こんにちは、のほせんです。 すこしごぶさたでした。
不順な天候のなか、みなさんはいかがおすごしでしょうか?
きょうはひさしぶりに出掛けの空が青く、秋の雲のようにずーっと高いところに
うろこの模様をさーっと刷いた群雲が浮かんでいました。
さて、この国の空もずいぶんと不順になっていますが、
世界の空も軍事覇権主義者の横暴でなんだかあやしくなってきたようです。
どちらの側が民間機を落としたのかが不明であっても、
つぎにどちら側がどのような挑発を実行するのかによって、
真犯人があきらかになるというもの。
つねにこうして戦争が仕掛けられてきた歴史を見逃さないことです。
ついでながら、
この国の御用マスメディアの流す、偏向したコピペ情報からは世界の現実が何も見えてこない。
現在のイスラエル政権軍によるパレスチナ・ガザへの侵攻無差別殺戮はオッケーで、
ナチスのユダヤ人殺戮はノーだというオバマの頭の中はあきらかに分裂しているが、
オバマを明確に非難する報道がメディアのどこにもみられないのには唖然たるおもいがする。
これほどマスメディア資本が露骨に体制にべったりする理由とはなんだろう?
それは広告資本と同様に、あるいは流通資本と同様に
もはや個人に相手にされず「消費されなくなって久しい」現実につよい危機感をもつためであろう。
すなわち
「情報」が何から何まで恣意的で為にする嘘っかすなら、
「広告」もそらぞらしく誇大で詐欺まがい、
また「商品」はといえば、どこまでも素性があやしいことなど、
「消費者」と名づけられた個々人は とっくのむかしに承知の助なわけだ。(江戸っ子だね)
それぞれの個人を、「国民」だとか「県民・市民」、「消費者」などと手前のつごうのいいように呼ばわって
それ以外のときには「・・・」ひとを人ともおもわずに、切捨て放置の「人でなし」を、
恥じることなくあらわしてきた連中が「報い」を受けるときがきているのだろう。
「すっかり変わっちまった日本社会」= ウルトラ資本主義の断末魔がはじまっているとかんじられる。
・・さて、1945年8月6日の広島原爆投下からたしか69年が経ちました。
当時のアメリカ政権は直後につぎのようなビラを諸都市に投下している。
(AB-11)
即刻都市より退避せよ
日本国民に告ぐ!!
このビラに書いてあることを注意して読みなさい。
米国は今や何人もなし得なかつた極めて強力な爆薬を発明するに至つた。今回発明せられた原子爆弾は只その一箇を以てしても優にあの巨大なB-29二千機が一回に搭載し得た爆弾に匹敵する。この恐るべき事実は諸君がよく考へなければならないことであり我等は誓つてこのことが絶対事実であることを保証するものである。
我等は今や日本々土に対して此の武器を使用し始めた。若し諸君が尚疑があるならばこの原子爆弾が唯一箇広島に投下された際如何なる状態を惹起したか調べて御覧なさい。
この無益な戦争を長引かせてゐる軍事上の凡ゆる原動力を此の爆弾を以て破壊する前に我等は諸君が此の戦争を止めるよう陛下に請願することを望む。
米国大統領は曩に名誉ある降伏に関する十三ヶ条の概略を諸君に述べた。この条項を承認しより良い平和を愛好する新日本の建設を開始するよう我等は慫慂するものである。諸君は直ちに武力抵抗を中止すべく措置を講ぜねばならぬ。
然らざれば我等は断乎この爆弾並びに其の他凡ゆる優秀なる武器を使用し戦争を迅速且強力に終結せしめるであらう。
“即刻都市より退避せよ”--
はたしてこのビラはいったいだれに向かって忠告しているのかと首をひねりたくなる。
降伏を軍司令部と天皇に聞き入れられないからといって、
一般市民がこれを手にしても、どうにかできるわけもなし。
ようするに、後日のための言い訳をのこそうとしただけのことだろう。
だが、米国政権は原爆使用の絶好の機会ととらえて、あきらかに自己正当化のための欺瞞を弄している。
本当のところは、これ以上上陸戦をすることに面倒くさくなったトルーマンがゴーサインを出しただけ。
またソ連参戦を原爆投下の口実にするのも米国側のあとづけ宣伝で、
むしろソ連参戦を米国政権が満州や樺太、千島列島の権益付きで促したことは明白な歴史的事実である。
・・それにしても、いつのどの国の戦争もときの政権が大衆の孤立を逆手にとって、
国家的な共同幻想(美化の妄想!)に扇動し、
みずからを自己催眠のように戦いに駆り立てさせるのは
ある種の狂気の蔓延とみとめるほかないだろう。
またそれは狂気の自覚が無いだけに性質がわるいといえる。
すでに戦争をはじめた狂気は、相手を殺し、排除することに没頭する。
