普通は避けたい、逃げたいと思うような試練、試みを喜びと考える、それも最高の喜びと見なすようにと、ヤコブ書の1章2節に書かれていのす。
ヤコブ1:2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
これは驚きです。そんなことができるのか。その理由が次に書かれています。これがわかったら、その信仰は、初級ではなくて中級、上級ほと向かっているかも知れない。
1:3 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
忍耐とは、「とどまって動かない」
ためされるとは、テスト、本物かどうかを見分けるための試練、検査
私は信仰のテストを経験し、忍耐することを経験し、また次のテストがあり、忍耐することを選択して、「信仰がためされると忍耐が生じるということを、体験的に少しは知ったと言えます。
夫の定年退職と同時に癌が見つかった。そこで、教会の近くの社宅を出て田舎の家に移り住んだ。
夫への伝道と教会生活のためには、田舎の教会に移ろうかも思ったが、母教会に忍耐する、とどまって動かない方を選んだ。毎週日曜日には、10時半からの礼拝に、家を6時半に出て教会に通うこと8年間。
教会に通えなくなった最後の1年間に、夫が信仰告白をして受洗し召された。母教会からの訪問やサポートを受けて、夫を天に送るこができた。
召天式の100日後には、家を売却する手続きをして、母教会の近く転居した。母教会にしっかりとどまって動かないことを決断したのだった。
信仰がためされると忍耐が生じるということ
母教会に通うかどうかだけでなく、信仰がためされることは様々にあった。
夫を在宅で看病して、二人で家庭で信仰生活をするか
親戚の寺の境内の墓の処分すること
寺関係の親戚が多い中で、キリスト教でするお葬式、
建てて10年の家、家具、持ち物の処分
それらを一つ一つ信仰をもってくぐり抜ける中で、ますます忍耐するようになった。信仰が揺らぐことなく、とどまって動かないことが祝福であることを知る経験を積み上げてきました。今は教会のすぐ近くで、さらに祝福された生活をしています。
だから、
さまざまな試練に会うときは、これをこの上もなく喜びと思いなさい。
色々な試練、試み、誘惑に陥るとき、それを最高の喜びと思えることは、ただの理想ではなくて、本当にそうだなと、こんな経験から思えます。
イエス・キリストは、贖い主としての使命を全うするために十字架の苦しみを忍耐された。公生涯は三年半。十字架上の苦しみは六時間、死から復活まで足かけ3日。そしてその報いは永遠です。
私達が救い主イエスを見て、天国を仰ぐ時、この世での忍耐が御国に招き入れられるための信仰のテストだ思えば、報いは最高のものであるから、最高に喜ぶことができると思えます。苦笑いするような生活ではなく、喜び、読めおどる信仰生活を続けたい。