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小さいころ、近所にすずき屋という商店があった。何度か改装して店内の雰囲気は変わっていったが、その昔は土間だった。規模は小さいが食材から雑貨まで何でも揃っていたもので、
今のようにスーパーなんて無い頃だったから、近所の主婦は大抵そこで毎日の買い物を済ませていたように思う。
自分の親よりだいぶ年上の夫婦が切り盛りしていたがとても愛想が良く、お使いに来た子供にも気さくに声をかけてくれた。
暫く経って、道を隔てた数件先にもう一軒さとうという店が出来た。こちらは規模も小さくやはり夫婦で切り盛りしていたが、主婦の買い物はすずき屋が主だったため、子供相手に駄菓子系を多く扱っていたと思う。
ところが当初、子供たちは新参のさとうになかなか足が向かず、相変わらずすずき屋(駄菓子やパンなども少なからず扱っていたので)へ。
業を煮やしたさとうのオヤジさん、チョロチョロしている子供たちを捕まえては、「すずき屋ばかりでなくうちへも買い物に来なければだめだ」と、説教ならぬ小言を言うことが多かった。
そんな煙たいオヤジさんを敬遠してかなかなか子供たちは寄り付かなかったのだが・・・
しかし、小学校も中高学年になるころには、さとうへの買い物も増え、以前感じていたうるさい変なオヤジという感覚もなくなっていった。不思議なもので、(何がきっかけかは分からないが)通う頻度が高くなってくると、自然と打ち解けてくるもので、なかなかどうして親切な結構良いオヤジという印象に変わったものだ(笑)
このオヤジさん、今振り返ってみると右だか左だか思い出せないが片腕が肘から先無かった。
でも子供たちが買い物に行くと、器用に袋から品物を取り出してくれたり、店の奥の居間の卓袱台を前に胡坐をかいて、やはり器用に食事をしている姿を目にしたり。。
また、問屋から仕入れた荷を自転車にくくりつけ、片腕で走る過ぎる姿などを良く覚えている。行き違うときは大抵ニッコリ微笑んでくれたり、軽く会釈を返してくれたものだ。
子供だったので、直接聞いたわけではないが、グアム島から横井庄一さんが帰還した折、「恥ずかしながら・・・」の名言がニュースで盛んに流れ、日本中が驚きで沸いていたころ
このオヤジさん、「我々が必死で戦っていたときに、奴は川で海老釣って食っていたんだ」と言ったとのこと。。
もちろん、後に親から聞いたのだが、このオヤジさん仙台出身で、第2師団の一兵士として赴いたインパール作戦だかビルマ戦線だかで片腕をなくしたとのことだった。
袖ケ浦のバスターミナル。
待合室の明かりと、横浜行きの乗り場。前に停まっているのは品川行きの京急バス。更にその前は、到着した日東バスか。
プログラムオート。以下同。
カメラ RICOH GR
撮影日 2015.02.09
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小さいころ、近所にすずき屋という商店があった。何度か改装して店内の雰囲気は変わっていったが、その昔は土間だった。規模は小さいが食材から雑貨まで何でも揃っていたもので、
今のようにスーパーなんて無い頃だったから、近所の主婦は大抵そこで毎日の買い物を済ませていたように思う。
自分の親よりだいぶ年上の夫婦が切り盛りしていたがとても愛想が良く、お使いに来た子供にも気さくに声をかけてくれた。
暫く経って、道を隔てた数件先にもう一軒さとうという店が出来た。こちらは規模も小さくやはり夫婦で切り盛りしていたが、主婦の買い物はすずき屋が主だったため、子供相手に駄菓子系を多く扱っていたと思う。
ところが当初、子供たちは新参のさとうになかなか足が向かず、相変わらずすずき屋(駄菓子やパンなども少なからず扱っていたので)へ。
業を煮やしたさとうのオヤジさん、チョロチョロしている子供たちを捕まえては、「すずき屋ばかりでなくうちへも買い物に来なければだめだ」と、説教ならぬ小言を言うことが多かった。
そんな煙たいオヤジさんを敬遠してかなかなか子供たちは寄り付かなかったのだが・・・
しかし、小学校も中高学年になるころには、さとうへの買い物も増え、以前感じていたうるさい変なオヤジという感覚もなくなっていった。不思議なもので、(何がきっかけかは分からないが)通う頻度が高くなってくると、自然と打ち解けてくるもので、なかなかどうして親切な結構良いオヤジという印象に変わったものだ(笑)
このオヤジさん、今振り返ってみると右だか左だか思い出せないが片腕が肘から先無かった。
でも子供たちが買い物に行くと、器用に袋から品物を取り出してくれたり、店の奥の居間の卓袱台を前に胡坐をかいて、やはり器用に食事をしている姿を目にしたり。。
また、問屋から仕入れた荷を自転車にくくりつけ、片腕で走る過ぎる姿などを良く覚えている。行き違うときは大抵ニッコリ微笑んでくれたり、軽く会釈を返してくれたものだ。
子供だったので、直接聞いたわけではないが、グアム島から横井庄一さんが帰還した折、「恥ずかしながら・・・」の名言がニュースで盛んに流れ、日本中が驚きで沸いていたころ
このオヤジさん、「我々が必死で戦っていたときに、奴は川で海老釣って食っていたんだ」と言ったとのこと。。
もちろん、後に親から聞いたのだが、このオヤジさん仙台出身で、第2師団の一兵士として赴いたインパール作戦だかビルマ戦線だかで片腕をなくしたとのことだった。
袖ケ浦のバスターミナル。
待合室の明かりと、横浜行きの乗り場。前に停まっているのは品川行きの京急バス。更にその前は、到着した日東バスか。
プログラムオート。以下同。
カメラ RICOH GR
撮影日 2015.02.09
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面白い趣向のコラムですね。
バス停の写真がこの話の狂言回しの役をしている様です。
先日お会いできなくて残念でした。またの機会によろしくです♪
↑、書き様が悪くて誠に失礼しました。
そうですね。時代を遡った時の思い、時々書きたくなるときが有るものです。
今の世の中では有り得ないことが沢山・・・
お店の話、現代のコンビニにも通じる事だと思います。この世は輪廻の世界でもあるかとも。
どういうわけか、ふと昔のことが蘇ることがありますよね。
ネタがないとないとこんなことまで(笑)
今日は天気が良いので鳥でも見に行ってこようと思います。
私も中学の時の教師で、当時の貴重な体験談を聞かせてくれた思い出があります。
先日はお会いできなくて残念でした。次回、よろしくです!
最近、(年とったせいか?)直近のことより、遥か昔のことの方が
鮮明に蘇ってきたりします(笑)
どうもありがとうございました。
それも遠くなりにけり、です。
近所にもうひとり、片脚のないおじさんも居ました。
もう皆、鬼籍に入っているでしょうね。
今日、九十九里を覗いてみました。
残念、釣果ならぬ鳥果なしでした。
近々、再挑戦です(笑)