と拍手が惜しみなく送られます。
「批評は批評家に、薀蓄は薀蓄家に、まずは存分に音を楽しむこと」がモットーの私はただただシンプルにオペラハウスに憧れ、ロッシーニを堪能し、オペラに酔い、幕間のシャンパンを愉しみ…。
そして何より私の心に最も残ったその夜の光景。それはそれら幸運のひとときを心から満喫している人々の姿でした。

*Lincoln Center

Area

2012年02月06日 | 60th st-
高級住宅街の代名詞としても知られるアッパーイースト。居住者に富裕層を多く抱え、中でも瀟洒なタウンハウスや豪邸が建ち並ぶPark、Madison、Fifthのアベニュー沿いは高級住宅街の代名詞といわれています。これはマンハッタンの歴史にも大きく関係しているようです。
もともと移民の造りあげた国アメリカ。移民たちはエリス島にある移民局を通過してくることが殆どでした。その移民たちがマンハッタンの南に住みつくようになると、もともとダウンタウンに大きな邸宅を構えていた当時の上流社会は北へ北へと移動していくことになります。19世紀半ばからの急速なニューヨークの発展とともにマンハッタンの開発も進み、富豪たちの居住エリアの北上も一層進みます。社交界の女王として君臨したアスター夫人が自らの邸宅を五番街と東65丁目に構えたことも大きなきっかけとなったようです。その更に北、当時はまだのどかな田園風景の広がる5番街東91丁目の角地にアンドリュー・カーネギーが邸宅を構えて以降、5番街は別名「ミリオネアズロウ(億万長者小路)」とも言われる富豪たちの大邸宅の建設ラッシュが始まります。そこにはフリック家、ハンティントン家、ウォバーグ家、ヴァンダービルド家、デューク家など錚々たる一族の邸宅が連なりました。
以前、こんな風景を見かけました。五番街にあるホテル・ピエールのカフェ・ロダンダで一休みをしていたときのこと。待ち合わせの用のためか一人の女性がエントランスに現れました。齢はかなりと見受けられましたが、その女性の醸し出すオーラに完全に引き込まれてしまいました。ただただ美しいのです。悠然としたその雰囲気、佇まい、しぐさ、その全てが…。スーツを着こなし、帽子とスカーフで上品に飾り、その女性はボーイに案内されて待ち合わせ相手と思われる男性のところにしっかりとした足取りで優雅な歩みを進めていきました。彼女とは同じ世代と思われるその男性はスーツを着こなし、背筋をしっかりと伸ばし暖かな笑顔で彼女を迎えていました。もちろん彼にもオーラがあったことは言うまでもありません。私はすっかりその一挙一動に釘付けになっていました。
老いは誰にでも訪れる…けれどもいろんな老いがある、豊かな老いに至るには豊かな人生を生きていくこと。老いてなおも深みを増す彼らのオーラからそんな貴重なアドバイスをもらったような気がしました。アッパーイーストのあるワンシーンでした。

*Hotel Pierre(E60th&Fifth ave)

High Society

2012年01月31日 | 60th st-
ニューヨーク社交界がその輝きを強烈に放った頃の物語…舞台は東72丁目9番地。
1890年代初め、Henry&Jessie.Sloane夫妻は華やかな邸宅の立ち並ぶ54丁目界隈に暮らしていました。やがて邸宅用地の開発の流れが序々に東に向かい、セントラルパーク沿いから至近の通りがその対象となり、富豪たちが競って邸宅を建設しました。今も残るアッパーイーストの美しい街並みはその名残です。
 スローンはW&J Sloane社を擁する名門スローン家の一員です。1843年に一族が始めた家具商が大成功を収め、彼らの社で取り扱う家具やカーペットは当時建てられたホテル、クラブや邸宅に次々と重用され取引されたといいます。富豪としての地位と築き上げた財力で社交界にもその足場を固め、名家との姻戚を広げていきました。
セントラルパークから至近の東72丁目9番地、1894年に土地を購入したスローン氏は、邸宅の建築をカレール・ヘイスティング事務所に依頼します。彼らはマッキム・ミード・ホワイト事務所でも働いていたこともある、当時、高い人気を誇った事務所の一つでした。事務所は当時のニューヨークにあってフランス様式建築のパイオニアであり、その技術はこの設計にも生かされました。
 邸宅は1896年に完成し、ジェシー夫人は1897年に完成披露のための晩餐会を催しました。ニューヨーク社交界の粋を集めた豪勢な催しであったといいます。しかし、それからほどなくしてスローン氏は自邸を出てホテルに移り、1899年に夫妻は離婚しました。
その僅か5時間後にジェシーはPerry.Belmont(1851-1947)と再婚します。社交界に秘密に咲いた「三角関係」が露わになったことで、社交界に大きな衝撃と話題を与えることになりました。
ペリー・ベルモントは金融業で財をなした名門ベルモント家の一員で、その名が示すとおり祖父は日本の開国を導いたMatthew.C.Perry提督です。ペリーは外交官であり、民主党の実力者としてもその名を知られていました。
  スローン氏は明らかとなった前妻の不貞に対して、自分と子供たちの名誉が傷つけられたとして、前妻が2人の娘JessieとEmilyが21歳に達するまでの間、道すがらですら言葉を交わしてはならないと誓約させました。ベルモント夫妻はワシントンへと移り、スローン氏は2人の娘と共に東68丁目18番地に引っ越しました。そしてその後、再婚することなく生涯を終えたといいます。
 東72丁目に残された邸宅は、新聞王ジョゼフ・ピュリッツァーに貸されるなどしましたが、1901年、邸宅はロックフェラー財閥に連なる富豪James.Stillmanに売却されました。

