『賭ける魂』(植島啓司 著/講談社現代新書)
昨日のうちに読み終えられませんでしたが、きょう行った四日市競輪場(第2回Kドリームスカップ<FⅡ>[初日])ですぐに完読しました。
この本は、麻雀・競馬・カジノと長年のギャンブル経験から作者(作者の本業は宗教人類学者)が考察した、不確実な現代社会を生き抜くヒントや楽しみ方が記されています。
いきなり、序文から
「毎日100人が自殺している国(日本のこと)など先進国といわれている国々の中には他にひとつも存在しない。」
という、なんとも重たい文章があり、
「一体、どんな内容やねん?」
と思って読み進めていくと、
何のことはない、作者の超ポジティブ思考が脈々と綴られていています。
「ギャンブル大肯定」から繰り出す人生観がメインの内容(一応…)ですが、
中には「勝ち自慢」「負け惜しみ(自慢?)」も記されていました。
あと「運」というものについても、かなりの量をつかって記されています。
大まかに言えば上記なのかな、という感じですが、印象的な部分の幾つかを下記します。
意外に聞こえるかもしれないが、ギャンブルで最も大切なのは「信じる」ということだ。
…しかし、ここが重要なところなのだが、何かを信じても勝てるとは限らないが、何かを信じないで賭ける人間はほぼ百パーセント負けてしまうのである。ギャンブルでは、とにかく何かを信じて突き進むと、自分でも想像外のことがいくらでも起こりうるのだ。
今までそんなことは考えてみたこともなかったのですが、
たしかに勝った時は「何か」を信じて(「何か」とは自分自身のときもあれば賭けの対象(馬など)であったり、出目であったり)買っているもんですが、
「何」も信じずに買っている時は、負けていますね。
「信じる」「信じない」って大きいですわ、何するにしても。
われわれの日常にはおそろしくムダな時間があふれている。特に、睡眠、それから仕事。遊んでいると自覚しているムダな時間のほうが、仕事をしていると錯覚しているムダな時間よりもはるかによい。
ここを読んだとき「姫が好きそうなことやなぁ」と思いましたが、
一日最低6時間は遊ばないと人間らしい生活とは言えないのではなかろうか。そのための奥の手は「眠らない」ことだとぼくは確信しているのだが。
この部分は、私も激しく同意しますね
ギャンブラーにとって、勝つことの次によいことは賭けて負けることであり、一番よくないのはやらないこと、やれないことである
「やらずに正解」「やれずで正解」という賭けを何度も経験している私からすれば、
負けるより損失なしの方がベターな気はするのですが、
「ギャンブラー」という言葉を「人生」という言葉に置き換えると、
メチャクチャ理解も納得も出来ますね。
運は、いくらつかってもただちに減ることはないが、大局的には、ただひたすら一方的に下降していくものなのである。
つまり、運の量は元々100あって、
それをA君は88使いながら再び100まで補給していくのに対し、
B君は15だけしか使えなかったので、
側から見ると「A君の方が運がある」と思われがちですが、
A君もB君も元々の運の量は100がMAX。
そのMAXが歳をおうことに減っていくという意味みたいです。
したがって、10年後A君は運を20使ったがB君は75使ったとすると、
側からは「最近、B君にも運が向いてきたな」ということになりそうですが、
実際には、A君・B君ともに運のMAXが90になっている、というようなことだと思います。
運に量があるという考え方は、たまに聞きます。
私は「運の量」という考え方ではないので、なんとなく違和感があるのですが、
運のMAXが、想像を絶するくらいの量だとしたら、理解できないこともありません。
いずれにしても、この作者の「超ポジティブ」的な考え方は、とても理解できます。
元々、私は「ネガティブなものをポジティブなものに変えていく」という考え方だったのですが、
最近はそれ以上に「ネガティブもポジティブに捕えてみよう」という感じになっています。
だから、私も好きな「ギャンブル」というものを通してみている作者の考え方に、理解できるものがあるのでしょうね。