そして国際法もくそもない、無差別爆撃や虐殺を実行してしまう。
スペイン・ゲルニカのドイツ軍の無差別爆撃、
南京、漢口、重慶の日本軍の無差別爆撃、
日本諸都市の米軍ルメイ司令官指揮の無差別爆撃。・・
東海軍司令官・岡田資中将は日本人には稀な理性のひとのようだった。
「爆撃機からパラシュート脱出した米軍兵士たちは、無差別爆撃をしていたゆえに、
ジュネーヴ条約が規定する「捕虜」には相当しない。
かれらは国際法に違反しており「戦犯」としての扱いは適正だ。」として、
パラシュート脱出米兵約30名を処刑した。
昭和23年3月8日の戦犯裁判法廷において、
「処刑は報復ではなく、処罰です。」といい、
のちに米軍も名古屋空襲が無差別爆撃であったことをみとめるにいたるが、
戦争という狂気のなかでは、現場の理性さえも虚しくつたわってくる。・・
・・そしていま、世界覇権に拘泥するアメリカ政権はついに「先制核攻撃」を口にしだした。
軍事主義者の頭のなかでは、じぶんたちだけが核の反撃から免れるという
エゴと排他意識が狂気の膜でおおわれているのだろう。
間髪をいれず、中国が新型ICBM保有を世界にむけてメッセージしたのは
ロシアへの援護だけでなく、狂気の核戦争の危機を未然に抑止するつよい意志がみてとれる。
あぶない岐路に 世界は 立たされているようです。
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戦争による無数の死者たちの存在や敗戦後の大多数のこの列島の住民の戦争に対する内省などからくる無意識的な意志を、制定の経緯がどうであれ、汲み上げかたち成した憲法9条の非戦の意志が、しだいにひびが入り、さらに現政権の巧妙にすり抜けようとする「集団的自衛権」という無思慮と横暴によって本格的に無に帰す事態に当面しています。このことは敗戦後のこの列島の住民の歩みの総否定に当たると思います。また、経済や教育などに対する施策も古びた亡霊のような観念を拠り所に、社会にくさびを入れようとしています。これは、逆から言うと、戦争期は遠い時代になってしまいましたが、政治層もわたしたち一般住民も戦争の内省から戦争はいやだという気分的なものではない、自覚的な意志の形成をなし得なかったということになります。わたしたちの生活世界の理想は、平凡につつましくゆったりと生活することにあると思っています。これ以外に大切なことはありません。現在の政治の動向は、そういう理想を大きく揺さぶるものであり、見過ごしたり、聞き流したりできるような事態だとは思えません。
敗戦後の経済に力を注いできた歩みは、現在のような割と豊かな社会をもたらし、消費中心の電子網で結びつけられた高度な社会を築き上げました。インターネットを含む電子網の普及は、世界の距離感を縮め、現在の複雑で高度な社会があたかも王や天皇などが現れる以前の割と平等な集落レベルの世界を仮想的に現出させていると思われます。このことは、後に述べる吉本(吉本隆明)さんの現在の社会分析と併せると、人類の歴史は、遙かな昔から住民が巻きこまれる形で、あるいは積極的に加わる形で隣の集落とのいさかいから他国との戦争に至るまで幾多の戦争を経てきて、今なお戦争をくり返しているわけですが、わたしたち集落の住民の生活にとって不本意なことを集落の代表層が行おうとすれば拒否権を発動できるという可能性が転がり込んできていることを意味しています。もともと、集落の代表層は集落の住民の幸福のため存在するはずですが、世界中どこでも王や将軍などを生みだし、転倒された歴史をたどってきました。現在の政治や行政の有り様と同じく、太古においても単に住民の代表に過ぎない組織が恣意的な権力を行使する芽生えはあったはずです。この連綿と続いてきた負の組織性を人類が手放せない限り、わたしたち普通の住民の内省と意志表示は必須のものと思います。
近代のすぐれた思想家である柳田国男は、集落に保存された習俗や言葉を中心にしてこの列島の住民の心性や住民たちの組織性の原理の古層を探り当てようとしました。例えば、この列島の至る所に互いに矛盾するような同じような伝説が存在するのはなぜかと問いを起こして、それは例えば小野小町伝説であれば、説話を持ち運んだ語りの者が自分が見た聞いた、あるいは小野小町になりきって語るなど一人称形式で語った、そのことから素朴な村々の聴衆は語り手と小野小町を同一化することになり、列島各地に同じような小野小町の塚や伝説が残されることになったと分析しています。その背景には、この列島の住民の次のような心性があったと述べています。
