新八往来

季節が移ろい、日々に変わり行く様は、どの一瞬も美しいが、私は、風景の中に一際の力強さを湛えて見せる晩秋の紅葉が好きだ。

じっちゃんと鉄瓶と私

2015-01-11 09:00:38 | 備え無き定年
私が北海道の地を踏んだのは、何歳の頃であったか、何故両親と帯同せずに独り祖父とともに渡道したのか、そのわけを聞いていない。

昭和22年に樺太から淡路島へ引揚げたのだが、その頃の父母や祖父母の状況がどのようなものであったか、後年、断片的な話を聞かされたが、記憶はこころもとないものである。
かすかな記憶を辿っても淡路島では父や祖父の輪郭は描けなかった。
何となく、母と祖母の匂いが漂うだけである。

4歳年下の妹は、昭和23年に淡路島で生まれているのだが、その誕生の記憶もないのである。
あるいはその頃、私は既に母の手許を離れていたのかもしれない。

祖父母はとりあえず淡路島を経由したが、間もなく同郷人が多く入植していた日高の門別村沖田沢の一隅へ住み着いたのである。
その後、祖父が何かの目的で再び淡路島に戻った折に私に向かって「じっちゃんと一緒に来ないか」と言った時、私は、躊躇いも抵抗もなく即座に「行く」と応えたような気がする。

幼児の無邪気な決断は早かったが、両親、祖父の大人の間には複雑な葛藤があったであろうと思われる。
その後、両親は妹とともに釧路の炭鉱へ生計の場を求めて行ったのである。

私が祖父の手に引かれて北海道の地へ渡ったのは確かなことであるにもかかわらず、その旅の記憶は全くない。
祖父が背に荷を負っていたかどうかの記憶は鮮明ではないのに、私の手を引いていないもう一方の片手に提げていたものをはっきりと記憶している。
それは、見事に磨き上げられて黒光りのする大きな鉄瓶であった。
その後、この鉄瓶との付き合いは20年ほどにも及んだのである。

門別村沖田沢の一隅の地はおそらく借地であったろうと思われる。
そして山の斜面に背を付けたような小さな住いは祖父の手で造られたもののようであった。
周辺の山から切り出された木材で組み建てられ、壁は粘土に切藁を繋ぎとして混入たものを塗り上げただけの粗末と言うより酷い棲家であった。
つまりは、文字通りの泥土の壁であったから、屋内での生活は、壁に背を預けないように注意が必要な状態であり、どうにか雨露を凌げるだけの住いだった。

入り口の引き戸も建て付けの悪い手製で、板戸ではなく日中の明り取りのためなのか、障子用の桟に紙を貼り付け、菜種油か何かを塗って強度を保っているようなものであって、その油の臭いが屋内に漂っていたような記憶がある。

その入り口を開けて祖父が我が家に戻った時、祖母は屋内に居て土間に射し込んだ光に鉄瓶を片手にした大柄な身体が影となって立っているのを見た。
しばらく、息をひそめて祖父の背後に隠れていた私が、少し間をおいて祖母の前へひょいと姿を現した時の祖母の驚きと喜びようは、当の本人の私が驚かされるほどであった。
私の幼児期の記憶は、このあたりから鮮明になってきたのである。

祖父が、祖母を思いがけない土産でも見せるように驚かそうとして私を背後に隠した事と言い、その時の祖母の驚きようと言い、私が祖父とともに日高の地へ向かったことは、両親にとっても祖父母にとっても予想外の成り行きであったのだろうと思う。
私が、躊躇いも恐れもなく祖父に付いて来たことは、それまでの短い私の人生の中に二人の存在がどのような係わりを持っていたかを覗わせる出来事であったと思うのである。
私の1歳に満たない頃の一枚の写真は、祖父の胡座の中に抱かれて笑っているものである。

一方、私一人を養父母のもとへ預けて、妹とともに釧路へ入った両親の思いはどうであったろうかと思うのである。

私の父も、祖父も強烈な個性の持ち主であり、ともに家族、家庭の枠には収まりきれない男たちであった。
私の中では、家族における男の存在感は希薄なのである。

鉄瓶とともに私を北海道の地へ連れて来た「じっちゃん」の存在感はこの時だけで、その後、10年の家族の転変とした軌跡を経て江別市の国道で泥酔の挙げ句に交通事故死するに至るまで、私の周辺に登場しなかったのである。
私達兄妹は、祖母と母、二人の女性の辛酸の中で少年期を経て来たのである。

冬囲い

2014-11-16 17:21:23 | 備え無き定年
義父が手植えの庭木に
手入れの行き届かなさを詫び
細枝の一本も
折らすまいと願いつつ
腰を休めて雲を見上げる

