先生が亡くなって、今日が初七日。
御葬儀も終わられたことだし、気持ちを切り替えボチボチとblogも通常ペースに戻そう。
まずは書きそびれていたことから。
先週の日曜日、社中の後輩ちゃんとお茶会に寄せていただいた。
ある方からのお声がけで、その御社中のお茶会。
会場はナント、その方がお稽古に通われている先生のお宅。
11月の終わりにしては暖かい、穏やかな晩秋の休日、
武蔵野の面影が残る閑静な住宅街の一画にあるその場所へと向かった。
まずは三畳台目の小間にて薄茶席。
躙口から席入りして、座についてホッとしてから点前座を見て「ん?」。
隣にいた後輩ちゃんに「逆勝手の向切。(点前をよく観察してね)」と囁く。
逆勝手の向切は横浜の三渓園の蓮華院で見た。→参考
原三渓が好んで使っていたのだそうな。
それで興味を持って、社中稽古もしたっけ。→こちら
逆勝手ながら、風炉の本勝手(本勝手隅炉)と同じ配置だから妙に点前がしやすかった。
ちなみに、大徳寺塔頭・瑞峯院の安勝軒も逆勝手向切の茶室。→こちら
こちらのお茶室は約半世紀が経っているとのことで、とてもいい雰囲気。
回ってきた干菓子器は青年部行事で作った一閑張。(若狭盆の形状)
後輩ちゃんに「希望すれば、ウチの青年部でもできるヨ」とも囁いた。
母屋で点心をいただいた後、濃茶席へ。
前席にて亥の子餅をいただいた。
お菓子も美味しかったけど、お部屋もステキでついついキョロキョロしてしまう。
築80年くらい経っているそうだ。
思わず「空襲で焼けなかったのですか?」
どうもね、東京といえば空襲で全滅~という印象が強かったから。
「当時は田舎でしたから~」との御返事に、「なるほどなぁ」と思った。
そういえば、数年前にもやはり武蔵野にあった大正時代のお屋敷でのお茶会に行ったっけ。
個人的にはこの時代がとても好きだから、身を置いてるだけでも嬉しい気分になった。
その気分のまま、腰掛待合へ。
「お茶会」だけど、茶事のような流れが有り難い。
おそらく、普段はよく茶事をされているのだろう。
露地のお掃除も行き届いていて、とても清々しい気分になった。
ここで夜咄の茶事やったら、さぞかし風情があるだろうなぁ。
露地のお掃除、たいへんだったろうなぁ。
とかって、ぼんやり考えながら席入りを待つ。
同席のお客は私たちのほか4名様。
たまたま、初心者の方とか他流派の方だったので、
前席での会話の流れからかなぁ、御社中の若先生から「お正客を」と声をかけられる。
蹲居をつかっての席入りだったけど、茶事の稽古でやっているからサッサと済ます。
(後の方々から「お正客の通りにやればよかったので、助かった」と感謝される)
こちらのお茶室は二畳台目。
水車の羽とか竹とか廃材を利用した箇所が上手く取り入れられて、味わいのある茶室。
中里太郎右衛門(無庵)さんのお茶碗にたっぷり練られた濃茶を美味しく伺う。
お道具はいずれも御社中のみなさんの思い入れ深いものを取り寄せられたとのこと。
その暖かさも感じた。
茶室の方々もお外で誘導されている方々も皆さん親切に接していただいた。
その暖かさをもっとも感じたのが、最後の広間席。
お茶会の終了時刻を過ぎていたのだけど、4名ばかり残ったので、
お点前をしていただいた。(恐縮デス)
実は、このお茶会で楽しみにしていたのが「座礼」棚。
正座をせずとも点前ができるスグレもの。
立礼棚と違い、炭手前から真台子まで可能とのこと。
御社中は人数も40名を超えていらっしゃるようで、年齢層の幅も広そう。
年配になってもお稽古ができる配慮は羨ましい限り。
私たちの社中でも、年配者が多く、いずれも膝を痛めてお点前できない方多し。
いずれ、私もそうなるだろう。
私の先生も入院中のベットの中で真台子のイメトレしてらしたけど、
実際に座って点前されたのか、きっとかなり遡るのだろう。
もう一度、御自分で点前したかったろうに。
と、先生が亡くなって1週間経って再度、座礼棚の写真を見直して思う。
これからの茶道の点前のあり方を示している棚に見えた。
ということで、すっかり堪能して後輩ちゃんと会場の御宅を後にした。
「やっぱり、御社中のまとまりっていいよねぇ」みたいなことを話しながら。
振替稽古や月釜で顔を合わすことはあっても、社中まとまって茶会を開くなんて、ない。
私はそこに感心しつつ、やはり昭和レトロな建物に感動していた。
