新八往来

季節が移ろい、日々に変わり行く様は、どの一瞬も美しいが、私は、風景の中に一際の力強さを湛えて見せる晩秋の紅葉が好きだ。

2016-11-13 15:25:30 | 備え無き定年
特急の停車する駅にしては、鄙びた佇まいの駅である。
海が近いせいだろうか、微かに潮の香りが漂っている。
売店には、ほとんど名産らしき土産物も見当たらないのに「お焼き」を焼く
スペースが不似合いなほど広い。
待合の床は売店のおばちゃんがきれいに掃除をして、水を打っていた。

都会の駅のような慌ただしさや、喧騒とは無縁の世界である。
ぜんまい仕掛けの時が、ゆっくりと刻まれていた。
狭い待合のベンチに私より10歳ほど年嵩の老人が、一人腰を掛けている。

杖代わりの手押し車に頼りながら、老婆が入り口から出て行こうとして振り返った。
「あまり遅くならないうちに、家に戻りなさいよ。」と、ベンチの老人に声をかけた。
彼は「あ~」と、気の無い返事をしながら、潮に焼けた肌に太い皺の刻まれた顔で
照れたような笑いを浮かべて、老婆を見送っていた。
短い言葉の中に、長い馴染みを感じ取れた。

老婆と入れ替わるように、待合の奥にある便所を借りに来ただけの親子が入ってきた。
老人は母親に手を引かれる女の子に「こんにちは」と声を掛け、彼女も笑顔で
「こんにちは」を返した。

二人が出た後の待合には、いつの間にか売店のおばちゃんの姿もなく、昔ながらの小窓に
声が聞こえるように穴を開けた切符売り場には、視界に隠れて将棋でもさしているのだろうか、
駅員の姿も見当たらない。

さっき、おばちゃんから買った「お焼き」を立ったまま頬張っている私に、500mlの缶ビールを
手にした老人が会釈をしてくれた。
私も、つられるように会釈を返した。

頬張った「お焼き」を思いっきり良く飲み下した私は、食堂のあたりをポンポンと叩きながら駅を出て、
停めていた車に戻った。
車から、ゆっくりとビールの缶を口に運ぶ老人の後姿に視線をやりながら、エンジンをかけた。

ゆったりと流れる時間を断ち切るように、アクセルを踏んでいた。

車窓

2016-09-18 19:23:31 | 備え無き定年
2月24日朝、前日北海道を襲った強風雪が空陸の交通網を
寸断した翌早朝、私は妻の親戚の葬儀に参列するため
釧路行きの特急に乗り込んだが、前日の荒天が嘘のように
清々しく晴上がった朝であった。
荒れ狂った南風は重い湿雪を残して、既にオホーツク海へ抜けていた。

北海道の雪は、降雪量が多くても軽いため、葉の落ちた木の枝を
覆うことは少ない。
雪景色に枯色の落葉樹林が北の風景なのだが、その朝、車窓から見る
樹木は重い雪を枝で持ち堪えていたので、一面の雪景色の観を呈していた。

妻と娘が、危篤の報で先行し留守のため夜半まで旅支度し、5時起床で
1番列車に乗り込んだので、座席に腰を落とすと睡魔に襲われそうになるが、
この美しい車窓の風景をを前にまぶたを閉じるのが惜しい気がして、
間もなく日高山脈を抜けるトンネル群に入るまで、覚醒していようと懸命であった。

つい、うとうとしている間に列車は長いトンネル群を抜け、日高山脈の裾の
なだらかな丘陵地帯を走り、十勝平野の玄関口、新得に近づいていた。
列車は7:13分発、目的地釧路着10:52分で所要時間は3時間40分の予定である。

少年の頃、私は4歳下の妹の手を引いて釧路発の夜行列車に乗せられ、
札幌に隣接する江別に向かった想い出がある。
当時は、道東から道央に向かう鉄道ルートは狩勝峠越えが唯一で、
トンネル化が進んでいなかったため、現在のルートより遥かに高い山地を縫っていた。
急峻な鉄路を機関車一両では登り切れないので、後尾にも機関車を連結し押し上げて
峠越えをしていた。

