4日も経ってからやっとUPというのも恐縮だけど、連休最終日に講演会を聴講した。
演目は『楽茶碗・歴代の時代背景と特長』、講師は三井記念美術館の赤沼多佳先生。
4年前、三井の展覧会「赤と黒の芸術 楽茶碗」に先立つ講演会を聴いて面白かったから、
今回も大いに期待
当日の猛暑日一歩手前の暑さに加え、大きな会場でスライド投影のスクリーンも巨大で、
拡大しすぎて色が薄くなってしまった?
ということで、ちょっと御機嫌斜め?でいらっしゃった、かも。
そのせいか、「え?そうだっけ?」的な間違いを連発していらっしゃって、
いちいち話の中から取捨選択しながら、面白いエピソードを拾い上げるのに難儀した
まず、「楽焼」の定義について。
狭義では、楽家のほか分家した大樋焼、玉水焼、ならびにこの3つの窯で焼かれたもの。
(例えば、本阿弥光悦も道入の窯で焼かれたし、千家の家元により手づくねも同様)
これ以外は技術的や見た目がそれっぽくても、それは“楽焼”ではない
ところが、現在では楽家と関係のない人も“楽茶碗”を焼いているし、
幕末には道八や御庭焼で近いものを焼いていた。
「同じような土で、焼き方が同じならば、それが『楽焼』なのか」
という問題が出てきそう。
あと、焼き物の成立として、バックボーンに茶の湯があるというのも大事なこと。
茶の湯のための特殊な技術で焼かれ、茶の歴史を担い、家元の好みや時代背景を反映している。
楽焼の定義を厳密に限定すると需要と供給のバランスが悪い
だから、この“本来の”違いを念頭に入れて楽茶碗と付き合いましょう、とのこと。
では、その楽茶碗はいつ誕生したのか。
天正7年~8年(1580年前後)くらいなのだそうだ。
あ、織田信長がまた生きている時代だったのネ。(本能寺の変が天正10年だから)
現存する楽茶碗の中で最古のものは、長次郎の赤茶碗「白鷺」(今日庵蔵)。
これは帰宅後に本を読み返したら、ちゃんと書いてあった
昨秋、茶道資料館の『わび茶の誕生』展で目録にはあるのに展示されてなかった
→参考
いつか、見たいなぁ。
楽茶碗の技術はどこから来たのか。(長次郎はどこの国の人だったのか)
これは最近の研究で、獅子像のお腹から出てきた釉薬で二彩と判明して解決
(つまり、朝鮮ではなく中国。
「2年前に」と仰ったけど、4年前の講演会でも仰ってましたけど~)
ちなみに、獅子像。
当代の吉左衛門さんが4年前の講演会で「物心ついた時から自宅にあった」と仰ったので、
代々に渡って受け継がれたのかと思ったら、そうではなく、
弘入さん(明治末期~昭和初期)の時代に聚楽第跡から出土したらしい。
「天正2年に長次郎作る」と書いてあったので、「コレ、お宅のでしょ?」と届けられたとか。
長閑な時代だなぁ。
歴代の茶碗をグルーピングすると、
初代の長次郎、田中宗慶、2代の常慶の「古楽(こらく)」の時代。
利休の心を追究していて、ゆがみは追究してない。
常慶は寛永年間に没し、楽家は江戸時代を迎える、
“楽の名人”と呼ばれた三代・道入は柄を取り入れたりしてガラッと変わる。
(明暦の大火で土を失ったこともあったし?
でも~明暦の大火って江戸の街じゃあなかったっけ???)
背景には美濃焼の台頭、織部焼の流行や仁清の華麗な京焼の存在がある?