天候の異常な年だったが、冬の遅いのは珍しくない
近年である。
それにしても晩秋まで気温の高い日が続いたから、
山は鮮やかな紅葉を見せずに枯れ色になってしまって、
もの足りなさの残る秋だった。

冬囲いの作業を始めなくては、と思い出してから
どうにか終わらせるまでに一月以上も経ってしまった。
火山灰地という土質の悪さに加えて私の無知、無関心が原因で
手入れが行き届いていないから、花木はなんとか枯死を
免れてはいるものの、10数年前に植えた時から
あまり成長していない。
多くのつつじ類、いちいの木やエゾ松のほとんどは
亡くなった義父が、釧路の自宅庭から車で訪れる度に
一本、二本と移植してくれたものだった。
花木には疎く、無関心な私だが、毎年の冬囲いだけは
自分の手でやってきた。

寡黙で大袈裟な言動の無い義父であったが、娘である妻と
外孫の私の娘に向ける愛情の深さは厚いものがあった。
同時にその愛情は、娘婿に対する思いやりとしても
私の胸にも温かく届いた。
未熟な夫婦の絆を人並みに、より深いものへと導いてくれたのは
義父だったという感謝の念が常に私の心にある。

冬囲いは、雪の重さで庭木の枝が折れないように
細竹に縄を絡めて補強する。
枝を一纏めにして縄で巻き上げただけのものを見かけるが、
私には、それができない。
年に一度の冬囲いの時期だけという訳ではないが、義父の形見を
粗雑に扱えないと思うのである。

今年は、この慣れた作業に、いささかの疲れを感じていた…。

だいこん

2014-09-20 08:41:45 | 備え無き定年
昔の想い出というものは、夢に似ていて色彩に乏しい。
と言うより暮色に包まれたような薄暗い情景が多いものだが、
あの想い出は大根のみずみずしい白が記憶に残されている。

私が母の実家である淡路島へ行ったのは、僅か三度である。
最初は樺太から引揚げてきた幼児期で、記憶と言えば、
薄気味の悪い牛蛙の鳴き声と堀へ転げ落ちて溺れそうに
なったことぐらいである。
大根にまつわる想い出は、小学校の4年か5年の頃であったと思う。

北海道の釧路から道内を根室本線、函館本線と乗り継ぎ、
青函連絡船で青森へ…。
思い出したが、それは昭和29年の晩秋の頃であったと思う。
この年を思い出したのは私達母子の旅より一月ほど前の
9月下旬の台風で洞爺丸が沈没するという大惨事があったからである。
母子が乗船した連絡船の船名は記憶に無いが、その日も津軽海峡は
荒れていて船底に近い三等船室の畳に横たえた体は、船が大きく
揺れる度に畳の上を転がるほどであった。
おまけに、船底を覆う黄土色のペンキの臭いが今にも突き上げてきそうな
吐き気を助長して、4時間半ほどの船旅は便所を往復するのに
費やされてしまった。
青森からは旅費の安い日本海側の路線を経由し、神戸へ辿り着き、
どうにか明石から淡路島へと渡ったのである。

この時、母子が淡路島へ向かった目的は、母の末弟の結婚式に
出るためであった。
結婚式などという晴れやかなセレモニーに出席したのは、
私にとって勿論これが初めてであった。
しかも、その古式な婚礼で私は「酌取り」なる重要な役目を、
今では誰であったか思い出せない同い年くらいの少女とともに
担わされたのだった。
三々九度の杯に酌をし、スルメや昆布を参列者に橋渡しするような
ものであったと思う。

時期的には、冬休みにはまだ間のある頃だったので
学校は休んでの旅であったと思うのだが、結婚式が終わっても、
母は一向に帰る気がなさそうであった。
私は、近所の子供達が塀をよじ登って「あれが北海道から来た子やで」
などと指差される環境も気にならず無邪気に遊んでいられる日々が楽しかった。

そんなある日、祖母の部屋からの言い争うような声を耳にして、
不安に駆られた私は廊下を忍び寄り部屋の前で立ち聞きをしたのだった。
叔父の怒声と祖母のなだめる言葉に、母のすすり泣く声が混じっていた。
新婚早々の叔父は、一向に帰る気配を見せない母に苛立ち、早々に
北海道へ戻ることを強要していた様子は、少年の私にも理解できた。
今思えば、その時の母は、北海道での生活に疲弊し、できることなら
まだ両親の健在な実家に戻ることを切望していたのである。

私は、足を忍ばせてその場を離れたものの、言いようのない悔しさと
悲しさで表へ駆け出していた。
家の周辺は二毛作の畑であったが、大根畑へ出た私は、一畝か二畝ほどの
大根を引き抜き、かたわらを流れる用水路に、つぎつぎと叩きつけるように
放り込んだのであった。
みずみずしく白い大根が用水路を流れていくのを見ながら、私の涙は
いつまでも止まなかった。