釧路を出て間もなく日が落ち、目的地には翌朝到着することを知っていたが
幼い妹との二人旅は不安で、停車する度に車窓に額を擦り付けるようにして、
ほの明るい駅名の表示板を各駅毎に確認せずにはいられなかった。
10時間を超える長旅の末、明方のもやの中で目的地の駅名を確認して
妹の手を握り締めながら人気のないホームに降り立ち、朝もやの中に
小柄な祖母を見つけたとき、私は安堵のため泣き出しそうになるのを堪えていた。
あれから、半世紀近くの年月が過ぎようとしている。

午前9時を回った陽射しは、輝きの強さを増して日高山脈の眺望を峻険な厳しさで映す一方、
春の兆しを感じさせる暖かさを秘めていた。
陽射しの中のキラキラとした輝きは、降雪ではなく厳寒の地の雪が列車の走行が巻き起こす
風に舞いあがって光を放っているのである。

鉄橋から望む十勝川は、その3分の1ほどが氷で覆われているものの、川面の輝きに混じって
春の瀬音が微かに聞こえている。
午前10時を過ぎる頃、列車は十勝平野の東端を抜け、短いトンネルを潜って、突然のように
波が足元を洗うような海岸線に出た。
荒々しさの余韻が残る太平洋が、車窓いっぱいに拡がった。
道東特有の殺風景な海岸に押し寄せる波涛は、静かさを取り戻した陸上とは異なり、
猛々しい牙を剥いていた。

僅か130年ほどの北海道の歴史が、陸の様相を一変させたのに比すれば、
太平洋は泰然として人為の小賢しさを水平線の彼方から見ているように思える。
茫然と車窓に目をやっているうちに、列車は終着駅に停車した。

書きたいという気持ち、伝えたいという意志

2016-07-18 21:16:46 | 備え無き定年
私は、ある方のご好意に甘えて、彼のHPの一隅を汚す厚顔で拙い文を8編ほど載せて頂いておりますが、
この好機に恵まれたことを今更ながらに嬉しく思っています。
彼との出会いは、共に参加するメーリングリストにおいてですが、私がMLに参加したのは
どちらかといえば書き込みをしたいというのが先で、交信をしたいという欲求は薄いものでしたから、
返信を期待することなく、一方通行的な内容を発信しがちなメンバーであり、これからもそういう自称「片隅派」を
認じていくつもりです。

そんなMLで、一方的に書き込むことを許してくれたうえに、その場所を提供してくださった彼との出会いに
感謝したいと思うのです。

文章を書く意欲の裏付けは様々でしょうが、自分が読むためのものを書くというのは無いように思える。
例え、日記であっても読ませたい、読んでくれる人がいることを期待したいという思いがどこかにあるでしょう。
それは、私のような素人の作文であれば、自分の何かを伝えたいという意志に他ならないのである。

ここまでの8編を書き込みながら、しかし、自分が何を伝えようとしているのかは、ぼんやりとした輪郭として
意識下に措いていたのだが、その輪郭を少しく顕にしてみようと思うのである。

私の中にある基本的なスタンスは「反体制」という、どうにも理屈抜きの「感情」であり、それは死後化した
イデオロギー的対立意識ではなく、自分の血の中に根強く漂っている「疎外感」の裏返し的な意識なのである。

「北の零年」という映画がある。
明治維新政府によって、北海道への強制移住を命じられた四国淡路の稲田家主従五百数十名の
日高開拓にまつわる物語である。

北海道の先駆者は幕藩体制の崩壊後に移住を命じられた旧士族と、それに続く屯田兵、農・漁業の一般移民、
加えて多くの囚人達であった。

彼らは、明治初期から10年代にかけての移民である。
北海道は彼らの手によって、点在する主要地域の開発を行ってきたのである。
今から、ほぼ150年前からの短い歴史である。