(きっと、伊万里や光悦の茶碗もあるだろう)
やはり、きれいな茶碗の方が売れるからね
ところが、次の一入の晩年に利休百回忌があり、利休回帰の流れがくる。
(だから、一入さんの作品の中には長次郎的な茶碗が多い)
ちなみに、一入さんはビンボーだったらしい。
(「長生きだった」と仰ったけど、享年56歳で他の代と比べても大差ないのよねぇ
了入さんか慶入さんと混同しちゃったのかなぁ)
一入さんには実子がいたのに庶子だったので、その子は分家させて「玉水焼」ができ、
本家は養子をとって、宗入さんの時代に。
続く6代の左入さんの時代。
この養子続きの2代も一つにグルーピングされる。
特徴は「個性を表現した時代」
続く長入さんの時代になってまた変わる。
時代は如心斎、一燈斎の頃。
七事式の成立し、家元制度も確立した。
「茶道」が稽古事として形式化した。
茶の湯を担う楽茶碗も“形式化”していくことになる。
8代の得入さんは若くして亡くなったからパス。
(19歳で、、、じゃなく30歳までは生きていらっしゃったんだけどねぇ)
そして、中興の祖といわれる了入さんの時代へ。
了入さんは長入さんが作った形式化を打ち破り、「これが手づくねダ」を強調する。
道入に回帰したような、「楽茶碗とはこんなもの」というイメージを完成する。
そのイメージがその後の代(旦入、慶入~)に受け継がれていくことになるんだって。
ただ、弘入さん、惺入さんは明治維新の“冬の時代”。
先代・覚入さんによると「お茶が羽ばたいている時代は茶碗も大きいんだよね」。
つまり、寒い時代のお二人の茶碗は小ぶりなのだそうだ。
このお二人に限らないけど、本来は『茶わん屋』であるべき楽家なのに、
他の茶道具(香合とか懐石の向付)を焼いたのは、茶碗だけでは食べていけなかったから。
家元に寄り添っていても、けっしてラクな生活ではなかったことが察せられる。
あとは長次郎と宗慶・常慶親子の関係はやっぱりナゾとか、
スライドを見ながら歴代の特徴的な茶碗の解説も面白かった。
本来は90分の予定を20分延長して、むりやり終えたって感じ
暗い中で必死にノートをとったので、乱筆ぶりはすさまじい
11ページにわたって、汚い字が飛びまくっているけど、おかげで記憶に残った。
先生が結びに仰った言葉が心に響いた。
「勉強しないと知識は身につかない。でも、知識を得ることが目的ではない。
得た知識を使って楽しんでほしい」
まさに我が意を得たり
だから、ワタシは今、茶道を存分に楽しんでいる。
ただ、自分で実際に楽茶碗を所有するのはムリっ
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演目は『楽茶碗・歴代の時代背景と特長』、講師は三井記念美術館の赤沼多佳先生。
4年前、三井の展覧会「赤と黒の芸術 楽茶碗」に先立つ講演会を聴いて面白かったから、
今回も大いに期待
当日の猛暑日一歩手前の暑さに加え、大きな会場でスライド投影のスクリーンも巨大で、
拡大しすぎて色が薄くなってしまった?
ということで、ちょっと御機嫌斜め?でいらっしゃった、かも。
そのせいか、「え?そうだっけ?」的な間違いを連発していらっしゃって、
いちいち話の中から取捨選択しながら、面白いエピソードを拾い上げるのに難儀した
まず、「楽焼」の定義について。
狭義では、楽家のほか分家した大樋焼、玉水焼、ならびにこの3つの窯で焼かれたもの。
(例えば、本阿弥光悦も道入の窯で焼かれたし、千家の家元により手づくねも同様)
これ以外は技術的や見た目がそれっぽくても、それは“楽焼”ではない
ところが、現在では楽家と関係のない人も“楽茶碗”を焼いているし、
幕末には道八や御庭焼で近いものを焼いていた。
「同じような土で、焼き方が同じならば、それが『楽焼』なのか」
という問題が出てきそう。
あと、焼き物の成立として、バックボーンに茶の湯があるというのも大事なこと。
茶の湯のための特殊な技術で焼かれ、茶の歴史を担い、家元の好みや時代背景を反映している。
楽焼の定義を厳密に限定すると需要と供給のバランスが悪い
だから、この“本来の”違いを念頭に入れて楽茶碗と付き合いましょう、とのこと。
では、その楽茶碗はいつ誕生したのか。
天正7年~8年(1580年前後)くらいなのだそうだ。
あ、織田信長がまた生きている時代だったのネ。(本能寺の変が天正10年だから)
現存する楽茶碗の中で最古のものは、長次郎の赤茶碗「白鷺」(今日庵蔵)。
これは帰宅後に本を読み返したら、ちゃんと書いてあった
昨秋、茶道資料館の『わび茶の誕生』展で目録にはあるのに展示されてなかった
→参考
いつか、見たいなぁ。
楽茶碗の技術はどこから来たのか。(長次郎はどこの国の人だったのか)
これは最近の研究で、獅子像のお腹から出てきた釉薬で二彩と判明して解決
(つまり、朝鮮ではなく中国。
「2年前に」と仰ったけど、4年前の講演会でも仰ってましたけど~)
ちなみに、獅子像。
当代の吉左衛門さんが4年前の講演会で「物心ついた時から自宅にあった」と仰ったので、
代々に渡って受け継がれたのかと思ったら、そうではなく、
弘入さん(明治末期~昭和初期)の時代に聚楽第跡から出土したらしい。
「天正2年に長次郎作る」と書いてあったので、「コレ、お宅のでしょ?」と届けられたとか。
長閑な時代だなぁ。
歴代の茶碗をグルーピングすると、
初代の長次郎、田中宗慶、2代の常慶の「古楽(こらく)」の時代。
利休の心を追究していて、ゆがみは追究してない。
常慶は寛永年間に没し、楽家は江戸時代を迎える、
“楽の名人”と呼ばれた三代・道入は柄を取り入れたりしてガラッと変わる。
(明暦の大火で土を失ったこともあったし?
