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ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをまとめています

主からの警告と導き

2020-09-24 | 礼拝説教
教えられた真理
出エジプトのとき、イスラエルの民は
みなが雲の下におり、
みなが海を渡った。
みながモーセにつくバプテスマを受け、
みなが同じ御霊の食べ物を食べ、
みなが同じ御霊の飲み物を飲んだ。
ところが、大部分のものは神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされた。
現在の私達も、神のみこころにかなう生活をしていないと信仰を全うできなくなる。
ただ、みなと同じように真似をして喜んで楽しく教会生活をしているだけであるなら、はたして信仰を全うすることができるだろうか。
神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知っていく必要がある。


明かされた自分の霊的状態
 教会で奉仕するを際に、その仕事の意味、目的を神に喜ばれる動機と姿勢でやっているのかの点検をしていなかった。祈って神に聞くことを怠っていた。
 記念集会の日に、教会の玄関に寄せ植えを飾ることを自主的にやろうとしていたが、どうもスムーズに進まなかった。理由を考えたら、その方法が神に喜ばれるプロセスを踏むことに不十分で、自分の思いを押し通そうとしていた。自己満足を求めていたことに気づいた。


神様への応答、実践
自分の思い(田舎で庭づくりを楽しんでいたのが懐かしい。園芸の上手な彼女の前で私にもできることを見せたい。献品するのだから好きなようにしても良いでしょう)
これらの思いを主に委ねてしまいました。
★自分なりのやり方で植物を栽培していただけで、実はよくわかっていないことを認め、園芸の上手な人に、弟子にしてくださいとお願いした。
★下働きを積極的にした。植木鉢を洗う。古い土を捨てた。
★記念日の玄関の植物についての教会全体の企画があるかどうかを副牧師に確認した。
★土や苗の買い物は、車の運転ができる人に頼み、園芸の上手な人に同行してもらって、苗を選ぶのを手伝ってもらう
自分に死んだことにより、神様はこのように導いてくださいました。
自分が頑張ろうと思って委ねていなかったら、きっと疲れていたことだぅ。


恵みとあかし
高慢になって滅びることがないように具体的に戒めを与えてくださった。
御霊の岩からほとばしり出た水は川となって豊かにイスラエルの多くの人々を潤した。私は避難所での給水車から流れ出る水ぐらいを何となく想像していた。私の考える聖霊の満たしが、小さすぎました。
神が源でイエスが岩。水は聖霊を現わすのだろうか。謙遜に低くなり祈り求めるなら、日々みことばは応えて導き続けてくださっています。
第一コリント10章1-5節より



臆病者は救われない。コロナも恐れない信仰を

2020-09-02 | 礼拝説教
友人から質問があった。主日礼拝でヨハネ14:27で語られた「恐れる」とか「臆病者」という言葉はギリシャ語では何というのかと。私がJばいぶるでギリシャ語を検索することができることを知っている友人からですから、早速調べたら、説教の中で語られたことがクリアーになりました。


ヨハネ14章27節は「心を騒がすな」「恐れるな」という命令で始まっている。
「心を騒がすな」は14章1節にも命じられている。現在形・受動態です。

コロナに感染した人、コロナに関する情報に、心が騒がされることがあっても、それをずっと続けて心騒がし続けてはいけないことを、今日みことば(原語から)検索して、はっきり教えられた。


「恐れるな」は、おびえ続けるな、びびり続けるな、命令形です。能動態・現在形です。
どのように能動的におびえないでいられるようになれるのだろうか。
二カ所の聖句から示されました

①この世の気休めのような励ましの言葉ではなく、イエス・キリストによって与えられている主にある平安に目を定めることです。
ヨハネ14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

②神が与えてくださった、霊的なもの
神の力、
神の愛、
神からの慎み(健全な思慮分別・時制・自己訓練)を、
これらを、すでに持っていることを考えよう。
Ⅱテモテ1:7 神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。


知っているだろうか。そのようなことを怠って、流されるまま、恐れひびっている者が最後にどうなるのか。
臆病者と呼ばれて、信仰のない者と同じく永遠の滅びに入れらることになります。
黙示録21:8 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」


聖霊は、恵みにより、恐れびびるクリスチャンに、まえもって、既にみことばを与えてくたさっていました。それが起こったとき、悔い改めて主を信じるためでした。

①クリスチャンは、恐れこわがりビビッている状態をイエス様から注意を受けたら、たとい薄くても信仰はあるのだから大丈夫だろうと思っていてはいけない。謙遜になって、すぐに悔い改めて、主に立ち返らなくてはならない
マタイ8:26 イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。

