ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

神のコーリングに答える

2020-12-02 22:35:36 | 喜び
神のコーリングは3段階がある。
1 救いへの召しのコーリング 
2 教会への召しのコーリング 
3生活の場への派遣へのコーリング

私は、それぞれの家庭、職場、学校、地域にあかしをし宣教するために派遣されることもコーリングということを初めて知りました。そして救われのも、教会生活の中で訓練を受けるのも、その目的が派遣されるところにあったことがはっきりしました。

派遣先で神の栄光を現して証しし宣教をして実を刈り取れるようにと、回心をしてはっきり救われて、教会という家庭の中に置かれて、その中で必要なしつけ、訓練を受けて整えられて、今度は遣わされて出て行く

しかも、三位一体の神とともに行くことになることを忘れてはならない。そのためには、普段の日常生活の中で、いつも神に祈り、みことばに聞き、聖霊との交わりを持ち続けて、神の導きに敏感になっていなくてはならない。

なぜなら、宣教は主の働きであり、私達は主のしもべなのですから。朝のデボーションが、聖霊に満たされて派遣され出て行くための、献身の姿勢を整えられる時となるようにと変えて行きます。

教会が本当の永遠の家庭、家族であり、私達は教会から夫や妻、子供達のいる家庭に神の権威と力をともなって遣わされて行き神の働きをする。

霊の赤ちゃんとして生まれて育てられた教会を愛し、何があっても教会にとどまっていないと、神のコーリングを失うことになる。

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鍼灸院の先生に福音を

2020-12-02 18:01:46 | 弟子づくり
最近、ほぼ週に一度会っている鍼灸院の先生。彼は猛烈な勉強をしたとのことで、そっと手や足に触れるだけで、ツボの状態を見極めて体内の血とか気の流れが見えるそうです。
 
私が最近目がかすみ、疲れていることも、触ったらわかると、ちょっと自慢げに言われました。それはそうでしょう。信徒説教の準備と入力奉仕に励んでいたのですから。
 
しかし、さらに私の奥には、生けるいのちの水を湧き出させている泉があることまでは見えていません。聖霊を知らないのですから当然です。
 
私は話を聞いてもらって治療を受ける立場ですが、反対に、先生がどんなに熱心に勉強したか、弟子づくりをしようと採用しても続かなくて寂しいとかの話を寝たままゆったりと聞かせてもらいました。
 
別の部屋で患者さんが待っているでしょうに、結構な時間、私の部屋に滞在された。そして私が少し自分のことを話すとふと我に返ったように部屋を出られました。
 
教会のある姉妹が福音を語ったら、プルラリズムのような返答だったそうです。私以外にも、教会から何人も通っています。聖霊が彼の中ですでに働いていることを願います。
 
医院内には、私が通っている歯医者さんにあるような神社の熊手等は見えませんが、小さい動物の置物がたくさん飾られています。待合室の本箱には生き方を求めるような本も並んでいますが、その傾向は一つではないように見えました。
 
次週の治療に行く日を、祈って備えて、聖霊が働かれるのを期待して待ちます。
 
 
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神のことばが、長いか短いか

2020-12-02 09:43:56 | 新約聖書
ローマ書12章1-2節を読んだ。アーメンと言ってから、そういうわけでと話が続いている。私は祈りの後すぐに立ち上がって、この世の事を考えていたことを悔い改めた。
 昨日、今日の落ち葉の掃除にしても、神様からの聖霊による語りかけを意識してよく考えて奉仕しようと思った。
 
 へブル書からの信徒説教のためにへブル書を通読しようとした時、実は自分は聖書を読んでいないことに気付いた。目が見えにくいこともありCDの助けを得て一時間近くもかかって読んだ後、これが「手短」に書いたものだとあって驚いた。
その後、鍼灸院のベッドで横に横になっている時に、「手短」という言葉が思い浮かんだ。旧約のことばと自分達で作った律法を守って来た長い歴史を持つユダヤ人たちにとって、この手紙を聞いて深く理解するなら、その神のことば、へブル人への手紙は、言葉どおりに、本当に短いみことばだなと。
 
また、私が22年前に、牧師との面談の中で祈りに導かれた学びの時間を取っていただいたことを思い出す。ほんの手短に福音のポイントを教え祈りに促してくださった。それ以降、ずっと聖書を読み続けることになり、牧師の説教を聞き続けることになったのだから、それ以降にいただく情報量は相当に大きく、長く、丁寧なものだった。あの時は、当時の私が理解できる範囲にしぼって「手短」に伝えてくださったのだなと思う。
 
へブル人への手紙を読んだ人は、それによって旧約聖書のとらえ方がすっかり変わって新約のことばが鮮明になって来て、クリスチャンがどんどんと増え広がって行ったことでしょう。私も福音をきちんて語って、その方の人生が神様によって変えられていくのを見たいと願います。
 
時々、伝道会での牧師の話が長すぎるから短くしてほしいという要望が信徒から出ることがあるが、それは間違いであると思った。それまでの何十年かの生き方についての見方がすっかり変わり、永遠に信仰生活を続けていくことになるためのターニングポイントとなる貴重な時なのだから、1時間、2時間という時間の単位で測れるものではないと思う。むしろ、神が神の時を導いているのだから、時計の時間を見て牧師を止めようとすることは不信仰なことであると思う。
 
デボーションによって考え方が変わり、それが行動にまで反映されるためには、みことばによって深く納得説得させられないと、人間はちょっとした決心や決断では変れず、変わったとしても長続きしない。信徒説教がヤコブ書に移った。これから、メッセージを聞くだけでなく、原典から確認して読み進みたいと思う。また誰かとその学びと応答を分かち合い祈り合って、祈りが聞かれることをともに体験するこができるようにと祈り願った。弟子訓練のテキストを一緒にしている姉妹が原典からの学びに興味と関心を持ってくださることを祈っている。
 
 
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