過日今年100歳を迎える実母に会う為帰省した。
妹に面倒を看て貰っているため、年に一度も帰らないのであるが、歳のせいか、故郷の街が年々寂しくなってゆくことに、強い侘しさを感ずる。
と言うのは、現在は中野市になっているが、小生が住んでいた高校生位までは人口1万人を超える中野町であり、市街地と呼べるのは東西で歩いても20分くらい、南北はその半分位しかなく、あとは田畑と村落に囲まれた、小さな町であった。
現在は周辺の町村と合併し、中野市となり、旧市街地周辺の田畑の宅地化が進み、道路が整備されるにつれて、郊外に大型のスーパーが出来、住宅の密集地は倍以上に広がっている様ではある。
この旧市街の中央北端に長野電鉄の「信濃松川駅」と「中野小学校」があり、その隣にあるのが我が家の菩提寺「南照寺」である。
妹の家は街の西端に近く、そこから南に歩いて7~8分のところに長野電鉄の「信州中野駅」がある。
そして、南照寺から東の端に控える東山の麓迄歩いても10分足らずである。
と言うことで、帰省の都度、大体平日、昼間(今回は午後1時~3時の間)お墓参りに行き、帰りに散歩がてらに、昔「中野銀座」などと呼ばれて、結構賑わっていた様に記憶している市街地を歩いてみる。
ここ数年は殆ど同様であるが、今回も歩いていて誰とも会わないし、道端で見かけたのは親子一組のみ。商店もお客も無く、扉も閉めたまま、明かりだけが灯っている状況。土産を買いに行った菓子店も扉を開けるとベルが鳴り、店の女主人が出てきて応対するといった有様せある。
一体、いつからこの街はこんなに活気がなくなってしまったのだろうか?
この町の宣伝を少しすると,作曲家「中山晋平」が生まれた所で,彼が作曲した町歌「中野小唄」は結構有名であった。
歌の中にもある通り、江戸時代は天領地であり、明治維新直後の廃藩置県では中野県となり(その後、長野県に組み込まれたが)、一時ではあるが中野県庁も置かれた。
町には碁盤の目の様に道路が走り、そして、南北に走る主要道路3本の道は真ん中には清流が走り、川の両側に柳の木が植えられており、結構風情があった。
(確か、未だ小生が子供の頃は歌の文句の戸売りであり、その後道路の舗装工事が進むにつれて、無くなっていったと思う。)
つい最近TVで故郷を見たのはアスパラガスの生産地としてで、街ではなく、街周辺の農家と畑の映る田園風景であった。
この町の特産品は古くは「アケビ細工」「柳行李」等の民芸品が当地の名産として知られ、その後は「りんご」「桃(白桃)」で、更に最近では「さくらんぼ」や「巨砲」などの果物が名産品となった。
さらにはきのこの「マイタケ」、「エリンゲ」など、そして、先の「アスパラガス」といった野菜など、各種農産物の産地として少しずつ名前も知られてきている様である。
しかし、これらは郊外の畑やそれを作る農家の人達の努力の成果である。
肝心の、街の中心部の活気の無さは、市全体の活気の無さに繋がり、一部農家・農協が元気であっても、街に住む住人たちを元気にしてはくれない。
実は隣に小布施町という、葛飾北斎が滞在し、お寺に描き残した天井画と栗菓子で有名な観光の町がある。更にはその隣に、武家屋敷の残る須坂市がある。
いずれも一点集中主義の観光名所を持つが、中野市にも旧県庁跡や全国で三ケ所しかないと言われる「土雛人形」の産地であり、その展示館や中山晋平の生誕地としての記念館などもある。
小生に言わせればそれらの資源を住民に遠慮して分散して配置した為に、主客である観光客から見れば無駄な時間を移動に取られる不便さから、見捨てられたとしか考えられない。
実はこうしたことは政治家やお役人の認識不足から来ていると思う。
市の経営も企業経営と同じで、「如何に収入を増やすか」を考えるとき、今迄の様に国会議員や県会議員を通して、国や県に働きかけて税金の配分を多くして貰おうとする、いわばゴマスリ行動を少なくして、いかに、他所から人を呼び、お金を使って貰うか考えることである。
たまたま、今日のテレビでも放送していたが、韓国のソウルで市街地の高速道路を壊して、昔の川に戻したとのニュースをみた。日本からも小池環境大臣が視察に行かれたようであるが、これなど、街中を車が殆ど通らなくなった中野市のメイン道路を昔の姿に戻したらどうか・・良いヒントとなろう。
いずれにしても政治の貧困さは市幹部の能力次第でどんどん改善される時代であり、一日も早く経営の能力のある市長・幹部が出て来てこの侘しい市街の状況を改善してくれることを切に願うものである。