昨日のうちに読み終えられませんでしたが、きょう行った四日市競輪場(第2回Kドリームスカップ<FⅡ>[初日])ですぐに完読しました。
この本は、麻雀・競馬・カジノと長年のギャンブル経験から作者(作者の本業は宗教人類学者)が考察した、不確実な現代社会を生き抜くヒントや楽しみ方が記されています。
いきなり、序文から
「毎日100人が自殺している国(日本のこと)など先進国といわれている国々の中には他にひとつも存在しない。」
という、なんとも重たい文章があり、
「一体、どんな内容やねん?」
と思って読み進めていくと、
何のことはない、作者の超ポジティブ思考が脈々と綴られていています。
「ギャンブル大肯定」から繰り出す人生観がメインの内容(一応…)ですが、
中には「勝ち自慢」「負け惜しみ(自慢?)」も記されていました。
あと「運」というものについても、かなりの量をつかって記されています。
大まかに言えば上記なのかな、という感じですが、印象的な部分の幾つかを下記します。
意外に聞こえるかもしれないが、ギャンブルで最も大切なのは「信じる」ということだ。
…しかし、ここが重要なところなのだが、何かを信じても勝てるとは限らないが、何かを信じないで賭ける人間はほぼ百パーセント負けてしまうのである。ギャンブルでは、とにかく何かを信じて突き進むと、自分でも想像外のことがいくらでも起こりうるのだ。
今までそんなことは考えてみたこともなかったのですが、
たしかに勝った時は「何か」を信じて(「何か」とは自分自身のときもあれば賭けの対象(馬など)であったり、出目であったり)買っているもんですが、
「何」も信じずに買っている時は、負けていますね。
「信じる」「信じない」って大きいですわ、何するにしても。
われわれの日常にはおそろしくムダな時間があふれている。特に、睡眠、それから仕事。遊んでいると自覚しているムダな時間のほうが、仕事をしていると錯覚しているムダな時間よりもはるかによい。
ここを読んだとき「姫が好きそうなことやなぁ」と思いましたが、
一日最低6時間は遊ばないと人間らしい生活とは言えないのではなかろうか。そのための奥の手は「眠らない」ことだとぼくは確信しているのだが。
この部分は、私も激しく同意しますね
ギャンブラーにとって、勝つことの次によいことは賭けて負けることであり、一番よくないのはやらないこと、やれないことである
「やらずに正解」「やれずで正解」という賭けを何度も経験している私からすれば、
負けるより損失なしの方がベターな気はするのですが、
「ギャンブラー」という言葉を「人生」という言葉に置き換えると、
メチャクチャ理解も納得も出来ますね。
運は、いくらつかってもただちに減ることはないが、大局的には、ただひたすら一方的に下降していくものなのである。
つまり、運の量は元々100あって、
それをA君は88使いながら再び100まで補給していくのに対し、
B君は15だけしか使えなかったので、
側から見ると「A君の方が運がある」と思われがちですが、
A君もB君も元々の運の量は100がMAX。
そのMAXが歳をおうことに減っていくという意味みたいです。
したがって、10年後A君は運を20使ったがB君は75使ったとすると、
側からは「最近、B君にも運が向いてきたな」ということになりそうですが、
実際には、A君・B君ともに運のMAXが90になっている、というようなことだと思います。
運に量があるという考え方は、たまに聞きます。
私は「運の量」という考え方ではないので、なんとなく違和感があるのですが、
運のMAXが、想像を絶するくらいの量だとしたら、理解できないこともありません。
いずれにしても、この作者の「超ポジティブ」的な考え方は、とても理解できます。
元々、私は「ネガティブなものをポジティブなものに変えていく」という考え方だったのですが、
最近はそれ以上に「ネガティブもポジティブに捕えてみよう」という感じになっています。
だから、私も好きな「ギャンブル」というものを通してみている作者の考え方に、理解できるものがあるのでしょうね。