ふるさとを想う(五泉市民新聞)

2008年01月03日 | Weblog

私の故郷、五泉の地方紙「五泉市民新聞」の新年の随想に自分の拙文が掲載された
ので、ここにも残しておこう。(あだかず本名は抹消)
市民新聞社のHさんとは、五泉応援団という活動の中で少し馴染みのある方で、
以前にも簡単なインタビュー記事を載せてもらったりしたことがあった。
その前任の方にも、私たちの小学校時代の文集の復刻に関すること、このホームペ
ージの紹介など何回か紹介記事を載せてくださって感謝している。この五泉市民新聞は、
数少ない地域の情報紙として50年あまり頑張り続けている。記事本文を以下に再掲する。

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五泉を離れて既に四十数年が経ち、東京、神奈川で生活する歳月の方が遥かに長くなった。
それでも「五泉」への想いが消えることはない。五泉に戻ったとき、はじめに迎え
てくれる白山や菅名岳の山並みを見て、ふるさとに戻ったことを実感し、胸が熱くなる。

しかし時代の流れと共に五泉の町も変わった。かつて五泉駅から真っ直ぐ進むと、
旧昭和通りの十軒長屋があり、その少し先からは田園地帯となり、大田川の橋に辿り着く。
だが今は、大田川の先まで市役所などの市街地が拡がり、風景は様変わりした。
ふるさとを離れた者には、生まれ育った頃の風景や街並みこそが、
「ふるさと」という思いが強い。

特に淋しく思うことは、五泉小学校の木造校舎が解体されてしまったこと。
多くの卒業生が多感な少年時代を過ごし、思い出を刻んだ木造校舎は、かけがえの
ない「宝物」のひとつだった。昔はみんな貧しく上履なしの裸足で過ごすことが多かった。
素足から伝わる廊下の木の温もりは、今も忘れない。

ところで最近、私のゴルフ仲間のひとりから「戦時中に、父親の郷里だった五泉に
疎開したことがある」という思いがけない話を聞いた。その人は五泉小学校に何年か通学し、
父親が「日東ゴム」の工場に勤めていたという。確か昭和二十年代の半ばまでは、
日東ゴムの高い煙突が、駅前通りの先に聳えていた。子供たちは「日東ゴムの煙突
は細くて長くて真っ黒けのけ」などと囃し立てたものだ。

そのころ、私の実家は駅前通りにあった。家の周りの小さな水路には、イトヨ
(トゲソ)をよく見かけた。冷たい湧水の中で鳥のように巣を作る魚。
当時は井戸水が、どの家からも湧き出ていたから、町の中でも生息できたのだろう。
六、七年前に保護活動を進めている「五泉トゲソの会」の高橋さん、中村さんを知り、
土堀の生息地で数十年ぶりにトゲソを見せてもらい感動した。

五泉には、もう父も母もいないが、兄妹たちがいて幼馴染もいる。そうした人達がいれば、
ふるさとへの思いが絶えることはない。暫く前に、四十七年振りという小学校の同級会が開かれ、
恩師・斎藤先生をはじめ、昔日の面影を残した仲間たちと再会できた。
これほどに感激した同級会は後にも先にもない。

また近年、東京で開かれる「五泉応援団総会」は、ユニークな企画で楽しい。五泉から
参加される方々も含め、様々な年代の人達にも会える貴重な場所になっている。

私は趣味でホームページを開いているが、そのテーマのひとつも「五泉」に関すること。
折々に撮った五泉の街の写真、兄の友人でもある洋画家・石川雄二さんの絵や随筆、
写真集団・村松の林寛さんの写真など、五泉の原風景ともいうべき作品を紹介。
またパソコンで制作した楽しい音楽などもある。インターネットを利用されている方は、
下記のアドレスからどうぞ。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ada-kazu/        

ところで五泉のニットなどの地場産業が、大変苦戦していると聞く。価格競争では
中国製品に太刀打ち出来ない、多くの業界でも共通する課題だ。しかし今は、少々価格が高くとも
デザインや品質で商品を求める消費者も少なくない。そうしたことで活路を拓いて欲しい。
また、他にも自慢できる物産が沢山ある。これらの販売促進を個別のパンフではなく、
通販の総合カタログのように纏めれば、買ってみたいという心理が一層働くように思う。

今、団塊世代の定年退職が始まっている。「こころざしを果たして、いつの日にか・・」と、
事情が許せばUターンを望む人もいると思う。もし地域の活性化にも役立つならば、
都市計画の「まちづくり事業」に加えては如何であろうか。五泉が、いつまでも帰りたいと思う
「ふるさと」であって欲しい。

(上記の掲載文と多少異なっています)



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