加藤智大の言動について、2回にわたって説明をしてきましたが
ここで少し注釈をいれましょう。
この加藤智大にかぎらず、今の日本人の「脳の働かせ方」が
「病理の言葉と行動を無自覚に生成しつづけている」という点について述べておきます。
無自覚につくられる「母子密着」「父子密着」というものが
日本人全般にみられる親子三代に亘る特徴的依存であるということ。
「人と自分の間には距離が無いのが当たり前」という考え方が
連綿として親子の間を伝わってきている。
つまり、「誰もが自分の思いをわかってくれているはず、自分と同じ気持ちを持つ」と
疑いも無く受け取っているということだ。
だから当然「相反する意見」や「気に入らない行動を見せるヤツ」がいると
「過大な敵意や緊張を抱く」ことになる。
近所で邪魔な駐車をするヤツ、ふとんをパンパンやかましく叩くヤツ、
上の階でドンドンするヤツなどがいると、
四六時中その相手のことを右脳にクローズアップしてアレコレ考えたり、
そのうち刃物で刺したりする行為は明らかに「逸脱」している。・・
これは「自分が全否定されている」と受け取るためにひきおこされる
異常な反撃というものである。
そのかわりに相手が自分に近寄ってきてくれると「好き」になるという
人間関係の関わり方、病理的な脳の働かせ方をつづける人になる。
これに思い当たるひとは大勢いるかとおもいますが
中には「それのどこが病理的なのか分からない」と言うほど病理的依存を抱える人もいます。
また一方で、母子密着や父子密着は
歯止め無く子どもに過剰に関わろうとすることから
子供にとってみれば虐待に等しい抑圧がのしかかってきて
免れがたい強迫観念が、不安のイメージとして形成されていくことになるでしょう。
さらに言えば、父子密着とは父親不在と同じ意味をもっているということである。
そこに居るはずの父親からは
ついぞ、正しい距離をもって社会と関わることの意味を聞くこと学ぶことが無い関係をしいられたまま過ごすとき、
その子どもは不幸にも遂に社会というものに適応することが難しいままになる。・・
「言葉や社会」などにそれほどの重い意味があるとは思えないという声が
最近、鳴りを潜めている精神科医や
「脳を活かす勉強法、奇跡の”強化学習”」で売れている自称脳科学者の茂木健一郎あたりから聞かれそうですが
この連中にも一言申し上げておくことにしましょう。
「脳は臓器である」という言い方を気に入っている
この先生は、一体何を学んできたのだろうか?
せいぜい遺伝子優勢論を味方にするハードウェアとしての脳しか理解できないでいるようだ。
乳児の脳の働き方を学べば、
「脳を考察すること」は「脳の生成する言葉」を考察することと同義でなければならないことは明らかである。
その茂木先生が「鶴の恩返し」という記憶術を売り出しているという。
しかし、どのような事柄や概念も
ただ記号として暗記するだけでは身に付かないのだ。
加藤少年はそのことを身をもって証明している。
なぜ彼は落ちこぼれる結果になったのかの要因の一つがここにある。
そもそも日本の学習スタイルと進級システムが
茂木健一郎に代表されるような「記号としての言語知識」の「暗記」に
特化されてきたことが「教育の不幸」だけでなく、
「壊れていく日本人の元凶」でなくてなんであろうか。
「ものごとの意味」の正しい理解・認識・イメージをないがしろにしてきたことが
脳の働き方に「行動停止」の病理の危険をはらむことを認識すらできていない有様だ。
いくら脳を恣意的、物理的にしかみられない自称脳科学者でも
言語の了解意識の異常が分裂病であることを知らないはずはないだろうに?