我々の愛する里人は、終始変せず御名などには頓着なしに、尊き現人神(あらひとがみ)来たってこの民を助け恵みたもうと信じ、すなわちこれを疑う者を斥(しりぞ)け憎んで、ついにかくのごとき旧伝を固定したのである。それが大切なる村々の神道であった。そうしてまた多くの不可解なる伝説の根原であったように思う。
(『史料としての伝説』 P325 柳田国男全集4 ちくま文庫)
つまり、「御名などには頓着なしに」ということは、「尊き神」ならなんでもかまわず伝説としてくっつけてしまう。おそらくこれはこの列島の太古の住民が長い長い自然の猛威と慈愛の中で身に着けて来た自然に対する対処の心性が、人間界の関係においても同様に発動されてきたものと思われます。柳田国男はなつかしさと愛情を込めて描いていますが、これは生活世界のわたしたちが今なお引き継いでいるあなた任せの負の心性であると思います。生活世界のわたしたちが過剰に政治を遠ざけたり、過剰に政治にからめ取られたりすることはそこから来ているはずです。わたしたちこの列島の住民は、必要で大切な自己主張に依然としてあまり馴染んでいません。
自分がおかしいと思うことが、わたしたちの生活世界を離れたところで成されています。しかも、それらはわたしたちの生活世界に跳ね返って来ます。遠いはじまりにおいて、行政的なものや宗教組織は本来は集落の問題を解決するものとしてあったろうと思われます。蜜に群がる蜂のような政党や政治家たちが多いように見える中で、わたしたちの意志を行使できる主要な手段は、間接的な不毛に感じられる選挙権しかありません。わたしもまた、あの負の心性に捕らわれそうになることがあります。
ところで、今は亡き吉本さんがわたしたちへの無償のおくりもののように、必死で現在の社会を実験化学者の手付きで分析した言葉があります。
つまり、収入に対して総支出が五〇%を超えている。それから総支出のうちで選んで使える消費、だから自由に使える消費です。つまり選んで使える消費はまた、今申し上げましたとおり、五一・一から六十四%の範囲内で、半分を超しています。これは消費社会、あるいは消費資本主義といってもいいのですが、消費資本主義の大きな特徴になるわけです。
つまり、この二つの条件があれば、その社会は消費資本主義社会に突入しているといっていいと思います。そうすると、何はともあれ、消費のほう、特に選んで使える消費を含むと、自由度が入ってくるわけです。つまり、消費のほうに重点が移ってしまっている社会ということになります。
私は全く極端なことを言いますけれども、今言いましたように、それぞれの給料によって五一%から六十四%の範囲内で選んで使える消費になっているわけですから、例えばそれを皆さんのほうで選んで使える消費だけ、半期なら半期、一年なら一年使わなければ、大体どんな政府もつぶれてしまうのではないでしょうか。つまりそれに耐えられないのではないでしょうか。半分以下の経済規模になってしまうわけですから、ちょっとそれに耐える政府は考えられない。ですから、そういう意味合いでは経済的なリコール権を潜在的には持っているというのは、消費資本主義社会に突入した、つまり世界の先進地域の資本主義はそこに突入してしまっていますから、それはいってみれば一般大衆の中に政府をリコールする権利が既に移ってしまっているということ。経済的にいえばもう移ってしまっているということを意味すると、私はそういうふうに主張しています。だから、あとは政治的なリコール権に書き換えればいいと私は思います。それが政治的課題だと思います。 (「現代(いま)という時代」1995年 P17-P18 『吉本隆明資料集135』)
付け加えれば、国の行政組織もわたしたちの家計消費の重要性に触れています。現在は月毎の家計消費動向が発表されていますが、上から目線で大いに一喜一憂しているのではないかと思います。
● 経済社会活動の中で大きなウエイトを占める消費活動
経済社会活動の中で、消費活動は非常に大きなウエイトを占めています。消費者が支出する消費額の総額は、2011年度は279兆円で、経済全体(国内総生産(GDP)=470兆円)の約6割を占めています。消費者の消費活動は、我が国の経済社会全体に大きな影響を及ぼすことになります。したがって、経済の持続的な発展のためには、消費者が安心して消費活動を営める市場を構築することが重要です。
(「消費者問題及び消費者政策に関する報告(2009~2011年度)」消費者庁ホームページより)
