大学受験で悩み自死をしてしまったそうだ。両親共働きでおそらく気にはしていたのだろうが、
本当の気持ちを汲んであげられなかったのだろう。知人には悪いが精神科の受診をしていた位だから、
なぜ?注意して見守ることをしてあげなかったのか、残念で腹立たしい。
芸能人もテレビも「波乱万丈な人生で死のうと思った位だ」とたやすく取り上げているが、人生を送るう上で
どん底や壁にぶち当たることが多々ある。ちなみに死のうと思った事があるというのは実は言葉のあやで
死ぬ気は殆どないといっても良いと個人的には思っている。自死をする人は、死のうと思ったらその思いを
他人に打ち明けることは少ない。
精神科のドクターは、万能ではないし忙しさにかまけて真剣に対峙する人は少ないのではないか?
余り事細かに聞くことははばかられたので詳細はわからないが、死にたいという言葉を聴いたとしたら
人間としてそれが心からの叫びなのかどうかはわからなければならないはずだ。
自死の可能性が大きいと判断したら閉鎖病棟に入院させて24時間監視対象にするべきではなかったのか
とも思う。近年やたらと『うつ病』だと面白おかしく?或いは気軽に使う風潮があるのが許せない。
私は、過去に数人の自死願望者とメールの交流をしており、現在はまた新たな悩みを聞いているのだが、
死ぬことは人間は誰でも好む好まないに関わらずいつかはその時が来るのだが、それを自分で決める
必要はないのではないか?明日もしかしたらとても良いことがあるかもしれないから、とりあえずあと一日
まってみようぜなどと、メールをし始めた。こうしたやり取りは、とても大変でそれは固定概念を強くもっていて
それをいかに揉み解すかとか、ちょっと回り道をしてみようといってもなかなか自分の感情を曲げようとしない
「自死」は決して美しいものではないのだ、首をつれば脱糞脱尿などをおこすし、洗剤を使ったそれも
体の色がかわるし、最後の表情は苦悶に満ちたものなのだ。
真剣に対峙すればおのずと道は開かれるという当たり前のことを再認識してもらう作業のれんぞくだが、
まさかという気持ちである。