言い換えれば
人の言語の了解意識と関係意識の正常さだけが社会に適応していることを、
すなわち正しい脳の働きを保障しているわけである。
その言語概念・意味性を無視した脳の働き方などありえないのは明白なことである。
加藤少年は
今回ここに述べてきたすべてのことを否応無く「学び」「学ばせられ」
それを生成してやがて病理を進行させたとおもわれる。
(次回は、事件を起こすに至る書き込みを見ていきましょう)
ここで少し注釈をいれましょう。
この加藤智大にかぎらず、今の日本人の「脳の働かせ方」が
「病理の言葉と行動を無自覚に生成しつづけている」という点について述べておきます。
無自覚につくられる「母子密着」「父子密着」というものが
日本人全般にみられる親子三代に亘る特徴的依存であるということ。
「人と自分の間には距離が無いのが当たり前」という考え方が
連綿として親子の間を伝わってきている。
つまり、「誰もが自分の思いをわかってくれているはず、自分と同じ気持ちを持つ」と
疑いも無く受け取っているということだ。
だから当然「相反する意見」や「気に入らない行動を見せるヤツ」がいると
「過大な敵意や緊張を抱く」ことになる。
近所で邪魔な駐車をするヤツ、ふとんをパンパンやかましく叩くヤツ、
上の階でドンドンするヤツなどがいると、
四六時中その相手のことを右脳にクローズアップしてアレコレ考えたり、
そのうち刃物で刺したりする行為は明らかに「逸脱」している。・・
これは「自分が全否定されている」と受け取るためにひきおこされる
異常な反撃というものである。
そのかわりに相手が自分に近寄ってきてくれると「好き」になるという
人間関係の関わり方、病理的な脳の働かせ方をつづける人になる。
これに思い当たるひとは大勢いるかとおもいますが
中には「それのどこが病理的なのか分からない」と言うほど病理的依存を抱える人もいます。
また一方で、母子密着や父子密着は
歯止め無く子どもに過剰に関わろうとすることから
子供にとってみれば虐待に等しい抑圧がのしかかってきて
免れがたい強迫観念が、不安のイメージとして形成されていくことになるでしょう。
さらに言えば、父子密着とは父親不在と同じ意味をもっているということである。
そこに居るはずの父親からは
ついぞ、正しい距離をもって社会と関わることの意味を聞くこと学ぶことが無い関係をしいられたまま過ごすとき、
その子どもは不幸にも遂に社会というものに適応することが難しいままになる。・・
「言葉や社会」などにそれほどの重い意味があるとは思えないという声が
最近、鳴りを潜めている精神科医や
「脳を活かす勉強法、奇跡の”強化学習”」で売れている自称脳科学者の茂木健一郎あたりから聞かれそうですが
この連中にも一言申し上げておくことにしましょう。
「脳は臓器である」という言い方を気に入っている
この先生は、一体何を学んできたのだろうか?
せいぜい遺伝子優勢論を味方にするハードウェアとしての脳しか理解できないでいるようだ。
乳児の脳の働き方を学べば、
「脳を考察すること」は「脳の生成する言葉」を考察することと同義でなければならないことは明らかである。
その茂木先生が「鶴の恩返し」という記憶術を売り出しているという。
しかし、どのような事柄や概念も
ただ記号として暗記するだけでは身に付かないのだ。
加藤少年はそのことを身をもって証明している。
なぜ彼は落ちこぼれる結果になったのかの要因の一つがここにある。
そもそも日本の学習スタイルと進級システムが
茂木健一郎に代表されるような「記号としての言語知識」の「暗記」に
特化されてきたことが「教育の不幸」だけでなく、
「壊れていく日本人の元凶」でなくてなんであろうか。
「ものごとの意味」の正しい理解・認識・イメージをないがしろにしてきたことが
脳の働き方に「行動停止」の病理の危険をはらむことを認識すらできていない有様だ。
いくら脳を恣意的、物理的にしかみられない自称脳科学者でも
言語の了解意識の異常が分裂病であることを知らないはずはないだろうに?