柳田国男の民俗学という方法には、旧来の貴族や武家などの政治層中心の歴史観とは異質な、名も無き大多数の生活者の世界に錘鉛(すいえん)を下ろしその精神史を明らかにしようとした、この国の思想史においては画期的なものが秘められています。それはわたしたち万人に開かれた可能性を持っています。誰もが視線を巡らせることのない場所に視線を届かせた吉本さんの考察も、同じように万人に開かれた言葉だと思われます。流れてくるのは、相変わらず経済・政治など上から目線の、自分の場所に都合のいいような言説ばかりですが、何がわたしたちの生活の現在において本質的な問題であるか、この波風立つ世界で日々生活する自分を開いて、静かに思いめぐらすことが大切だと思っています。
現在の社会は文明史的にもいろんな新たな事態をもたらしています。急速に普及してきているインターネットなどの電子網もそのひとつです。この電子網は、「東日本大震災」による被災住民の支援プロジェクトの形成にも活用されています。「ふんばろう東日本支援プロジェクト」代表である西條剛央さん及び多数のスタッフは、インターネットなどの電子網を活用することによって行政の支援とは異質な、小回りのきく、多数の支援者・被支援者とが関わり合う流れを形成しました。インターネットなどの電子網という仮想の世界を仲立ちとして現実的な多くの力を束ねることができたのだと思います。ネットにホームページも設けられています。
(『人を助けるすんごい仕組み――ボランティア経験のない僕が、日本最大級の支援組織をどうつくったのか 』西條剛央 ダイヤモンド社 2012年)
まず、わたしたちひとり一人が、この距離感が縮まって太古の集落レベルのような仮象を示す新しい社会の状況を認識し自覚することが大切だと思います。そこからひとり一人の社会や政治に対する批判という意味では無意識的な、生活防衛的な消費を控えるという消費行動は、自覚的な過程に入り込み、ひとり一人の力が手を重ねるように束ねられていけば巨きな力になり得るはずです。目下わたしは一人、実験に入り込みました。
外に出かけて消費することなく家で昼寝していてわたしたちの意志を表現することができるなんて、なんと痛快なことだろう、と驚いています。まだこれはおそらく誰も意識的に実行したことがありませんから、ひとつの実験と言えるかもしれません。このあらたな社会の有り様に対応して、このわたしたちの経済的な力の行使には、旧来的な組織性、主催者や代表がいてそれに参加するなど、そういうことがここにおいては無用であり、この列島の住民が、ひとり一人外に出かけて消費することなく家でゆったりと昼寝していてわたしたちの意志を直接的に表現することができます。また職業や地位などまったく関わりなくこの列島の住民ひとり一人が平等に持てる力を発揮できます。
目下わたしは、現政権に退場してもらうために、選択消費(娯楽費など)をできるだけ控えて半年か一年先に先送りしています。食費などの必需消費も以前にも増して意識的に抑えています。家計の状況は人それぞれでしょう。わたしもそんなに余裕はありません。しかし、使うお金が同額でも、無意識的な生活防衛の切り詰めとノウという自覚的な切り詰めとは大いに違います。
吉本さんが指摘したように、GDPの過半を占める、このわたしたちの消費が、社会の経済的な心臓部にまちがいないと思われます。わたしたちの経済的な力の行使によって、負の「トリクルダウン
もしこの列島の一住民であるわたしが作った回覧板に賛同されたら、この回覧板を、あるいはこの回覧板に自分のコメントを付けて、あるいはまた、みなさんのもっとやさしい柔らかな言葉で新たに作られた回覧板を、お金は入ってくることはありませんがネズミ講のようにこの電子網を利用して回覧したらいいのではないかと思います。わたしたちの力を十分に束ねることができないとしても、わたしたちが知らない間に大きな経済的な力を持たされてしまったというこの社会の新たな事態を、現在のような政治・社会状況においては特に、この列島の住民ひとり一人が自覚することはとても大切なことだと思います。
昼寝の夢の中で、この社会がもたらしたいろんな可能性を想像するのは楽しいことです。わたしにはそこまでの余裕や力量はありませんが、ネットに中継地を作って交流したりなどさまざまな自由な意志の表現が可能ではないかと考えます。それぞれがそれぞれのやり方で表現すればいいのだと思います。
この列島の一住民より (2014.8.14)
追記
とりあえず、臨時のブログ「回覧板」( http://blog.goo.ne.jp/okdream01 )を開きました。そこに回覧板などを置きます。