後輩ちゃんが「約80年前って、いつ頃になるんですかぁ」と聞いてきた。
「えっと。。。たぶん見てないだろうけど、朝ドラの『カーネーション』見てる?」
「見てマス。職場で昼休みに」
「あの時代だよ。もっとも、昭和初期だから最初の方。
神戸のおじいちゃん、おばあちゃんの家とか、料亭とか、あーゆー感じでしょ」
「『おひさま』とも同じ時代ですか」
「あれは主に昭和13年以降だから、ちと違う。
昭和1ケタの時代はね、満州事変とか国際連盟脱退とか軍事面には暗いけど、
庶民は明るくお洒落を楽しんでいたんだよね」
「へぇ~」
会話しながら、ふと気がつく。
昭和になる少し前の大正末期。東京には関東大震災があった。
おそらく、それで山の手の富裕層が武蔵野の郊外に移り住んだのだろう。
そう思ってみたら、駅のホームからも昭和初期の豪邸が見えた。
後輩ちゃん「すごいですねぇ」と感心している。
だから、「うちらの稽古場だって、あそこと同じ頃に建っってるヨ」
「え そーなんですかぁ」
先生から伺ったことがある。たしか、昭和5年だか6年だったと。
「よく見てごらん。洋間の暖炉のあととか、欄間とか、時代が感じられるよ」
「そっか、お庭も立派ですもんねぇ」
「そうだね。茶室仕様になっていないから、つい“隣の芝生”に思っちゃったけど、
うちらの環境だって、恵まれているんだよ」
「そうですねぇ」
その時は、まさかその先生が危篤だったなんて、知る由もなかった。
翌朝に先生が息を引き取るだなんて、夢にも思いもしなかった。
後輩ちゃんは「その時ウキウキしていた自分を凄く悔しく感じます」と書いていた。
それも、もっともな思いかな
ただ、私は全然違う考え。
先生が亡くなる前日に、他所の社中のお茶会に参会できたことはよかったと思う。
改めて「社中」として一緒に稽古ができる大切さと意義について、再認識できたから。
だからね、この先のことはまだ決まってないけど、
以前から考えていた選択肢の中から選ぼうと思っていた道とは別の方向へ進むと思う。
でも、それをちゃんと選ぶのはまだ少し先でいい。
blogを書き続けたことで、先生との思い出もしっかり書き残されている。
まずはゆっくり読み返してみたい。
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まずは書きそびれていたことから。
先週の日曜日、社中の後輩ちゃんとお茶会に寄せていただいた。
ある方からのお声がけで、その御社中のお茶会。
会場はナント、その方がお稽古に通われている先生のお宅。
11月の終わりにしては暖かい、穏やかな晩秋の休日、
武蔵野の面影が残る閑静な住宅街の一画にあるその場所へと向かった。
まずは三畳台目の小間にて薄茶席。
躙口から席入りして、座についてホッとしてから点前座を見て「ん?」。
隣にいた後輩ちゃんに「逆勝手の向切。(点前をよく観察してね)」と囁く。
逆勝手の向切は横浜の三渓園の蓮華院で見た。→参考
原三渓が好んで使っていたのだそうな。
それで興味を持って、社中稽古もしたっけ。→こちら
逆勝手ながら、風炉の本勝手(本勝手隅炉)と同じ配置だから妙に点前がしやすかった。
ちなみに、大徳寺塔頭・瑞峯院の安勝軒も逆勝手向切の茶室。→こちら
こちらのお茶室は約半世紀が経っているとのことで、とてもいい雰囲気。
回ってきた干菓子器は青年部行事で作った一閑張。(若狭盆の形状)
後輩ちゃんに「希望すれば、ウチの青年部でもできるヨ」とも囁いた。
母屋で点心をいただいた後、濃茶席へ。
前席にて亥の子餅をいただいた。
お菓子も美味しかったけど、お部屋もステキでついついキョロキョロしてしまう。
築80年くらい経っているそうだ。
思わず「空襲で焼けなかったのですか?」
どうもね、東京といえば空襲で全滅~という印象が強かったから。
「当時は田舎でしたから~」との御返事に、「なるほどなぁ」と思った。
そういえば、数年前にもやはり武蔵野にあった大正時代のお屋敷でのお茶会に行ったっけ。
個人的にはこの時代がとても好きだから、身を置いてるだけでも嬉しい気分になった。
その気分のまま、腰掛待合へ。
「お茶会」だけど、茶事のような流れが有り難い。
おそらく、普段はよく茶事をされているのだろう。
露地のお掃除も行き届いていて、とても清々しい気分になった。
ここで夜咄の茶事やったら、さぞかし風情があるだろうなぁ。
