こんにちは、のほせんです。
まだ日中は暑いながらも、上空のうろこ雲が秋の気配を染め、
夜は虫の音がいっそうにぎやかになってきました。
みなさんは、いかがおすごしでしょうか?
大阪の熱帯夜もきのうのことになったというのに、
「政治家辞める!」と潔かった橋下氏がアレレ? 「新党結成」などと叫んでいます。
暑気でご乱心なのか? もとからペテン師か、住民をバカにしているのか?・・
-- 先日来、またも拉致殺害事件が報道されていますが、
無念のうちに亡くなられた少女と少年に心からのお悔やみをもうしあげます。
心のスキを嗅ぎつけるように動き回る者が現実にいるんだということを、
あらためて若い人たちにも知っておいてほしいとおもう。・・
-- さて、今回逮捕された容疑者はあきらかにサイコパスのようにおもわれますが、
サカキバラセイト・少年Aの場合は、その類別にちがいないが幼い特異な存在であったともいえる。
そこには、性の欲動が制御不能となった14歳の未熟な少年が 哀れにも
狂気に陥っていった姿がみとめられる。・・
その狂気を引き止められなかった要因には、
母親との乳幼児期の「愛着の齟齬」、「躾という抑圧」や
児童期の「葛藤能力の不全」、「基礎教育不在」がみとめられる。
母親が愛着よりも「良かれ!」とおもい、かかわった偏向した育児や、
子どもの好き嫌いを優先したある種の「ネグレクト」などが暴走時のハードルを低くしたと。・・
また「なんでオレのこと嫌いなん?」と弟に聞かれたほど分けもなくイジメつづけたことは、
制御不能となっていった少年Aの狂気の兆しととらえることもできよう。
また無秩序な幼児期とはいえ、小動物を虐待したり、傷つけようと欲する時点で
すでに常軌を越えようとしていた。 そこではAは
人に生来的にそなわった「生理的嫌悪感・嘔吐感」や「親の眼」などの「壁」が
性の欲動の倒錯的快感欲求の前に、無効となった域に立っている。
-- そして児童期に入って、子どもたちの「性の欲動」がいったん無意識の奥におしこまれ、
社会的抑圧が優位の時期も、やがて過ぎて、
そのあとにやってくる、思春期の年齢になるころに
少年Aは待ち切れないようにして「性の欲動」を「殺人欲求」という狂気として暴発させる。
その狂気をおしとどめるべく 「自我の葛藤能力」の閾値があまりにも低かったことが
少年Aのかかえた不幸にほかならない。・・
淳くんを殺害するときの「無茶苦茶にしたい気持ち」(サディズム)と、
「ひりつくような罪悪感に身悶えしたい」(マゾヒズム)という
性的倒錯に酔い痴れる狂気の世界に踏み込んでいった。・・
そして相当な期間ののちになって、やっと
「淳くんのお父さんと彩花さんのお母さんの手記を読んだあと、
布団に入ると犯行時の様子が繰り返しフラッシュバックした」と告白している。
それまではずっと、正当な社会観から解離したまま、フラッシュバックさえおきないで、
Aの脳には自己流のコピペの疑似社会妄念が渦巻いていたことをしめている。・・
-- Aははたして治癒にむかえるのだろうか?
なんと、少年Aが“逮捕される数日前”、児童相談所の先生が家庭訪問して、こう話していた。
「A君は、だいぶん打ち解けてきましたよ。いい傾向ですよ。お母さん!」と。・・大失態!
少年Aも、相手の思惑を見透かし、同調して気取らせないなどはお手のものだった。・・
またある関係者はつよく言い切った。・・ 「Aに再犯の恐れはない」、
「彼が以前と同じパターンで小さい子どもを殺す可能性はゼロです。
なぜなら、もはや彼にはその「原因」がなくなったからです」と。 ・・?
井垣裁判官の寄稿では・・
「少年Aを生まれたての赤ん坊の時期まで巻き戻し、その状態から
「母」の愛を惜しみなく与えて育て直すことを期待して少年院に送った」とある。・・
この人は精神の病理も人の生育歴の重さについても何もご存じないようです。
“ 人はだれも、生育歴を巻き戻すことはできない。-- ”
だからこそ生き難いし、克服するほかない。
なるほど教誨師や、担任教官や女医の方々はAの寛解にむけて懸命にサポートされたし、
関係者も誇らしげに、
「性的サディズムは完治し、普通の青年になっている。精神科医のケアはほとんど必要ない」と語る。
だが、Aは告白している。
「父親は僕が更生したことを信じきれず、
僕がひとりになると再び罪を犯すのではないかと恐れていた」と。・・
はたしてどちらが本当なのか?
心理カウンセリングではもちろん、更生施設の教官とおなじく、
社会性の教育による「葛藤能力の向上」をめざし、
「社会性から解離した病理的な世界観」の解体をめざします。
しかし、それと並行して、
患者の「心の闇」に向きあって、その病理の構造をひも解いてゆきます。
とはいっても、ただ赤ん坊をあやす様に同調し心を開かせることではない。
「世界一だと」自負する更生施設の教官たちも、肝腎のここを欠落している。
「病理」「治癒」そのものの本質理解をとりちがえているのである。
「寛解」(いわゆるおとなしくなったから)で良しとする人たちばかりの精神医学界なのである。
それはあくまで時々の「症状」の状態にしかすぎないのである。
Aは「苦しくて気が狂いそうだった」と言い訳して薬に頼ったが、
わたしはカウンセラーとして、フラッシュバックに堪えられないAに薬をすすめるようなことは断じてしない。
フラッシュバックを遠ざけるのもカウンセラーのしごとだが、 Aにとっては
はじめのうちはその苦しみを受け留めることが「償い」のひとつになるのではないだろうか?
Aはまた、じぶんの来た道をナルシスティックにとらえて、共感する漫画に自己投影している。
そして、その「少年Aからの脱出」をつよく願望する。・・
厳しい現実社会におじ気づいたAは、ついにまた、じぶんの中へ内向しようとする。
「僕が最後に辿りついた居場所、自分が自分でいられる安息の地は、自分の中にしかなかった」・・
「自分の過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの「生きる道」でした。」
こう結んだAは、ついにじぶんの狂気に到った病理を正しく理解しないまま、
自己救済を優先させた告白本を残そうと願った。
生半可な病理理解と中途半端な死者への償いとともに。・・・・・
いまの自分自身の性的な現在について、あるいは(フロイト的な)夢について
何も語らないのは正直な態度ではないし、
かれの病理をより深く、正しく理解するためにも欠かせない必須の情報なのだが。・・・
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