*Townhouse…18.E68th st
*Townhouse…9.E72nd st

Diamond Horseshoe

2012年01月27日 | 60th st-
キリリと冷え込む冬のニューヨーク。日も暮れればその寒さたるや…でもお楽しみは用意されています。
Lincoln Centerはまさにその中心地、ニューヨークフィル、バレエ、そしてオペラの殿堂Metropolitan Opera(通称Met)が鎮座しています。中でもメトロポリタン歌劇場は、その規模やクオリティからいっても世界の名だたる歌劇場に遜色のない豪華な布陣を誇り、オープニングガラの華やかさは眩しいほどに煌びやかです。
 メトロポリタン歌劇場(通称Met)の始まり、これは19世紀末に遡ります。1880年の設立から3年後、現在のブロードウェイと39丁目あたりに建てられたオペラハウスでその初演が行われたのが1883年10月22日のことでした。演目は「ファウスト」。当時、勢いを増していたニューヨーク社交界の重要な交歓の場としても大いにもてはやされました。1892年8月27日の火災で閉鎖したものの、その後、立て直しと拡張を重ね1966年にリンカーンセンターに本拠地を移すまで上演を続けました。
現在のLincoln Centerの建設が発表され、建築家Wallace=K=Harrisonの手によるNew Metのワールドプレミアが行われたのが1966年9月16日、その初演の演目は「アントニーとクレオパトラ」、指揮はサミュエル・バーバーでした。New Metの堂々たるデビュタントの夜でした。

さて時代を遡ってみます。Newに対してOld Met、その歌劇場の歴史は、ある夫人の怒りによって産声を上げました。当時ますます勢力を得ていた新興富裕層と建国以来の歴史を背に堅く結束する旧家との溝は互いに折り合うところのないまま、社交界を二分していました。
当時の社交の場の象徴ともいえたThe Academy of Musicの桟敷席への申し込みを拒否されたのがAlva.Vanderbilt.Belmont(1853-1933)。「ならば建ててしまいましょう。」と早速、行動を始めたアルヴァ。義父であるWillam.Henry.Vanderbiltもお気に入りの嫁の訴えと計画に賛同し、新たなオペラハウスの建設に出資しました。もうけられた桟敷席に陣取ったのはヴァンダービルト家やモルガン家をはじめとした一族の面々。輝く宝石と流行のドレスを華やかにまとった紳士淑女たちの様子は「Diamond Horseshoe」と名付けられるほどきらびやかなものでした。
歴史を誇る階層からの拒絶を理由に新たに設けたその場も「カトリック、外国人、ユダヤ教徒」の立ち入りは厳しく制限されていました。拒絶が生んだ新しい拒絶とでもいえましょう。

昨年も9月27日にガラが開催され、ワーグナーの「Der Ring des Nibelungen」が華やかに今シーズンのオープニングを飾りました。当日は朝からあいにくの雨。それでも場外にセットされた大スクリーンにしばし足を止めて、見入ってしまいました。

*The Academy of Music(NE)..2.Irving Place
*Former site of Metropolitan Opera(NE)…W38-39th st & Broadway
*Lincoln Center… W68th st& Amsterdam ave