新八往来

季節が移ろい、日々に変わり行く様は、どの一瞬も美しいが、私は、風景の中に一際の力強さを湛えて見せる晩秋の紅葉が好きだ。

だいこん

2014-09-20 08:41:45 | 備え無き定年
昔の想い出というものは、夢に似ていて色彩に乏しい。
と言うより暮色に包まれたような薄暗い情景が多いものだが、
あの想い出は大根のみずみずしい白が記憶に残されている。

私が母の実家である淡路島へ行ったのは、僅か三度である。
最初は樺太から引揚げてきた幼児期で、記憶と言えば、
薄気味の悪い牛蛙の鳴き声と堀へ転げ落ちて溺れそうに
なったことぐらいである。
大根にまつわる想い出は、小学校の4年か5年の頃であったと思う。

北海道の釧路から道内を根室本線、函館本線と乗り継ぎ、
青函連絡船で青森へ…。
思い出したが、それは昭和29年の晩秋の頃であったと思う。
この年を思い出したのは私達母子の旅より一月ほど前の
9月下旬の台風で洞爺丸が沈没するという大惨事があったからである。
母子が乗船した連絡船の船名は記憶に無いが、その日も津軽海峡は
荒れていて船底に近い三等船室の畳に横たえた体は、船が大きく
揺れる度に畳の上を転がるほどであった。
おまけに、船底を覆う黄土色のペンキの臭いが今にも突き上げてきそうな
吐き気を助長して、4時間半ほどの船旅は便所を往復するのに
費やされてしまった。
青森からは旅費の安い日本海側の路線を経由し、神戸へ辿り着き、
どうにか明石から淡路島へと渡ったのである。

この時、母子が淡路島へ向かった目的は、母の末弟の結婚式に
出るためであった。
結婚式などという晴れやかなセレモニーに出席したのは、
私にとって勿論これが初めてであった。
しかも、その古式な婚礼で私は「酌取り」なる重要な役目を、
今では誰であったか思い出せない同い年くらいの少女とともに
担わされたのだった。
三々九度の杯に酌をし、スルメや昆布を参列者に橋渡しするような
ものであったと思う。

時期的には、冬休みにはまだ間のある頃だったので
学校は休んでの旅であったと思うのだが、結婚式が終わっても、
母は一向に帰る気がなさそうであった。
私は、近所の子供達が塀をよじ登って「あれが北海道から来た子やで」
などと指差される環境も気にならず無邪気に遊んでいられる日々が楽しかった。

そんなある日、祖母の部屋からの言い争うような声を耳にして、
不安に駆られた私は廊下を忍び寄り部屋の前で立ち聞きをしたのだった。
叔父の怒声と祖母のなだめる言葉に、母のすすり泣く声が混じっていた。
新婚早々の叔父は、一向に帰る気配を見せない母に苛立ち、早々に
北海道へ戻ることを強要していた様子は、少年の私にも理解できた。
今思えば、その時の母は、北海道での生活に疲弊し、できることなら
まだ両親の健在な実家に戻ることを切望していたのである。

私は、足を忍ばせてその場を離れたものの、言いようのない悔しさと
悲しさで表へ駆け出していた。
家の周辺は二毛作の畑であったが、大根畑へ出た私は、一畝か二畝ほどの
大根を引き抜き、かたわらを流れる用水路に、つぎつぎと叩きつけるように
放り込んだのであった。
みずみずしく白い大根が用水路を流れていくのを見ながら、私の涙は
いつまでも止まなかった。