私の頭の中の鉛筆

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「七歳の捕虜」光俊明著

2015-10-11 16:56:42 | 親日

 

 

 

 

>>この回顧録で、主人公の少年は「学校に行かせてあげたい」という実母の望で中国軍の将校に預けられるが、その将校が少年に「新しい名前」として俊明(しゅんめい)という名前を与えてしまったことから、やがて少年は自分の実名、そして母のいる街を忘れてしまう。
やがて将校とともに日本軍の捕虜となった少年は「としあき」と呼ばれ、日本軍の兵士に可愛がられ、ともに従軍していくのだ。
敗戦後、バンコクの収容所に中国軍の使節が少年を迎えに来るのだが、中国語さえ忘れ、母の所在地も思い出せない少年は日本へ行くことを希望するのだ。

本書にはこの中国からインドシナへの行軍の間の日本兵について数多くのことが記されている。
一般に中国大陸での日本軍は「鬼」のようにいわれることが多いが、少年の見た日本兵は思いやりのある優しい大人たちであった。
先にマレーへ入っていた少年を可愛がっていた日本兵がバンコクで少年と再会すると号泣して「よかったな」と語りかけたという話には生きることの難しかった時代の心情を感じ、思わずぐっときたのである。

現在、神戸で貿易商を営む著者は1980年代になってテレビ局の力と国際機関を通じて中国の実母を探し求めたが、やっと見つけた母だと名乗る人物が、実母ではなく、未だに生みの母には再会できずにいることが書かれていた。
その母だと名乗った中国人の老女も戦中に子どもとはぐれ、常に探し求めているのだという。
そしてこのような中国人親子の離れ離れの話は無数にあり、社会的問題の一つだという。



強制連行とは・・・

2015-10-11 10:47:38 | かの国

 

>>▽「朝鮮総督府の手紙」の文字起こし(旧漢字は新字体に変換)
<前略>契約期間が終わる頃となりましたが、此の戦争が続く限り石炭や鉱石が沢山必要で
ありますから、どうしても帰鮮せねばならぬ特別の事情の無い限り再契約をして引続いて働く
決心をして頂きたいと思ひます。
その契約は三年でも五年でも長い方がよいのです。早く家族を呼寄せて今の仕事を続ける事が
立派な皇国臣民であります。諸君は寮や職場の人と仲よくし、警察署や協和会、会社の人の
指導を良く聞くやうにし、また新らしくそちらへ行った方は先輩の教へにも克く従ひ、皆と共に
立派な皇国臣民となって楽しく仕事に勢を出す様に心掛けて下さい。
之からは段々寒くなりますから、身体に注意して、怪我や病気に罹らないで働くやうに御祈りして
居ります。
昭和十六年十月一日  朝鮮総督府
産業戦士諸君 


孤児?

2015-10-11 10:44:14 | かの国

 

>>敗戦直後の焼け野原の街に忽然と現れた「戦災孤児」という浮浪児の大群は
中国と半島のエタのガキどもだ、日本人の子供は田舎に疎開していたからな。
その点はマスゴミがみんな嘘をついているから気を付けろ。
マスゴミは特アの「犯罪を犯して逃亡してきたエタの子供」
を日本人になりすまさせて戦後の反日運動に使ってきた。
子供だろうが老人だろうが病人だろうが、特ア人を決して受け入れてはならない。
ことに数年前から中国人も韓国人も急速に世界中で劣等民族として認定されているので
それをリセットするためになんとかして日本人に「背乗り」しようとしているからな。
つまらない親切心から友達になったりすると、殺されて背乗りされるぞ。


本音

2015-10-11 10:38:12 | かの国

 

>>■半島の朝鮮人にとって、戦前から、日本は憧れの地だった■

『もうひとつのヒロシマ』 朴 壽南 1983 (「アリランのうた」制作委員会)からの引用
同書はマスコミがよくとりあげる「朝鮮人被爆者の証言集」ですが、その中には彼らの本音も
「削除」されずに収録されています。

●M・Kさんの証言 【1967年記録、当時64歳女性】

 14のときよ、うちが日本、来たのは。紡績工場、働きに来たんじゃけ、あのとき、年
ひとつ足りんのよ。15じゃいうて姫路の紡績工場、働きにはいったんじゃ。
 大けな工場でのう、朝鮮の娘、300人ぐらいおったよ。寮二つに、いっぱいじゃった。

 うちは自分の自由で、自分から望んで、ムリヤリ、日本、来たんじゃ。家出するみたい
に、来たんじゃ…。はぇ、日本、いきたいてのう、ものすごく日本ええところじゃ思うて、
いきたいんよ。日本の話、きいたら、はぇ、胸がトクン、トクン鳴るんよ。(略)

 あの時分は、日本行ってから、金もうけて帰った人らの話が、村の誰が日本いって、な
んぼ金もうけて帰ってきた、借金返して、流れた田んぼ買うたとか、牛買うた、そんな話
が、あっちでもこっちでも持ちきりじゃったよ。
 はぇ、いなかの村で、はだか足で百姓しとったもんがの、日本行って帰ってくるときは
の、西洋帽子、頭のせて、洋服きて、はぇ、皮靴(ママ)はいて、村帰ってくるじゃけえ、日
本の国、黄金ナラみたい思うたんじゃ。
 おお、日本、開明(文明開化)ナラじゃ、電気明るいし、男も女でも働いたら、働く分、
金になるんじゃ、なんぼでも金もうけでける国じゃ、そんな話、きくのよ。

