Eri's blog

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2021/04/13

2021-04-13 09:16:00 | 日記
本を読みました。西岡力さんの「朝日新聞 日本人への大罪」という本を読みました📕
最近、西岡力さんが元朝日新聞記者の植村隆さんとの慰安婦記事の裁判で勝訴したそうで、この本を図書館で借りてみました。

慰安婦問題の本質は、1991年8月から1992年1月にかけて朝日と反日運動家らが共謀して「日本軍が女子挺身隊という公的制度を使い朝鮮人女性を奴隷狩りのように強制連行して慰安婦として兵士らの性のはけ口に使った」という虚構を一時的に信じさせる集団催眠状態を作ったことです。
それに刺激されて韓国世論が激高し、ときの宮沢喜一内閣が事実を調べないでまず謝罪するという大失態を演じました。
宮沢首相はなんと8回も盧泰愚大統領に謝りました。
ここから全てが始まったそうです。


1965(昭和40)年の日韓国交正常化以降の反日は3期に区分できて、第1期は65年から朴正煕政権が倒れる1979(昭和54)年までです。
朴正煕政権は戒厳令と衛戍令を敷いて国内の反対運動を抑えて日韓国交を結び、国交交渉においては過去の清算についても強く主張したが一旦、条約・協定を結んだ後は歴史問題は外交交渉に持ち出すことはなかったそうです。

しかし、朴正煕大統領は歴史認識において反日感情はなかったのかといえば、そうではないみたいです。

朴正煕政権時代の最大の反日は、1974(昭和49)年8月15日に朴正煕大統領夫人が在日韓国人の文世光によって射殺されたときのことでした。

日本が北朝鮮のテロ活動を取り締まらず韓国の安保を大きく脅かす状況になり、激しい反日が起きたそうです。

韓国の反日の第2期は1980(昭和55)年の全斗煥政権成立、特に第一次教科書問題が起きた1982(昭和57)年から始まりました。

当時、全斗煥政権は韓国軍近代化資金の不足分150億ドルの3分の2の100億ドルを日本に対して負担して欲しいと求めてきて、韓国が日本を守ってやっているという論理だったそうです。

1982(昭和57)年に第二次教科書問題が勃発しました。日本のメディアが「華北への侵略」という原稿が検定によって「華北への進出」に書き換えられたと誤報したことが発端でした。

実は原稿段階から「進出」とされていたことが判明していたが、朝日新聞など日本国内の反日勢力は連日、文科省批判を続けたそうです。

まず、中国政府がこの日本国内の反日キャンペーンに便乗して人民日報が日本批判の口火を切り、外交ルートで日本の教科書の内容の訂正を求めました。
すると、全斗煥政権も朝日新聞と中国と共闘する形で外交ルートで教科書の訂正を求めました。
ここで初めて、韓国が歴史問題を外交に取り上げる新しい反日が誕生したそうです。