新八往来

季節が移ろい、日々に変わり行く様は、どの一瞬も美しいが、私は、風景の中に一際の力強さを湛えて見せる晩秋の紅葉が好きだ。

北海道の政治的風土

2005-05-28 22:45:18 | 新八の色眼鏡
私のような60年安保世代の人間が還暦を過ぎた今、ぼんやりとした眼差しで政治報道に目を向けると、我が郷土の代議士先生たちが政治の表舞台で活躍していることに驚かされる。数年前には、かの鈴木宗男先生が国会を席巻していて、選挙民の一人としてはもう少しスマートな先生を看板にできないのかと、後ろめたい思いをさせられていた。幸い、彼が淘汰されて今や北海道は保守政治の次代を担う先生方が台頭してきた。町村信孝外務大臣、中川昭一経済産業大臣、武部勤自民党幹事長と政権与党の中枢にいて、結構言いたいことを言っているのである。北海道人としてはこういう状況を見ることはかつてなかったことではなかろうか。
革新王国と、北海道がそう呼ばれた時代があった。旧社会党が健在の頃である。しかし、冷静に翻ってみると、終戦直後を除けば北海道は革新勢力が突出していたとは言えない。どちらかといえば保守・革新の政治勢力は互角拮抗していたのである。革新が、保守と対等に争い北海道知事の座は時代とともに交代していた、そういう革新の善戦振りが革新王国のイメージを作り上げていたのである。革新を支えていたのは労組に他ならない。その主体は、教員組合、炭鉱労組、旧国鉄の国労・動労、鉄鋼、製紙などが労使として対峙していた時代までである。旧国鉄の民営化、相次ぐ炭鉱閉山で経営に対峙する労組は衰退し、残ったのは労使一体の「組織」であり、衝立一枚のソフトな対峙である。バブル期に成長したサービス業など第三次産業の従事者のほとんどが、労組として未組織である。既存の労組は、専ら自らの「組織」の中で安穏に循環していくことに専念し、未組織労働者に憐憫の情を寄せる程度のものであり、未組織労働者は弱体化した革新勢力の主体に何らの期待もしていない。旧社会党のような対峙姿勢を明確にする政党がここまで衰退したのは、労使一元化に寄り掛かった軟弱な労組に軸足を乗せ、未組織労働者の辛酸の声を掬い上げることのできなかった当然の報いといえる。これが風化しつつある北海道の革新的風土の現況といえる。
一方、拮抗する保守的風土の底流にあるのは、明治以来の植民地政策で中央から還流してくる利益に依存しようとする根強い期待感であり、それを実現できるのは中央政治との直接的な繋がりである。公共事業を主体とし、産業振興、雇用促進、景気浮揚策等々、利益誘導型の豪腕政治家が期待されたきた。しかし、ここ数年の小泉内閣以来、この期待感に水を差されつつある。ひとまず、鈴木宗男先生の失脚で、あからさまな政治家は姿を消している。
公共事業の先細り、地域産業の低迷、景気の低迷に対する保守層の苛立ちと既組織、未組織労働者の怨嗟の声が混沌として北海道を覆いつつある。この閉塞感がどのようなエネルギーになり得るのであろうか。活躍中の政権中枢の先生方も、足元は磐石とは言えないのが実情と言える。

大量/高速=高リスク

2005-05-10 19:08:30 | 新八の色眼鏡
此の度のJR脱線事故の犠牲者、ご遺族、被害者の方々に対し衷心より哀悼の意とお見舞いを申し上げます。

毎秒、毎分、毎時間、毎日、毎月、毎年、毎年度 ・・・ 一定期間に発生した数値を時間単位で比較することが一般的になったのは、一体いつの頃からであろうか。近代化が大量生産を可能にして行く経過を通じて必然的に増幅してきた「価値観」・・・「より速く、より大量に」である。これはイデオロギーや国家体制の壁を乗り越えた共通の「価値観」である。「より速く、より大量に」は、生物の進化の過程で種の保存に必要な条件の一つであったから野生の中でも自然な形で生き残っている。しかし、野性の中で生き残るための機能として進化した結果は、人類においては「二足歩行」に留まらず、それによって発達した「脳」と自由に動かすことのできる「手」によって生み出された「道具」によって飛躍的に発展してきたのである。それが人類においては史上の節目々々で飛躍的に発達し、今や「光よりも速く・・・」が夢ではない時代を迎えている。天は人に必要以上の能力を与えたのではあるまいか。「より速く、より大量に」は、生産、運輸、移動において大発展を遂げているが、一方で「大量破壊」の機会を増幅させ、人類自らの首に「恐怖の刃」を突き付けている。

現在においては、「生産性と利潤の確保」という価値観が圧倒的な支配権を握り、我々はその価値観の檻に囲まれた「フォロコースト」の中で生きている。先進国における、運輸、移動体制はほぼ整い、後進地域においてもそれらのインフラ整備は急速に整い始めた。物流道路、鉄道、船舶、航空路線は完備されつつある。
都市郊外、鉄道沿線に住居を持つサラリーマンは、朝の起床時間から定められた一律の行動をとる。バスから鉄道へ、そして与えられた職場へ・・・コンピューター端末、ロボット装置、その他の大量生産機材とともに労働を強制され、深夜に至って黙々と帰路につく。70年前にチャプリンが憂いた「モダンタイム」の世界は、今ではより無機的に我々の眼前に展開し、我々自身がネジ釘の一本に成り果てている。チャプリンの時代は良かった。彼の時代に予測できたヒューマンエラーによるリスクの何十倍、何百倍のリスクを抱えて「ネジ釘達」は怯えながら開き直っている。

「より速く、より大量に」「生産性と利潤の確保」という現代を支配する価値観は、怯えながら開き直っている人々へも物質的充足感と利便性をもたらすことで、組織に対する抵抗の芽を摘み取り彼等の意識下へ潜ませることに成功している。しかし、このような状況は、やがて次世代の人々を断崖へ導き、暗黒の海へ落す「悪魔の笛」にならないであろうか。今、我々は覚醒し、「悪魔の笛」を棄てなければならない。

今回のJR脱線事故の責任については、当然、JR西日本に帰結することであるが、それは経営陣のみならず企業全体の責任として重く受け止めるべきである。同時に、運輸業界全体、管理当局全体としても責任を担う必要がある。また、大量輸送の利便性を享受した多くの利用者は、自らが被害者の側に立つのみではなく、高リスク過密ダイヤのもたらす利便性のみを漫然と受け入れていたことについて翻る必要があるのではないか。

我々を閉じ込めている「フォロコーストの檻」は、ある意味では自縄自縛の檻であるから、自らが決意さえすれば自縛の檻から抜け出ることができる。体制内にあっても、その進むべき方向を注意深く見極めながら、内側からも糾すべきものは正し、外部の状況に対しても油断なく見極め、糾して行くことが我々の責務であると考える。