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私の頭の中の鉛筆

とりあえず書いておこう

集めておこう

日本は英霊の御霊とともにあります

2016-08-08 08:22:14 | 社会・経済

 

>>http://www.jinjahoncho.or.jp/konohanasakuya/hoderi/wp-content/themes/jinja/dl/kotonoha.pdf

 

 

日本を日本として守っていただきました

御霊を敬わず恥ずべきこころを持ち

参ることを拒否していてください

 

心が打たれなければそれでいいのです

 

 

 

 

 

 


慶應義塾という意味

2016-08-07 19:45:28 | 社会・経済

 

>>〈「近代ハングルの父」、福沢諭吉の朝鮮独立支援から、「脱亜論」まで 〉

・当時、朝鮮は清(中国)の属国だった。
・諭吉は、朝鮮民族独立のために当時ほとんど使われていなかったハングル文字を復活させ、漢字ハングル混合文を考案

・諭吉は、自費で活字を作り、慶應の弟子(井上角五郎)に命じて、初めてハングル新聞を作った → 朝鮮人の保守派から反発を買う
・諭吉は、自らが作った慶応義塾に、朝鮮人留学生60人を受け入れた(朝鮮では、西洋の学問が禁止されていた)
・諭吉は、金玉均(キム・オッキュン)を慶應で学ばせ、伊藤博文ら要人を紹介、人的、金銭的に独立運動を支援した
       ↓
・金玉均ら独立党の独立運動は失敗に終わる(甲申事変)

   →後に、朝鮮政府は、清が拘束した金玉均を凌遅刑(生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、 長時間苦痛を与えたうえで死に至らす刑)に処した後、
バラバラにした体を、朝鮮全土にさらした (胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で晒された)

・慶應に受け入れた朝鮮人留学生は、学問をせず遊んでばかりか、喧嘩や盗みを繰り返し、慶應の金庫までも荒らした
・朝鮮政府は、独立党の他の党員も処刑し、党員の家族(老人、婦人、幼児まで)も残虐に処刑した

・諭吉、朝鮮とその背後の中国に対して失望する
       ↓
・『脱亜論』を発表する。
情報がこれほど早く行き来する時代にあって、近代文明や国際法について知りながら、
過去に拘り続ける中国・朝鮮の精神は千年前と違わない。(130年経った現在も、当然変わらない)


原爆投下

2016-08-06 15:42:13 | 社会・経済

 

 

>>「当時、小生は京大工学部冶金教室の学生でした。   
原爆が投下される3ヵ月前の1945年5月のある日、冶金教室の主任教授の西村英雄先生に突然呼び出されました。   
先生によると、アメリカの学会から秘密裡にニュースが先生に送られてきて、当時原爆製作を競争していた日本より先にアメリカで成功したというのです。  
そして、その第1回現地テストを広島で行なう予定が決まった。できるだけ早く両親を疎開させなさいということでした」   
永田さんは西村教授の忠告にしたがって、両親をすぐに広島近郊の廿日市に疎開させた。   
おかげで両親は原爆の被害にあわなくてすんだ。   
http://blog.goo.ne.jp/kaodaisuki2007/e/1eaeeba65997afce84426415b01bce02

http://megalodon.jp/2015-0728-2313-57/blog.goo.ne.jp/kaodaisuki2007/e/1eaeeba65997afce84426415b01bce02       

 

 

>>1966年8月6日、被爆21周年原爆慰霊祭の遺族代表に選ばれた中村恭子さん(24)は、ハッキリと覚えていた。
3歳のとき、一家を襲い、地域義勇隊員として勤労奉仕に出かける途中の父・伍(ひとし)さん(当時30歳)を奪われた原爆投下直後のことを。

あのとき、ヨチヨチ歩きだった彼女の記憶は鮮明だ。原爆投下2日後に、自宅のあった広島市横川町二丁目の焼け跡を、ただもう、
涙とともに掘り返す母の姿。川に浮かんだ遺体をトビ口で引きあげる救助隊員。まぐろのようにずらっと並べられた遺体の山と死臭。
救助隊にもらったオニギリをほおばったこと。母とともに焼けたトタンの下で野宿した夜。

すべて今でも彼女のハダと鼻と目が覚えている。3歳児にとっても、それほど強烈な体験だったのだ。

「悪運が強かったのだ」と恭子さんは笑う。というのは、原爆が投下された昭和20年8月6日の前夜の最終バスで、
母ヤヨイさんに背負われて広島市外にある父の実家に食糧調達に出かけたため、助かったからだ。「その数日前から、
8月6日に新型爆弾を落とすから市民は逃げるように・・という米軍のビラがまかれていたそうです。それを見た母が、
あるいは・・・と思って郊外に出かけたのでは・・・」と、恭子さんはヤヨイさん(65)の愛情に感謝する。

残された母と一人娘の歩んだ道はけわしかった。父が洋服仕立業だったためか、いつのころからかヤヨイさんは洋服の行商をはじめた。
恭子さんも母とともに洋服のセールスにはげんだ。恭子さんが運転する車に洋服を積んでは、母とともに中国山脈を越え、島根方面へ出かける毎日だった。

「慰霊祭ですか、何だか外から来た人が、わいわい騒ぐだけで、しっくりしません」と恭子さんは批判的のようだ。(週刊朝日)

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真実はいつか・・・