●三年働いたら、嫁入り支度してからの、ふとん皮やら布地、行李二つ故郷送ったら、現
金が60円残ったよ。それで故郷に帰った。
 五月じゃったか、村の人ら田植えしとる道、うちが、こう人絹の白いパラソルさしての、
水色のチョゴリ着て、こうひざ下の短いチマはいて歩くとの、革靴が鳴るんじゃ。それか
ら、はやりの大けなバスケットさげてから、村の道通ったら、はぇ、口がわるいんじゃ。
「日本がえりじゃ、日本がえりが通るよ」いうて、みんなぁ指さしてみるんよ。
 この年の秋に、おなじ村におった人のところ嫁入りして、夫婦いっしょにまた、日本き
たんじゃ。(略)

 


これ戦後の話ですから!

2015-10-11 10:34:42 | かの国

 

 

>> 日本ではほとんど報じられていないが、昨年から今年にかけて韓国の国会では「過去の恥部」が大きな問題となっていた。
“国家的事業”として多くの自国民を強制収容して暴行し、550人以上が死に至った「釜山兄弟福祉院事件」。
わずか30年前の出来事である。

 こんな証言がある。

「暴行は3000人全員が受けていたはずです。運びだされて病院に行ったまま帰ってこない人も多かった。
管理者は“死んだ”として、“言うことを聞かなかったらそうなる”と僕たちに話しました」

「食べ物をもらえず、手足を縛られて、眠ることも許されない拷問を受けました。
極寒の日に水に投げ込まれたこともあります。今も、夏の暑い日でさえ冷たい水のシャワーを浴びることが怖い」

 このように、昨年、韓国のラジオで壮絶な体験を告白したのは、釜山の「兄弟福祉院」(現在は名称変更)に
1984年から1987年まで入所していたハン・ジョンソン氏である。

 同院は韓国では「韓国版アウシュビッツ」と呼ばれてきた。1975年から1987年にわたって路上生活者や孤児などを
強制的に連れてきては厳しい労働を課し、暴行を加え、死亡させてきたからだ。
収容者総数は3500人とも言われ、死者は551人にのぼる。

 問題なのは、事件の背景に韓国の「国家的意志」があったことだ。
1986年のアジア競技大会と1988年のソウル五輪を控えた韓国政府は当時、
路上生活者や障害者などを街から一掃する「浄化作戦」の一環として大々的な取り締まりを実施した。

 1975年に制定された「浮浪者の申告、取り締まり、収容、保護と帰郷処置および事後管理に関する業務指針」
という内務省訓令第410号に基づき、兄弟福祉院への強制収容が推進されたのである。

 強制収容の対象は路上生活者だけではなかった。

http://www.news-postseven.com/archives/20151011_355275.html
http://www.news-postseven.com/archives/20151011_355275.html?PAGE=2

 ある者は釜山駅のベンチでうたた寝していたらいきなり施設に連れ込まれ、
ある者は突然の雨を避けようと釜山駅前の地下道に入っただけで連行された。

 兄弟福祉院には収容者の数に応じて国から助成金が出ていたからだ。
同院には概ね年間20億ウォン(当時のレートで約7.5億円)が国庫から支払われた。
警察官も、路上生活者を施設に入所させると高い勤務評定を与えられた。
「金」と「評定」を目当てに、施設と警察は市民を片っ端から施設に入れたのである。

 冒頭のハン氏は父子家庭に育ち、地元警察から「国家が支援する施設がある。
そこに任せたほうがいい」と諭されて入所した。
当時ハン氏は9歳。施設には同年齢の子供が100人ほどいたという。

 施設は「福祉院」とは名ばかりの「生き地獄」だった。
過酷な強制労働が課せられ、職員の暴力が蔓延した。パク・イングン院長個人の土地に建物を建てるため、
重労働を強いられた人たちもいた。生き残った収容者の一人は韓国紙「ハンギョレ」にこう証言している。

「毎日のように何の理由もなしに殴られた。長時間、逆立ちさせられ、瞳孔の膜が剥けたが何の治療も受けられなかった」

 食べ盛りの子供が多かったが、食べ物はほとんどなく、「くそ汁」と呼ばれた粗末な味噌汁が配給された。
ハン氏は空腹に耐えかね、ネズミやムカデを食べて飢えを凌いだという。ハン氏は冒頭のラジオでこうも証言していた。

「管理者や職員たちが、子供を相手に性的暴行を働いていました。9歳くらいの少年少女は性的暴行の意味さえわからない。
ただ、反抗したら殴られるので、黙って受け入れていた」

※SAPIO2015年11月号

 

>>500人以上殺しておいて名称変えただけで存続しているんだ、
しかも今の院長は前院長の息子ってw
こりゃあ、今も中では殺人と強姦をやってんな、大した罰則も受けてないようだし
どうせ孤児だかって国も放置しているみたいだしね
ほんと韓国らしいわ