ひとりの後に?を付けたのは彼が神の子とされているからだ。そうイエスキリストの事。
イエスを十字架刑に処した人間達が神の怒りにふれ・・・。ナザレのイエスの弟子たちが
イエスが処刑されると知って逃げ出したのであり、原始キリスト教団が結成されるまでの間
贖罪の意識からイエスを祭り上げた書を書いたともいえる。
それはともかくとして イエス・キリストを崇拝してきた今日までに、どれだけの命が失われた
そう考えると殉教=聖人という方程式は成立しないと考える次第だ。
もし、彼が、神が存在するならば命を対価にするとは純粋に考えれば考えるほど逆説的な論理破綻と
言わざるを得ない。
もし、彼が本当に神の子ならば処刑されるはずもなく、それを許した神こそが原罪を背負うべき
ではないか?
もし、たったひとりの「彼」がいなければもしかしたら人間の血が流れずに済んだのではないか?
僕は「聖書」を読んで感動してキリスト教に入信したなんていう人を信じることができない。
そもそも、日本においてすらカソリックとプロテスタントの訳が違う。(共同訳なんてものも
あるくらいで)
さらにいえば、もっともっと昔の聖書と比べれば表記表現が違いすぎるのである。
表現表記の違いーその部分が意外にもパワーフレーズになっていることもある位。
信教の自由があるのでこれぐらいで。
pSなぜイエスは殺されなければならなかったか なんて西洋の本があるけれど、殺されなければ
ならないのではなくて 殺されるためにイエスが必要だったというのが私の解釈