②恐れビビっている状態を、イエス様は信仰を持っていない状態であると言われる。すでに与えられて、自らの手の中に持っているものを、識別していなくてはならない。イエス様に信仰がない、信仰を持っていないと警告されるクリスチャンでいてはならない。
マタイ4:40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
マタイ 13:12 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。

すでに神の愛とあわれみによって、与えられ、持っている者を忘れないで、主にある平安のうちに、謙遜に、しかし大胆に、恐れることなく、今日も生きていきます。




失格者とならないように・・・私は甘かった

2020-08-10 | 礼拝説教
自分は、もう、救われている。神の導きと守りの中にいると、Ⅱテモテ4章7.8節を読んで、なんとなく安心していたのですが、間違いであったことが示されました。
Ⅱテモテは、困難、苦難の中を走り切ったパウロが遺言のようにして書いた手紙でした。

今、信仰の走路の途中にいる私は、次のことばに目をとめなくてはならない

ピリピ3:13 わたしは、自分はすでに捕らえたなどと考えてしません
Ⅰコリント10;12 立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
Ⅰテモテ4:16 そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。

主日に語られた説教も、榊原康夫先生の注解書も
「自分は失格者になるかも知れない」という恐れを持って、いつも緊張して、走らなくてはならないという結論に導いていました。

自分は楽したいという、自己中心の思いがみことばを読む時に、みことば理解を微妙に歪めようと働いている。



足腰が弱って来た私ですが、走り続けます

2020-08-10 | 礼拝説教
「ああ、宣教のためには、厳しいトレーニングを頑張らないと、賞はもらえない。せっかく信仰を始めても、結局地獄に行くことになるのか。
こんな、怠けているような自分は、すでに失格者だ。もう駄目だ!!」  

もし、このように思うなら、きっとそれは、読み間違いだと思います。
私は疲れやすくて、よく昼寝をします。座って立つという動作でさえ、だんだん難しく感じるようになっています。

パウロがコリントの人々に書いた手紙を読んでこう思ったのでした。
9:24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
 9:25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
 9:26 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
 9:27 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです

冠とはどういうことだろうかと、検索して、同じくパウロがテモテに書いた手紙を読んで考えました。

賜物に応じて、聖霊の導きと促しに応えて、精一杯お仕えし続けよう。途中で不適格、不合格と自ら判断した、信仰生活から退くことのないようにして、勇敢で忍耐しているなら信仰が全うされることに希望が持てると思いました。

Ⅱテモテ
4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
 4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。



主人公はだれか

2020-08-06 | 礼拝説教
使徒の働きの主人公は、前半はペテロ、後半はパウロかと思っていたが間違いであったと知った。
ルカの福音書で、イエスが行ない始めたこと、教え始めたことが書かれていて、その続きの使徒の働きには、イエスの霊、聖霊が行ない続けていることが書かれているので、
使徒の働きの主人公は、使徒たちを働かし、動かしている聖霊である。

使徒の働き1章1-5節から礼拝説教がなされて、そのことを知った直後に、私達の教会の牧師の、牧会〇〇年の記念会がなされた。
何人かの兄姉が、牧師夫妻と並んで講壇に立ち、牧師夫妻に感謝の言葉を伝えた。
私は花束やプレゼントを贈った後の、締めのお祈りをするようにと依頼されていた。

そこで、ここまで牧師を支え導いてくださった神様に焦点を当てて、讃美と感謝のお祈りしようと思って、講壇の下でマイクを持ち、使徒の働き1章8節をまず読んで、説教への応答をしながら祈りました。

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説教の中で、聖霊に浸されることが、染物の話を例にして語られた。私は、この自我を握ったままで、明け渡していない部分があるので、染めむらがあり、使い物になっていないことを告白した。

牧師一人が、伝道し、牧会し、教育するのではなく、信徒の一人一人が、主に委ね、献身をして、さらに聖霊の満たしを求めよう。
教会全体が一致して、失われた魂を捜して救う主の働きに用いられるようにと成長していくことを祈りました。

コロナ禍、その他、問題に囲まれていますが、すでに天には住まいが備えられていますから、安心して、平安のうちに、神の栄光を現す教会となって行きますようにとお祈りをしました。

祈りは前もって準備をしたものではなかった。その時、聖霊様が祈らせてくださったものなので、後でアーカイブを聞いて、自分でも感動しました。

染物の話では、自分の中の自我が染まっていないということだけでなく、この人、この地域、この今は、聖霊に満たされるのは無理だと、私が勝手に考えて、聖霊の働きを邪魔していたことに気づかされ、悔い改めました。

牧師から、これから始まる使徒の働きの連続講解説教に備えて、一度通読をするようにと勧められた。検索すると使徒の働きの中に「主」は110回 「霊」は67回書かれている。歴史の背後に働いている主の霊に注目して、読んでみよう。