しかし、彼らが三世代ほど経過して旧家として土着したころ、「北の零年」から数えて70年以上も経たころの
昭和20年代に敗戦による引揚げ者という名の「難民」の多くが彼らの「北の零年」を開始したのである。
彼らの歴史は、現在まで、わずか70年の歴史しか持たないのである。

私が旧本籍地の北海道江別市美原「無番地」という住所を、現在の住所に変更してから10年ほどしか経ていない。
昭和30年代の初めまで、そこは無電灯の地域であり、「無番地」であった。

一年に一、二度、母をともなって「無番地」を訪れるが、もちろん今や「有番地」になっており、
数年前にそこに記念碑が建てられた。
碑名は「開基50周」である。その地は「零年」からわずか五十数年の歴史しか持たないのである。
そして私は、戦後の北海道で「北の零年」を開始した「難民」の、最も若い一人なのである。

ここまで、書き込んだ8編の拙い文章の出発点つまり私の原点はそこにある、ということを
明確に意識し始めている。
私たち兄妹を含む従兄弟群は30人以上に上るが、北海道で育ったのは私たち3人兄妹だけである。
その多くが、淡路島とその周辺地域、つまり祖先の地の周辺にいて、ほとんど没交渉の存在である。

私の「反体制」という理屈抜きの感情と表裏一体の「疎外感」は、明治政府という体制によって
強制移住させられた先駆者が北海道の地に築き上げた新たな「体制」のもとへ
戦後の「難民」の末端に連なって移住した者の血の中に流れる意識である。
私にとっての「体制」は、幼年期から還暦を迎えようとする今日まで、時代とともに形を変えてきた。
それは、親類であり、地域であり、学校であり、教師であり、同級生であり、等々である。

この歪んだ自己意識から、自分がいったい何を伝えようとしていて、伝えることに何の意味があるのかと
問い質されると、返答に窮するというのが実態ではあるが、とにかく伝えたいのである。
決して自分史を書こうとしているのではなく、北海道へ渡った「難民」の血脈を伝えたいのである。

それを「北の風紋」のテーマとして抱いて行こうと思う。

きりりとして

2016-05-21 14:01:49 | 備え無き定年
宇宙的には
微塵のような
命だが
きりりとして
終末を迎えよう

季節を観る

2016-03-21 13:47:48 | 備え無き定年
厳寒の光が
暖かい輝きを含み始めた頃から
じっと溜めていた北国の春は
満を持して訪れる
爛漫の季節に再び出会えて良かった

スローライフを生きるということは、ベットに横たわり、
窓越しに散る花びらを一枚一枚眺めていることではない。
つまり、生かされるがままに生きているという
消極的な生きざまではないということを、しみじみ考えさせられる。

様々な形で耳目に展開する現象の一つ一つを、しっかりと見聞きする
体験を繰り返すことが、スローライフなのである。
しっかりとした五感と気力、体力、行動力が必要なのである。

病に負けて無気力状態に陥っている時に、そのことを自覚し
実践することは、杖にすがって立ち上がろうとするほどの気力が必要である。

我家の荒れ庭では、訪れの遅かった春が近年になく爛漫と匂い立っている。
チューリップ、つつじ、ライラック、洋芍薬などが所狭しと咲き狂っているのである。
この異様に活気付いている荒れ庭を眺めつつ、短文の一つでもと思うのだが、
今ひとつテーマが絞れない。

数日前に発熱して以降、通院して点滴を受けている。
午前中は病院のベットでうつらうつらしているのであるが、
こんな状況では帰宅後も五体が萎えていて、春爛漫を楽しむ気分になれないのである、

とりあえず、この状況から脱しなければならない。

判決

2016-01-23 20:35:36 | 備え無き定年
一審棄却
二審棄却
最終審棄却
だが愛する者に
支えられている

口食の思い出2 塊炭と赤飯

2015-11-23 13:42:23 | 備え無き定年
「ほっこうりょう」というのが「北光寮」、「北港寮」、「北興寮」…、どのような名前の寮であったのかは記憶にないが、その「ほっこう寮」で一冬を過ごしたのは、小学1年を卒業して日高富川の沖田沢を去り、2年生の1・2学期を江別の複々式学級を経過して両親や妹と合流した頃であったと思う。
小学校は2年生から4年生にかけて、4校を転校した。

