新八往来

季節が移ろい、日々に変わり行く様は、どの一瞬も美しいが、私は、風景の中に一際の力強さを湛えて見せる晩秋の紅葉が好きだ。

口食の想い出1

2015-07-26 16:59:15 | 備え無き定年
私は、昭和19年の生まれなので終戦の直前、直後の飢餓的状況の想い出はない。
元来、食に対する欲求の薄い人間なのだと自己認識しているが、それでも食べ物や飲み物の印象深い思い出はいくつか残っていて、その時代の自分の置かれていた状況とともに思い出すのである。

幼年期から少年期、昭和20年代から30年代にかけての時代であるが、私のその時期は極めて厳しい生活環境の中にあったのだが、飢餓感に襲われる程の食に対する不足感は記憶に残ってはいない。
その時代の食卓は、そのようなものであるという風に納得していたためであったろう。
しかし、小学生時代の私は健康診断の度に栄養失調と診断され続けていた。
食の不足感を持ってはいなかったが、少年が栄養的に充足されるだけの食糧事情ではなかったのであったろう。
そのせいか虚弱体質児童のための林間学校すら同行させてもらえなかったし、4年生の時には小児結核で半年ほど学校を休むことを余儀なくされて、引揚者用の市営住宅の中で煎餅布団に横たわっていたこともあった。

食の想い出の最も古いものは、やはり沖田沢時代である。
沖田沢では、家の前の開墾地とは別に少し離れた場所にも農地が在って、そこには農作業中の雨除けや、休憩に使うための拝み小屋(合掌型の小屋)があった。
小学校に上がる前の私は、祖父母の農作業に付いてゆき、周辺で遊んでいるのが常であったが、印象深い食べ物と言うのは、そんな時代にその拝み小屋で開いた弁当である。
味や食感の記憶は無く、アルミの弁当の中は黄色い食べ物であったという事だけが記憶に残っているのである。

それは白飯を着色したようなものではなく、別の穀物であったのかも知れないが、この弁当の内容物については未だに謎のままである。
この弁当のほかは沖田沢時代の家庭での食の想い出は無い。

小学校一年の終了までが私の沖田沢時代であった。
学校へはアルマイトのカップを祖母の作ってくれた布袋に入れて通っていたから、給食があったのかも知れないが憶えていない。
憶えているのは、夏・冬の休みに、その期間用の脱脂粉乳が配給されたことである。
今風に言えばスキムミルクであるが、これを学期の終業式のあと帰り道で粉末状のままのものを舐めながら歩いたものである。
粉末を舐めても、湯に入れて飲んでもそれほど美味いというものではなかった。

祖母が一里ほど離れた富川の町へ行商に出ていたことは以前にも書いたが、ある時、祖母の商いに同行したことがある。
町の家々を巡っている時、どこかの飼い犬に襲われて、私は逃げ回った挙げ句に尻を噛まれてしまった。
それほどの傷でもなく痛みも大したことはなかったが、恐怖感で泣き叫んでいると飼い主が飛び出してきて、祖母には平謝りに謝って、私には両手一杯の菓子をくれたのだった。
当時の私の口には滅多に入ることのない甘い菓子であったので、この事件の想い出は、犬に噛まれたことよりも、頂いたお菓子の甘さの方が勝っているのである。

食の想い出と言うのは、日常的にすぎるせいか、あるいは私の食に対する欲求の薄さのせいか、人生の長さの中では意外に少ないように思える。
沖田沢の頃のその思い出の最後は、チーズと言う食べ物に出会ったことである。
そこで口にして以来、再び口にするまでには10年以上の期間がある食べ物であった。

その人と自分の関係については、未だに判らない。
祖父母の知人か、一年生の時の同級生の親族であったかも知れない。
その人は所謂、肺病で床に伏せっていた。
春か、初夏か、なんとなく爽やかな季節感が漂う思い出である。
温かい縁側に腰を掛け、庭に目をやると柔らかな陽射しの中に蝶が舞っている。
そんな情景の中で、病人の滋養のためにあったチーズのお裾分けに与ったのである。
それを口にした時、それまでの短い人生の中でこれほど美味しいものはなかったという鮮烈な印象が口腔内に広がったのである。
成人して後に食卓や、レストランで口にする機会は日常的になったが、その時の味覚に匹敵するものには出会ったことがない。

還暦間近の今まで、食に関する想い出の第一位は、このチーズか後に書きたいと思う鯨肉か私の中では優劣のつけ難い味覚なのであった。