妹に面倒を看て貰っているため、年に一度も帰らないのであるが、歳のせいか、故郷の街が年々寂しくなってゆくことに、強い侘しさを感ずる。
と言うのは、現在は中野市になっているが、小生が住んでいた高校生位までは人口1万人を超える中野町であり、市街地と呼べるのは東西で歩いても20分くらい、南北はその半分位しかなく、あとは田畑と村落に囲まれた、小さな町であった。
現在は周辺の町村と合併し、中野市となり、旧市街地周辺の田畑の宅地化が進み、道路が整備されるにつれて、郊外に大型のスーパーが出来、住宅の密集地は倍以上に広がっている様ではある。
この旧市街の中央北端に長野電鉄の「信濃松川駅」と「中野小学校」があり、その隣にあるのが我が家の菩提寺「南照寺」である。
妹の家は街の西端に近く、そこから南に歩いて7~8分のところに長野電鉄の「信州中野駅」がある。
そして、南照寺から東の端に控える東山の麓迄歩いても10分足らずである。
と言うことで、帰省の都度、大体平日、昼間(今回は午後1時~3時の間)お墓参りに行き、帰りに散歩がてらに、昔「中野銀座」などと呼ばれて、結構賑わっていた様に記憶している市街地を歩いてみる。
ここ数年は殆ど同様であるが、今回も歩いていて誰とも会わないし、道端で見かけたのは親子一組のみ。商店もお客も無く、扉も閉めたまま、明かりだけが灯っている状況。土産を買いに行った菓子店も扉を開けるとベルが鳴り、店の女主人が出てきて応対するといった有様せある。
一体、いつからこの街はこんなに活気がなくなってしまったのだろうか?
この町の宣伝を少しすると,作曲家「中山晋平」が生まれた所で,彼が作曲した町歌「中野小唄」は結構有名であった。
歌の中にもある通り、江戸時代は天領地であり、明治維新直後の廃藩置県では中野県となり(その後、長野県に組み込まれたが)、一時ではあるが中野県庁も置かれた。
町には碁盤の目の様に道路が走り、そして、南北に走る主要道路3本の道は真ん中には清流が走り、川の両側に柳の木が植えられており、結構風情があった。
(確か、未だ小生が子供の頃は歌の文句の戸売りであり、その後道路の舗装工事が進むにつれて、無くなっていったと思う。)
つい最近TVで故郷を見たのはアスパラガスの生産地としてで、街ではなく、街周辺の農家と畑の映る田園風景であった。
この町の特産品は古くは「アケビ細工」「柳行李」等の民芸品が当地の名産として知られ、その後は「りんご」「桃(白桃)」で、更に最近では「さくらんぼ」や「巨砲」などの果物が名産品となった。
さらにはきのこの「マイタケ」、「エリンゲ」など、そして、先の「アスパラガス」といった野菜など、各種農産物の産地として少しずつ名前も知られてきている様である。
しかし、これらは郊外の畑やそれを作る農家の人達の努力の成果である。
肝心の、街の中心部の活気の無さは、市全体の活気の無さに繋がり、一部農家・農協が元気であっても、街に住む住人たちを元気にしてはくれない。
実は隣に小布施町という、葛飾北斎が滞在し、お寺に描き残した天井画と栗菓子で有名な観光の町がある。更にはその隣に、武家屋敷の残る須坂市がある。
いずれも一点集中主義の観光名所を持つが、中野市にも旧県庁跡や全国で三ケ所しかないと言われる「土雛人形」の産地であり、その展示館や中山晋平の生誕地としての記念館などもある。
小生に言わせればそれらの資源を住民に遠慮して分散して配置した為に、主客である観光客から見れば無駄な時間を移動に取られる不便さから、見捨てられたとしか考えられない。
実はこうしたことは政治家やお役人の認識不足から来ていると思う。
市の経営も企業経営と同じで、「如何に収入を増やすか」を考えるとき、今迄の様に国会議員や県会議員を通して、国や県に働きかけて税金の配分を多くして貰おうとする、いわばゴマスリ行動を少なくして、いかに、他所から人を呼び、お金を使って貰うか考えることである。
たまたま、今日のテレビでも放送していたが、韓国のソウルで市街地の高速道路を壊して、昔の川に戻したとのニュースをみた。日本からも小池環境大臣が視察に行かれたようであるが、これなど、街中を車が殆ど通らなくなった中野市のメイン道路を昔の姿に戻したらどうか・・良いヒントとなろう。
いずれにしても政治の貧困さは市幹部の能力次第でどんどん改善される時代であり、一日も早く経営の能力のある市長・幹部が出て来てこの侘しい市街の状況を改善してくれることを切に願うものである。