「ほっこうりょう」というのが「北光寮」、「北港寮」、「北興寮」…、どのような名前の寮であったのかは記憶にないが、その「ほっこう寮」で一冬を過ごしたのは、小学1年を卒業して日高富川の沖田沢を去り、2年生の1・2学期を江別の複々式学級を経過して両親や妹と合流した頃であったと思う。
小学校は2年生から4年生にかけて、4校を転校した。
最初の複々式の学校を除き、あとの3校は釧路市内であった。
釧路での住居が定まらずに転々としていた結果である。
釧路に在住した中学1年の終了までの約6年間は、末の妹が誕生し、両親と共に家族5人が揃っていた期間であるから、今思えば私の家族にとっては貴重な期間であった。
しかし思い出せることは父の失業と病気、母の労働、衣食住に窮した生活状況しか浮かんでこないのである。
釧路での住居の最初が南大通りの小さな飲食店の屋根裏であったか、「ほっこう寮」であったか明瞭ではない。
「ほっこう寮」があった住所も思い出せないのであるが、ここで過ごした過酷な一冬を忘れることはできない。
そこは朽ちかけた2階建ての傾きかけた建物で、丸太のつっかえ棒が倒壊をなんとか防いでいるような古いアパートであった。
壁板は防腐のためか真っ黒いペンキで塗りつぶされ、中央に大きな玄関があってそこから2階へ広い階段があり、この玄関と階段をちゅうしんにして左右に4つくらいの部屋があり、1階の一部屋に私の家族が住んでいた。
この時に末の妹が生まれていたのかいないのか、母に聞けばわかることであろうが、私の記憶には4歳下の妹の存在しか残っていない。
生活保護世帯であれば、むしろもっと良い環境を与えられていたのではないかと思われるほど、生活資材に窮していた時期であり、それは道東の厳しい冬を迎えて一層過酷な状況になっていったのである。
老朽建造物の内壁は、ほとんどベニア板一枚の薄さで、いたる所から隙間風が入り込んでくるような住居に暖房資材が無いことは、生活を一際惨めなものにしていた。
ストーブはあっても、石炭が無いのである。
私たちは、太平洋炭鉱の最盛期にそんな厳しい一冬を過ごしていた。
炭鉱から採掘された石炭が鉄道で運搬される線路脇にこぼれ落ちている石炭をバケツを持って拾い集めたり、選炭場で捨てられたものの中から燃えそうなものを拾い集めたりして、細々と暖をとっていると言うようなありさまであった。
そういう状況であったから、父の元同僚が見かねてリュックサック一杯に塊炭を背負って訪ねてくれて、一時贅沢な暖をとることができる機会を待ち望んでいた。
石炭が枯渇した時は、家族で布団に包まっているしか防寒のすべがなかった。
そんなある時、寒さに耐えかねた妹が隣と隔てる壁のべニア板を指差して、「あれを燃やして」と泣いた、その記憶は私の脳裏から生涯拭い去ることはできないであろう。
寒さに備えることが不十分であったくらいであるから、食の備えもまた不足していた。
そういう家族の窮状を心配して、母の実家からもち米と小豆を送ってきたことがあった。
その後の数日間は、毎日赤飯であった。
小豆を入れた赤飯は今でも私の好物の一つであるし、その後、幾度も食べたものであるが、あの時の連日の赤飯は美味かったということより、食が充足された記憶が残っているだけである。
小学校は2年生から4年生にかけて、4校を転校した。
最初の複々式の学校を除き、あとの3校は釧路市内であった。
釧路での住居が定まらずに転々としていた結果である。
釧路に在住した中学1年の終了までの約6年間は、末の妹が誕生し、両親と共に家族5人が揃っていた期間であるから、今思えば私の家族にとっては貴重な期間であった。
しかし思い出せることは父の失業と病気、母の労働、衣食住に窮した生活状況しか浮かんでこないのである。
釧路での住居の最初が南大通りの小さな飲食店の屋根裏であったか、「ほっこう寮」であったか明瞭ではない。
「ほっこう寮」があった住所も思い出せないのであるが、ここで過ごした過酷な一冬を忘れることはできない。
そこは朽ちかけた2階建ての傾きかけた建物で、丸太のつっかえ棒が倒壊をなんとか防いでいるような古いアパートであった。
壁板は防腐のためか真っ黒いペンキで塗りつぶされ、中央に大きな玄関があってそこから2階へ広い階段があり、この玄関と階段をちゅうしんにして左右に4つくらいの部屋があり、1階の一部屋に私の家族が住んでいた。
この時に末の妹が生まれていたのかいないのか、母に聞けばわかることであろうが、私の記憶には4歳下の妹の存在しか残っていない。
生活保護世帯であれば、むしろもっと良い環境を与えられていたのではないかと思われるほど、生活資材に窮していた時期であり、それは道東の厳しい冬を迎えて一層過酷な状況になっていったのである。
老朽建造物の内壁は、ほとんどベニア板一枚の薄さで、いたる所から隙間風が入り込んでくるような住居に暖房資材が無いことは、生活を一際惨めなものにしていた。
ストーブはあっても、石炭が無いのである。
私たちは、太平洋炭鉱の最盛期にそんな厳しい一冬を過ごしていた。
炭鉱から採掘された石炭が鉄道で運搬される線路脇にこぼれ落ちている石炭をバケツを持って拾い集めたり、選炭場で捨てられたものの中から燃えそうなものを拾い集めたりして、細々と暖をとっていると言うようなありさまであった。
そういう状況であったから、父の元同僚が見かねてリュックサック一杯に塊炭を背負って訪ねてくれて、一時贅沢な暖をとることができる機会を待ち望んでいた。
石炭が枯渇した時は、家族で布団に包まっているしか防寒のすべがなかった。
そんなある時、寒さに耐えかねた妹が隣と隔てる壁のべニア板を指差して、「あれを燃やして」と泣いた、その記憶は私の脳裏から生涯拭い去ることはできないであろう。
寒さに備えることが不十分であったくらいであるから、食の備えもまた不足していた。
そういう家族の窮状を心配して、母の実家からもち米と小豆を送ってきたことがあった。
その後の数日間は、毎日赤飯であった。
小豆を入れた赤飯は今でも私の好物の一つであるし、その後、幾度も食べたものであるが、あの時の連日の赤飯は美味かったということより、食が充足された記憶が残っているだけである。