言い換えれば
人の言語の了解意識と関係意識の正常さだけが社会に適応していることを、
すなわち正しい脳の働きを保障しているわけである。
その言語概念・意味性を無視した脳の働き方などありえないのは明白なことである。
加藤少年は
今回ここに述べてきたすべてのことを否応無く「学び」「学ばせられ」
それを生成してやがて病理を進行させたとおもわれる。
(次回は、事件を起こすに至る書き込みを見ていきましょう)
最近、学習方法について色々と考えていたのですが、
茂木健一郎氏の「鶴の恩返し暗記法」のくだりに思うところがあり、質問させていただきたいです。
「丸暗記だけでは事柄や概念は身に付かない」とのことですが、
このページに載っているような方法(理論)についてご意見をお聞きしたいです。
http://wankora.blog31.fc2.com/blog-entry-1295.html
--以下、抜粋始まり--
数学は定義や定理、解き方まで何でも覚えまくってください。
あれはまだ短パンでママと手を繋いでお出かけしてたまだ純粋な頃やった。
僕は九九を覚えずにまともに計算してました。
それでドリルの真ん中辺りで
ぶほー!
って血吐いて倒れてました。
それから学校で九九を強制的に覚えさせられたら簡単に出来るようになりました。
これはもう明らかに暗記が必要ですね。
○難しい証明も定義や定理がスラスラ出るくらいじゃないと中々理解できない。
○解き方についても解き方を覚えてるから問題が解ける。
○大学の数学とか難解なものも、意味わからんままに暗記していったら理解出来るようになる。
数学はたくさん暗記してるからわかるようになります。
覚えてるから理解できて、理解すると更に覚えられるようになり、暗記と理解は切り離せないものです。
だからどんどん暗記をしていってください。
--以上、抜粋終わり--
暗記を推奨しているところだけ見ると、「鶴の恩返し暗記法」と変わらなさそうに見えるのですが、
「理解するために記憶する」(暗記してるからわかるようになる)
「記憶するために理解する」(わかると更に覚えられるようになる)
という「理解」と「記憶(暗記)」の相互作用といったものは、私にも実感するところがあり、
その実感から、このような目的による「暗記」の場合は一概に悪いとは言えないと思うのですが。
A『暗記しただけで終わることがダメ』なのか、
B『そもそも暗記というもの自体がダメ』であり、
理解を目的とした暗記(つまり理解の前段階としての暗記で、定義などを暗唱できるようにするなど)だったとしても話は変わらないのか、
のほせんさんの見解をうかがいたいです。
たいへん本質的なご質問をいただきましてありがとうございます。
たしかに実際のテスト前学習などは、待ったなしの暗記速習しかないわけですから、
わんこらさんや鶴の恩返しより商売上手な人の詰め込み暗記をおしえてもらわなくても、
誰しもやるしかないからやっているわけですね。
しかし、本来の学習のなかでこのような暗記法にまかせていくと、
さまざまな支障があらわれたりします。
たとえば早期幼児教育で大量のフラッシュカードを見せられた子どもは
「ひとり壁にむかってオートマティックにカード言葉を言う」「夜中に奇声を発する」など。
これが極端な事例だといえないことはあとでもうしあげられるとおもいます。
ただ公文式でおなじみの公文が乳幼児プログラムを実施したあとに、
「早期教育の子どもが伸び悩み、メンタル面でも問題を抱えやすいことが」独自調査で明らかにしています。
このようなことがなぜ起こるのかといえば、
正しい脳のメカニズムの無知ないし無視する態度からきているとおもいます。
脳の言語的働き方はつぎのようになっています。
長くなって恐縮ですが必須の内容ですからぜひ頭にいれておいてくださいね。
--•脳の大脳新皮質は、4つの野(や)に分かれている。
前頭葉(創造性をつかさどる)、後頭葉(運動機能の記憶をつかさどる)、頭頂葉(空間性の記憶をつかさどる)、側頭葉(記憶をつかさどる)の四つの野(や)である。
ブローカー言語野は、側頭葉と頭頂葉にまたがって分布している。
ブローカー言語野の「3分の1」のゾーンは、側頭葉に位置している。