でも~明暦の大火って江戸の街じゃあなかったっけ???)
背景には美濃焼の台頭、織部焼の流行や仁清の華麗な京焼の存在がある?
(きっと、伊万里や光悦の茶碗もあるだろう)
やはり、きれいな茶碗の方が売れるからね
ところが、次の一入の晩年に利休百回忌があり、利休回帰の流れがくる。
(だから、一入さんの作品の中には長次郎的な茶碗が多い)
ちなみに、一入さんはビンボーだったらしい。
(「長生きだった」と仰ったけど、享年56歳で他の代と比べても大差ないのよねぇ
了入さんか慶入さんと混同しちゃったのかなぁ)
一入さんには実子がいたのに庶子だったので、その子は分家させて「玉水焼」ができ、
本家は養子をとって、宗入さんの時代に。
続く6代の左入さんの時代。
この養子続きの2代も一つにグルーピングされる。
特徴は「個性を表現した時代」
続く長入さんの時代になってまた変わる。
時代は如心斎、一燈斎の頃。
七事式の成立し、家元制度も確立した。
「茶道」が稽古事として形式化した。
茶の湯を担う楽茶碗も“形式化”していくことになる。
8代の得入さんは若くして亡くなったからパス。
(19歳で、、、じゃなく30歳までは生きていらっしゃったんだけどねぇ)
そして、中興の祖といわれる了入さんの時代へ。
了入さんは長入さんが作った形式化を打ち破り、「これが手づくねダ」を強調する。
道入に回帰したような、「楽茶碗とはこんなもの」というイメージを完成する。
そのイメージがその後の代(旦入、慶入~)に受け継がれていくことになるんだって。
ただ、弘入さん、惺入さんは明治維新の“冬の時代”。
先代・覚入さんによると「お茶が羽ばたいている時代は茶碗も大きいんだよね」。
つまり、寒い時代のお二人の茶碗は小ぶりなのだそうだ。
このお二人に限らないけど、本来は『茶わん屋』であるべき楽家なのに、
他の茶道具(香合とか懐石の向付)を焼いたのは、茶碗だけでは食べていけなかったから。
家元に寄り添っていても、けっしてラクな生活ではなかったことが察せられる。
あとは長次郎と宗慶・常慶親子の関係はやっぱりナゾとか、
スライドを見ながら歴代の特徴的な茶碗の解説も面白かった。
本来は90分の予定を20分延長して、むりやり終えたって感じ
暗い中で必死にノートをとったので、乱筆ぶりはすさまじい
11ページにわたって、汚い字が飛びまくっているけど、おかげで記憶に残った。
先生が結びに仰った言葉が心に響いた。
「勉強しないと知識は身につかない。でも、知識を得ることが目的ではない。
得た知識を使って楽しんでほしい」
まさに我が意を得たり
だから、ワタシは今、茶道を存分に楽しんでいる。
ただ、自分で実際に楽茶碗を所有するのはムリっ
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来月から、家で灰型の練習をしようと思い、唐銅の面取風炉を購入しました。先生にお灰何キロ位必要かお尋ねたのですが明確なお返事がありません。ご存じありませんか?
追伸 先日、茶道資料会館へ圓能斎鉄中宗室展へ行きました。よかったですよ。後期展示も行く予定にしています。
初めまして。
閲覧、ありがとうございます。
風炉灰の量、確かに一概に決まった量はねぇ。。。
なぜ、先生が明確に仰らないのか、ちゃんと理由があるんですよね。
(当blogのカテゴリー「灰形・灰作り」を読んでいただければ、ヒントがあるかも)
風炉を購入したお店で灰も売ってるハズですから、ご相談ください。
一つ言わせていただくならば、我流で灰形は身につかないと思います。
(ちゃんと社中の先生に習うか、もしくは灰形教室に入って、基本から習われることをオススメします)
円能斎展、9月に行こうと計画中デス。