最初の複々式の学校を除き、あとの3校は釧路市内であった。
釧路での住居が定まらずに転々としていた結果である。

釧路に在住した中学1年の終了までの約6年間は、末の妹が誕生し、両親と共に家族5人が揃っていた期間であるから、今思えば私の家族にとっては貴重な期間であった。
しかし思い出せることは父の失業と病気、母の労働、衣食住に窮した生活状況しか浮かんでこないのである。

釧路での住居の最初が南大通りの小さな飲食店の屋根裏であったか、「ほっこう寮」であったか明瞭ではない。
「ほっこう寮」があった住所も思い出せないのであるが、ここで過ごした過酷な一冬を忘れることはできない。

そこは朽ちかけた2階建ての傾きかけた建物で、丸太のつっかえ棒が倒壊をなんとか防いでいるような古いアパートであった。
壁板は防腐のためか真っ黒いペンキで塗りつぶされ、中央に大きな玄関があってそこから2階へ広い階段があり、この玄関と階段をちゅうしんにして左右に4つくらいの部屋があり、1階の一部屋に私の家族が住んでいた。
この時に末の妹が生まれていたのかいないのか、母に聞けばわかることであろうが、私の記憶には4歳下の妹の存在しか残っていない。

生活保護世帯であれば、むしろもっと良い環境を与えられていたのではないかと思われるほど、生活資材に窮していた時期であり、それは道東の厳しい冬を迎えて一層過酷な状況になっていったのである。
老朽建造物の内壁は、ほとんどベニア板一枚の薄さで、いたる所から隙間風が入り込んでくるような住居に暖房資材が無いことは、生活を一際惨めなものにしていた。
ストーブはあっても、石炭が無いのである。

私たちは、太平洋炭鉱の最盛期にそんな厳しい一冬を過ごしていた。
炭鉱から採掘された石炭が鉄道で運搬される線路脇にこぼれ落ちている石炭をバケツを持って拾い集めたり、選炭場で捨てられたものの中から燃えそうなものを拾い集めたりして、細々と暖をとっていると言うようなありさまであった。

そういう状況であったから、父の元同僚が見かねてリュックサック一杯に塊炭を背負って訪ねてくれて、一時贅沢な暖をとることができる機会を待ち望んでいた。
石炭が枯渇した時は、家族で布団に包まっているしか防寒のすべがなかった。

そんなある時、寒さに耐えかねた妹が隣と隔てる壁のべニア板を指差して、「あれを燃やして」と泣いた、その記憶は私の脳裏から生涯拭い去ることはできないであろう。

寒さに備えることが不十分であったくらいであるから、食の備えもまた不足していた。
そういう家族の窮状を心配して、母の実家からもち米と小豆を送ってきたことがあった。
その後の数日間は、毎日赤飯であった。

小豆を入れた赤飯は今でも私の好物の一つであるし、その後、幾度も食べたものであるが、あの時の連日の赤飯は美味かったということより、食が充足された記憶が残っているだけである。

連休の地下鉄

2015-09-23 13:23:51 | 備え無き定年
吊り革に頼る人のいない
連休の地下鉄は
部活少年達の明るい顔と
けだるい表情の大人を乗せて
軽快に走る

口食の想い出1

2015-07-26 16:59:15 | 備え無き定年
私は、昭和19年の生まれなので終戦の直前、直後の飢餓的状況の想い出はない。
元来、食に対する欲求の薄い人間なのだと自己認識しているが、それでも食べ物や飲み物の印象深い思い出はいくつか残っていて、その時代の自分の置かれていた状況とともに思い出すのである。