側頭葉には、「ウェルニッケ言語野」が分布している。
ブローカー言語野は、この「ウェルニッケ言語野」と隣接して、しかも直接につながっている。
•ブローカー言語野は、「視覚のイメージ」を思い浮べる。
この「思い浮べること」が「右脳」でおこなわれるときは「表象」(ひょうしょう)という。「左脳」でおこなわれるときは「表現」(ひょうげん)である。
左脳(ブローカー言語野)で言葉が表現されるときは、必ず、右脳で、その言葉の「意味」に相当するイメージが表象される。これが「表現のメカニズム」である。(左脳と右脳とは相互性をもって連動している)。
•ブローカー言語野の「3分の1」のゾーンは、「ウェルニッケ言語野」の「触覚の認知」をクローズアップ(大きく拡大した視覚のイメージ)させる。ウェルニッケ言語野の「触覚の認知」とは、「手に触れる、などの皮ふ感覚の知覚」、「味覚」「嗅覚」などの知覚の記憶の中枢神経とつながっている。
「ウェルニッケ言語野」の触覚の認知とは、五官覚(視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚)などの知覚の刺激の記憶をあつめる記憶の野(や)である。
ブローカー言語野の「3分の1」のゾーンは、これらの五官覚による知覚の記憶の対象のどれでも、クローズアップのイメージとして表象させる。
•ブローカー言語野の「3分の1」のゾーンは、「X経路」(視覚の知覚神経)が中心になって支配している。「X経路」は、対象を特定したり、関係づけを完成させる、という「認知」の仕方をおこなう。(例・「水を飲んだ」「食物を摂った」「性をした」など)。
この「対象を特定化する」というときの決定の仕方は、「大脳辺縁系」の欲求、感情の中枢神経がベースになる。
(注・「好き・嫌い、敵・味方」「性をしたい」「好み、嗜好による快感の対象を記憶する」など)。
すると、ブローカー言語野の「3分の1」のゾーンの記憶は、主観的、恣意的、解釈的になる傾向をもつ。--
•ブローカー言語野の「3分の2」のゾーンは、頭頂葉の野(や)に入りこんで分布している。
頭頂葉は、車のナビゲーターと同じような空間性を記憶する。(注・夜、トイレに起きたとき、入眠状態でトイレまで歩いていく。このときの「トイレまでの方向」「トイレまでの距離」「トイレに向かって進むまでにたどる角度」などの意識が空間性についての意識である。この空間性の意識は頭頂葉で記憶されている)。
•ブローカー言語野の「3分の2」のゾーンも「視覚のイメージ」を思い浮べる。
(注・この「思い浮べること」も表象(ひょうしょう)である)。
この「視覚のイメージ」は「パターン認知」が内容になる。対象についての間接的な知覚が記憶されて、これが思い浮べられる。
(注・対象についての「間接的な知覚」と「パターン認知」は右脳のY経路(視覚の知覚神経)によって記憶される。この記憶を特定化して、「認識」の対象として記憶するのが「左脳」に位置するブローカー言語野の「3分の2」のゾーンである)。
•ブローカー言語野の「3分の2」のゾーンは、「自分」の身体の知覚と直接に接触していない対象を認知したり、認識する。
このことは、「他者について分かる」「現実のことについて分かる」「自分の将来や未来の行動について分かる」という客観的な記憶をおこなうという特性をもつ。--
- 「話し言葉」の記憶についてげんみつに定義します。
ブローカー言語野の「3分の2」のゾーンは、「学習する」ことをおこないます。「学習」とは「憶え方」のことです。ブローカー言語野の「3分の1」のゾーンは、「記憶する」ということを中心にして学習します。学習する、勉強するということは第二義的であるということです。だから「暗記(丸暗記)を学習のことだ」と思っている人は、多大なストレスを受け取り心身に病気をつくるのです。このことを正確にご理解なさってください。
ブローカー言語野の「3分の2」は「学習する」「憶え方を学ぶ」ための中枢神経群です。
遠山啓(ひらく)は、このブローカー言語野の「3分の2」のゾーンでの「学習の仕方」を
「水道方式」プログラムとしてはやくから開発されています。
こういう意味においては、右脳活性暗記法なるものが単なる認知刺激段階にある3分の1ゾーンにあることはあきらかでしょう。
