>>空母バンカーヒルに特別攻撃隊として突撃した小川清少尉の零戦は、同時に特攻死した安則盛三機に続いて、1920年の5月11日、「アイランド」と呼ばれる艦橋に突き刺さりました。
突入前に投下した爆弾と、自らの機によって、バンカーヒルはいたるところ火の海となり、この突入の瞬間だけでも多くの人命が失われました。
しかし、小川機はバンカーヒルに多大なダメージを与えたのにもかかわらず、機体の識別が出来るくらいに原形をとどめ、さらに驚くべきことには操縦者の小川少尉の遺体は―下半身こそ無くなっていたものの―傷一つなく、まるで眠っているようであったそうです。
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●遺品と遺族探し 当時、バンカーヒル乗組員であったロバート・ショック氏(故人)は被害にあったバンカーヒルの処理に当たっていた。その際、焼失されることなく残っていた零戦を発見し、パイロットの遺品を持ち帰り、大切に保管していた。 そのロバート・ショック氏も2000年11月17日に他界した。孫のダックス・バーグ氏は祖父の遺品を整理中にこの遺品を発見した。バーグ氏はその処理に関して、勤務先の上司であるポール・グレース氏に相談した。 一時は遺品の競売も考えたバーグ氏であったがグレース氏の説得もあり、遺族に返還することとした。グレース氏は偶然、日本人を妻としていたが、その妻、美幸・グレース氏を中心として特攻戦死者の遺品返還という大変困難と思われるプロジェクトが始まったのである。
美幸・グレース氏は米国でトップクラスの通訳の一人と言われている。通訳業務の傍ら、精力的にこのプロジェクトを推進していった。 幸運にもたまたまその時防衛庁が美幸・グレース氏の顧客になっていた。早速調査したところ、小川少尉の名前、出撃日、出身地から2000年12月19日にはもう所属部隊と遺族の連絡先が見事に判明したのである。美幸グレース氏は12月24日に遺族宛てにその旨手紙に認めた。遺族は転居し、宛名の小川松一氏もすでに故人となっていたが、12月30日には遺族のもとに届いたのである。その後、小川少尉の同級生、同期生の協力で短歌を贈ったのが岩間氏であり、遺品の写真の人物も判明した。 ●その後
このように特攻戦死したパイロットの遺品返還という大変珍しいニュースはアメリカでも関心を集め、サンフランシスコクロニクル紙、共同通信(AP)に掲載された。国内でも上毛新聞(4月1日)、産経新聞群馬版(4月13日)にも掲載され、日本テレビでも朝の番組で放送された。 (資料、写真提供:小川少尉ご遺族、美幸・グレース氏、サンフランシスコクロニクル紙) |
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