幼年期から少年期、昭和20年代から30年代にかけての時代であるが、私のその時期は極めて厳しい生活環境の中にあったのだが、飢餓感に襲われる程の食に対する不足感は記憶に残ってはいない。
その時代の食卓は、そのようなものであるという風に納得していたためであったろう。
しかし、小学生時代の私は健康診断の度に栄養失調と診断され続けていた。
食の不足感を持ってはいなかったが、少年が栄養的に充足されるだけの食糧事情ではなかったのであったろう。
そのせいか虚弱体質児童のための林間学校すら同行させてもらえなかったし、4年生の時には小児結核で半年ほど学校を休むことを余儀なくされて、引揚者用の市営住宅の中で煎餅布団に横たわっていたこともあった。

食の想い出の最も古いものは、やはり沖田沢時代である。
沖田沢では、家の前の開墾地とは別に少し離れた場所にも農地が在って、そこには農作業中の雨除けや、休憩に使うための拝み小屋(合掌型の小屋)があった。
小学校に上がる前の私は、祖父母の農作業に付いてゆき、周辺で遊んでいるのが常であったが、印象深い食べ物と言うのは、そんな時代にその拝み小屋で開いた弁当である。
味や食感の記憶は無く、アルミの弁当の中は黄色い食べ物であったという事だけが記憶に残っているのである。

それは白飯を着色したようなものではなく、別の穀物であったのかも知れないが、この弁当の内容物については未だに謎のままである。
この弁当のほかは沖田沢時代の家庭での食の想い出は無い。

小学校一年の終了までが私の沖田沢時代であった。
学校へはアルマイトのカップを祖母の作ってくれた布袋に入れて通っていたから、給食があったのかも知れないが憶えていない。
憶えているのは、夏・冬の休みに、その期間用の脱脂粉乳が配給されたことである。
今風に言えばスキムミルクであるが、これを学期の終業式のあと帰り道で粉末状のままのものを舐めながら歩いたものである。
粉末を舐めても、湯に入れて飲んでもそれほど美味いというものではなかった。

祖母が一里ほど離れた富川の町へ行商に出ていたことは以前にも書いたが、ある時、祖母の商いに同行したことがある。
町の家々を巡っている時、どこかの飼い犬に襲われて、私は逃げ回った挙げ句に尻を噛まれてしまった。
それほどの傷でもなく痛みも大したことはなかったが、恐怖感で泣き叫んでいると飼い主が飛び出してきて、祖母には平謝りに謝って、私には両手一杯の菓子をくれたのだった。
当時の私の口には滅多に入ることのない甘い菓子であったので、この事件の想い出は、犬に噛まれたことよりも、頂いたお菓子の甘さの方が勝っているのである。

食の想い出と言うのは、日常的にすぎるせいか、あるいは私の食に対する欲求の薄さのせいか、人生の長さの中では意外に少ないように思える。
沖田沢の頃のその思い出の最後は、チーズと言う食べ物に出会ったことである。
そこで口にして以来、再び口にするまでには10年以上の期間がある食べ物であった。

その人と自分の関係については、未だに判らない。
祖父母の知人か、一年生の時の同級生の親族であったかも知れない。
その人は所謂、肺病で床に伏せっていた。
春か、初夏か、なんとなく爽やかな季節感が漂う思い出である。
温かい縁側に腰を掛け、庭に目をやると柔らかな陽射しの中に蝶が舞っている。
そんな情景の中で、病人の滋養のためにあったチーズのお裾分けに与ったのである。
それを口にした時、それまでの短い人生の中でこれほど美味しいものはなかったという鮮烈な印象が口腔内に広がったのである。
成人して後に食卓や、レストランで口にする機会は日常的になったが、その時の味覚に匹敵するものには出会ったことがない。

還暦間近の今まで、食に関する想い出の第一位は、このチーズか後に書きたいと思う鯨肉か私の中では優劣のつけ難い味覚なのであった。

沖田沢の頃

2015-05-30 16:12:25 | 新八雑言
沖田沢の時代は、紛れもなく「ばっちゃん」が唯一人の私の保護者であった。

私は、淡路島での妹の誕生を見ることなく、昭和23年に日高門別村の沖田沢に入った。
それから、昭和27年の3月に富川小学校第一学年を終了するまでのほぼ4年間を此処で過ごしたのである。