露地のお掃除、たいへんだったろうなぁ。
とかって、ぼんやり考えながら席入りを待つ。
同席のお客は私たちのほか4名様。
たまたま、初心者の方とか他流派の方だったので、
前席での会話の流れからかなぁ、御社中の若先生から「お正客を」と声をかけられる。
蹲居をつかっての席入りだったけど、茶事の稽古でやっているからサッサと済ます。
(後の方々から「お正客の通りにやればよかったので、助かった」と感謝される)
こちらのお茶室は二畳台目。
水車の羽とか竹とか廃材を利用した箇所が上手く取り入れられて、味わいのある茶室。
中里太郎右衛門(無庵)さんのお茶碗にたっぷり練られた濃茶を美味しく伺う。
お道具はいずれも御社中のみなさんの思い入れ深いものを取り寄せられたとのこと。
その暖かさも感じた。
茶室の方々もお外で誘導されている方々も皆さん親切に接していただいた。
その暖かさをもっとも感じたのが、最後の広間席。
お茶会の終了時刻を過ぎていたのだけど、4名ばかり残ったので、
お点前をしていただいた。(恐縮デス)
実は、このお茶会で楽しみにしていたのが「座礼」棚。
正座をせずとも点前ができるスグレもの。
立礼棚と違い、炭手前から真台子まで可能とのこと。
御社中は人数も40名を超えていらっしゃるようで、年齢層の幅も広そう。
年配になってもお稽古ができる配慮は羨ましい限り。
私たちの社中でも、年配者が多く、いずれも膝を痛めてお点前できない方多し。
いずれ、私もそうなるだろう。
私の先生も入院中のベットの中で真台子のイメトレしてらしたけど、
実際に座って点前されたのか、きっとかなり遡るのだろう。
もう一度、御自分で点前したかったろうに。
と、先生が亡くなって1週間経って再度、座礼棚の写真を見直して思う。
これからの茶道の点前のあり方を示している棚に見えた。
ということで、すっかり堪能して後輩ちゃんと会場の御宅を後にした。
「やっぱり、御社中のまとまりっていいよねぇ」みたいなことを話しながら。
振替稽古や月釜で顔を合わすことはあっても、社中まとまって茶会を開くなんて、ない。
私はそこに感心しつつ、やはり昭和レトロな建物に感動していた。
後輩ちゃんが「約80年前って、いつ頃になるんですかぁ」と聞いてきた。
「えっと。。。たぶん見てないだろうけど、朝ドラの『カーネーション』見てる?」
「見てマス。職場で昼休みに」
「あの時代だよ。もっとも、昭和初期だから最初の方。
神戸のおじいちゃん、おばあちゃんの家とか、料亭とか、あーゆー感じでしょ」
「『おひさま』とも同じ時代ですか」
「あれは主に昭和13年以降だから、ちと違う。
昭和1ケタの時代はね、満州事変とか国際連盟脱退とか軍事面には暗いけど、
庶民は明るくお洒落を楽しんでいたんだよね」
「へぇ~」
会話しながら、ふと気がつく。
昭和になる少し前の大正末期。東京には関東大震災があった。
おそらく、それで山の手の富裕層が武蔵野の郊外に移り住んだのだろう。
そう思ってみたら、駅のホームからも昭和初期の豪邸が見えた。
後輩ちゃん「すごいですねぇ」と感心している。
だから、「うちらの稽古場だって、あそこと同じ頃に建っってるヨ」
「え そーなんですかぁ」
先生から伺ったことがある。たしか、昭和5年だか6年だったと。
「よく見てごらん。洋間の暖炉のあととか、欄間とか、時代が感じられるよ」
「そっか、お庭も立派ですもんねぇ」
「そうだね。茶室仕様になっていないから、つい“隣の芝生”に思っちゃったけど、
うちらの環境だって、恵まれているんだよ」
「そうですねぇ」
その時は、まさかその先生が危篤だったなんて、知る由もなかった。
翌朝に先生が息を引き取るだなんて、夢にも思いもしなかった。
後輩ちゃんは「その時ウキウキしていた自分を凄く悔しく感じます」と書いていた。
それも、もっともな思いかな
ただ、私は全然違う考え。
先生が亡くなる前日に、他所の社中のお茶会に参会できたことはよかったと思う。
改めて「社中」として一緒に稽古ができる大切さと意義について、再認識できたから。
だからね、この先のことはまだ決まってないけど、
以前から考えていた選択肢の中から選ぼうと思っていた道とは別の方向へ進むと思う。
でも、それをちゃんと選ぶのはまだ少し先でいい。
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