内容が私にとって難解だったのもあり、理解が正確なものかどうかは分かりませんが、
●丸暗記によって「学習」(正確には記憶中心の学習)した知識は、ブローカー言語野の「3分の1」のゾーンに入り、それらの記憶は主観的、恣意的、解釈的になる傾向がある。
「憶え方を学ぶ」という部分の正確な意味を十分に把握したとは言いがたい状態ですが、
●ブローカー言語野の「3分の2」のゾーンは、「3分の1」のゾーンとは異なり、「認知」に加えて「認識」も行う。
「「自分」の身体の知覚と直接に接触していない対象を認知したり、認識する」という箇所もうまく頭におさまってくれませんが、この働きによって、ブローカー言語野の「3分の1」のゾーンとは異質の「客観的な記憶」を行うという理解でよろしいでしょうか。
くだんの勉強法の弱点は、この「客観的な記憶」に至らないという点であると理解いたしました。
他にもお伺いしたいことはあるのですが、確認のため、ここで一旦切り上げさせていただきます。
なかなか理解に手間どる箇所だとおもいますが、
何度も声に出して読むことが脳を最大限にはたらかせる方法ですのでぜひ実行してみてください。
さて、学習と暗記ということですが、
すこし性急に理解しようとなさっているようにおみうけしますので、
ひと呼吸入れられてゆっくりお考えになるのもよろしいかとおもいます。
「「自分」の身体の知覚と直接に接触していない対象を認知したり、認識する」という記述は、
たとえばアングルをぐっと退いてみると、赤ん坊の脳が発達していく過程にも照応します。
つまり「手触り」の感覚= 知覚(視覚はその延長上にある)だけの時期から、
やがて物陰にかくれているものについても「存在」することを覚えるようになる。
このときが空間認知を対象とできる最初の認識への入り口に立ったことを意味しています。
さらに言葉を換えていえば、
ブローカー言語野の「3分の1」のゾーンの認知記憶とは
せいぜい記号(化されたもの)を記憶することといえます。
つまり内容が不明のまま、
抽象としての記号をそのまま抽象として覚えようとするのが暗記だということになります。
暗記= コピーペーストということです。
ここでは極端にいうと、実相としての現実が置いてけぼりになっているわけです。
それはある意味で分裂症化の状態といえなくもない。
すると、実際に高度な現実を了解し、関係すべき局面に立たされたとき、
「ある日からなぜか勉強がゆき詰まって、強迫神経症があらわれてきた」
と訴える学生のようにならないともかぎらない。
>>すこし性急に理解しようとなさっているようにおみうけしますので、
>>ひと呼吸入れられてゆっくりお考えになるのもよろしいかとおもいます。
はい、、そうすることにします。
実相としての現実がおいてけぼりになるとのことですが、
逆に、もともと抽象的な内容(たとえば大学以降の数学)を勉強するときでも、
こういった学習法は好ましくないのでしょうか。
ご質問ありがとうございます。
さっそくですが、おこたえしたいとぞんじます。
まず、「抽象的な内容(たとえば大学以降の数学)を勉強する」以前に、
ブローカー言語野の「3分の2」のゾーンで、
認識に到れる学習を積みかさねることが大切です。
「数学は定義や定理、解き方まで何でも覚えまくってください。」という指導法では、
定義や定理までもが記号化されてとらえられるため、
「設問」自体もまたまさしく記号としての「設問」としてとらえられているだけですから、
「回答」も丸暗記=コピーペーストで済ませて「ハイ、合ってます。」となります。
これでは何を学んでも本質に到ることはなく、
学習自体に意味がないことになっています。
そういう指導をずっとやってきたこの国の教育観が問われるべきかとおもいます。・・
「正しく脳を発達させてより高度な課題にも取り組んでいける」
そういった学習法は、幼児教育、数学、医学を問わず、
抽象(性)を「暗記ではなく、認識できる」学習でしか身につかないわけです。
そこには暗記とはまたちがった苦痛をともなうかもしれないけれど
そこしか道はないのだということです。この時代だからこそ、
どこにも簡単なマニュアルなどないのだと腹をくくることがもとめられます。