私が、鉄瓶とともに踏み込んだその沢地は、沖田という姓の旧地主が2戸と広中という姓の旧小作人が農業を営むわずか3戸の集落とも言えないような所であった。

10数年前、祖父の姉の葬儀の時に当時、沖田沢であったろう所へ寄ってみた。
どの家も新たに建て直されていたし、住人も私のことなど記憶にない世代に変わっていただろうと思うが、景色の佇まいに懐かしさが漂っていた。
私たちが住んでいた場所もあのあたりだろうと思えたが、立ち寄らずに引き返した。
当時の低い視点と距離感からの思い出と比べると、小学校までの一里の長い道程は、車ではわずか5分の距離であり、かなりの内陸部であったという印象も太平洋からわずかの場所であった。
しかし、記憶に残る想い出は、当時の低い視線で見たものである。そして、そこに「じっちゃん」は登場していない。
おそらく次の入植地であった江別への動きを始めていて、不在がちであったのだろう。

私と祖母の住いは、沢から少し山に上った所で、ふもとの沖田家からは子供の足でも10分ほどの所であったと思う。
短い坂道は、雑木に囲まれていて昼間でも薄暗かったが、夕暮れともなると暗さが増して、一人で帰る時などは、今にも左右の林から何かが襲ってくるのではないかと怯えながら早足で歩くのだった。
そんな時に、私はいつも怯えを振り払うために「異国の丘」を大声で歌いながら帰るのである。

想い出の風景は、遠望のきく景色であった。
家の前の狭い土地の境に、おそらくじっちゃんが作ったであろう木の柵が回らされていた。
柵は、しっかりとしてはいたが、組木の粗い雑なものであったから、人の侵入を防ぐものでも、土地の境界を示すものでもなかったと思う。
沖田沢では羊毛を売るためなのか羊を飼っており、羊の群れが侵入して畑を荒らすのを防ぐためのものであったと思う。
小高い土地の上に作られた柵に腰を掛けると、沖田沢が一望でき、遠く富川の町のはずれまでも望めた。
内陸側低山の裾を通って富川へ走る軌道があった。
地元の人が「マッチ箱」と通称した小さな機関車が小さな車両を引いてピーッという甲高い汽笛を鳴らす列車であった。
柵の上からは、この「マッチ箱」が軌道を走る姿も遠望できた。

沖田沢のはずれに無人駅があったが、屈強な大人は通り過ぎた列車を追い駆けて飛び乗れるほどの速度のものであった。
だが、この細い軌道は奥地の平取辺りから富川へ出る重要な交通機関であった。
当時、奥地には純系のアイヌの人達が多かったから、列車に乗ればアツシ(アイヌの衣装…今では、観光地で見ることができるだけになった)を着て口の周りに藍色の刺青をほどこした婦人を見かけることは、そう珍しくなかった。
柵に腰を掛けて沖田沢を一望することは、時間を忘れるほど私の心を満たしてくれた。

ばっちゃんは、野菜や山菜などを背負って富川の町へ売りに行き生計の足しにしていたので、日中は留守がちの日が多かった。
遊びから戻っても、ばっちゃんの姿が無い時は、私は、柵に腰を掛けてばっちゃんの帰りを待った。
夕暮れも迫る頃、視界にばっちゃんの姿が入って来る。
小さなばっちゃんの姿が、見慣れたヒョイヒョイと飛び跳ねるような足取りで帰り道を急いでいるのを見つけて、私は「ばっちゃ~んっ!」と呼ぶのである。
ばっちゃんは、その声に気付くと「お~い」と応えて手を振ってくれた。
私は、柵の上で大きく安堵するのであった。

ばっちゃんは、両親の叔父(養父=じっちゃん)の連れあいであったから、両親にも、勿論私にも血縁の人ではなかったけれど、先年、101歳の天寿を全うするまで、私にとっては「ばっちゃん」であった。