私が北海道の地を踏んだのは、何歳の頃であったか、何故両親と帯同せずに独り祖父とともに渡道したのか、そのわけを聞いていない。
昭和22年に樺太から淡路島へ引揚げたのだが、その頃の父母や祖父母の状況がどのようなものであったか、後年、断片的な話を聞かされたが、記憶はこころもとないものである。
かすかな記憶を辿っても淡路島では父や祖父の輪郭は描けなかった。
何となく、母と祖母の匂いが漂うだけである。
4歳年下の妹は、昭和23年に淡路島で生まれているのだが、その誕生の記憶もないのである。
あるいはその頃、私は既に母の手許を離れていたのかもしれない。
祖父母はとりあえず淡路島を経由したが、間もなく同郷人が多く入植していた日高の門別村沖田沢の一隅へ住み着いたのである。
その後、祖父が何かの目的で再び淡路島に戻った折に私に向かって「じっちゃんと一緒に来ないか」と言った時、私は、躊躇いも抵抗もなく即座に「行く」と応えたような気がする。
幼児の無邪気な決断は早かったが、両親、祖父の大人の間には複雑な葛藤があったであろうと思われる。
その後、両親は妹とともに釧路の炭鉱へ生計の場を求めて行ったのである。
私が祖父の手に引かれて北海道の地へ渡ったのは確かなことであるにもかかわらず、その旅の記憶は全くない。
祖父が背に荷を負っていたかどうかの記憶は鮮明ではないのに、私の手を引いていないもう一方の片手に提げていたものをはっきりと記憶している。
それは、見事に磨き上げられて黒光りのする大きな鉄瓶であった。
その後、この鉄瓶との付き合いは20年ほどにも及んだのである。
門別村沖田沢の一隅の地はおそらく借地であったろうと思われる。
そして山の斜面に背を付けたような小さな住いは祖父の手で造られたもののようであった。
周辺の山から切り出された木材で組み建てられ、壁は粘土に切藁を繋ぎとして混入たものを塗り上げただけの粗末と言うより酷い棲家であった。
つまりは、文字通りの泥土の壁であったから、屋内での生活は、壁に背を預けないように注意が必要な状態であり、どうにか雨露を凌げるだけの住いだった。
入り口の引き戸も建て付けの悪い手製で、板戸ではなく日中の明り取りのためなのか、障子用の桟に紙を貼り付け、菜種油か何かを塗って強度を保っているようなものであって、その油の臭いが屋内に漂っていたような記憶がある。
その入り口を開けて祖父が我が家に戻った時、祖母は屋内に居て土間に射し込んだ光に鉄瓶を片手にした大柄な身体が影となって立っているのを見た。
しばらく、息をひそめて祖父の背後に隠れていた私が、少し間をおいて祖母の前へひょいと姿を現した時の祖母の驚きと喜びようは、当の本人の私が驚かされるほどであった。
私の幼児期の記憶は、このあたりから鮮明になってきたのである。
祖父が、祖母を思いがけない土産でも見せるように驚かそうとして私を背後に隠した事と言い、その時の祖母の驚きようと言い、私が祖父とともに日高の地へ向かったことは、両親にとっても祖父母にとっても予想外の成り行きであったのだろうと思う。
私が、躊躇いも恐れもなく祖父に付いて来たことは、それまでの短い私の人生の中に二人の存在がどのような係わりを持っていたかを覗わせる出来事であったと思うのである。
私の1歳に満たない頃の一枚の写真は、祖父の胡座の中に抱かれて笑っているものである。
一方、私一人を養父母のもとへ預けて、妹とともに釧路へ入った両親の思いはどうであったろうかと思うのである。
私の父も、祖父も強烈な個性の持ち主であり、ともに家族、家庭の枠には収まりきれない男たちであった。
私の中では、家族における男の存在感は希薄なのである。
鉄瓶とともに私を北海道の地へ連れて来た「じっちゃん」の存在感はこの時だけで、その後、10年の家族の転変とした軌跡を経て江別市の国道で泥酔の挙げ句に交通事故死するに至るまで、私の周辺に登場しなかったのである。
私達兄妹は、祖母と母、二人の女性の辛酸の中で少年期を経て来たのである。
昭和22年に樺太から淡路島へ引揚げたのだが、その頃の父母や祖父母の状況がどのようなものであったか、後年、断片的な話を聞かされたが、記憶はこころもとないものである。
かすかな記憶を辿っても淡路島では父や祖父の輪郭は描けなかった。
何となく、母と祖母の匂いが漂うだけである。
4歳年下の妹は、昭和23年に淡路島で生まれているのだが、その誕生の記憶もないのである。
あるいはその頃、私は既に母の手許を離れていたのかもしれない。
祖父母はとりあえず淡路島を経由したが、間もなく同郷人が多く入植していた日高の門別村沖田沢の一隅へ住み着いたのである。
その後、祖父が何かの目的で再び淡路島に戻った折に私に向かって「じっちゃんと一緒に来ないか」と言った時、私は、躊躇いも抵抗もなく即座に「行く」と応えたような気がする。
幼児の無邪気な決断は早かったが、両親、祖父の大人の間には複雑な葛藤があったであろうと思われる。
その後、両親は妹とともに釧路の炭鉱へ生計の場を求めて行ったのである。
私が祖父の手に引かれて北海道の地へ渡ったのは確かなことであるにもかかわらず、その旅の記憶は全くない。
祖父が背に荷を負っていたかどうかの記憶は鮮明ではないのに、私の手を引いていないもう一方の片手に提げていたものをはっきりと記憶している。
それは、見事に磨き上げられて黒光りのする大きな鉄瓶であった。
その後、この鉄瓶との付き合いは20年ほどにも及んだのである。
門別村沖田沢の一隅の地はおそらく借地であったろうと思われる。
そして山の斜面に背を付けたような小さな住いは祖父の手で造られたもののようであった。
周辺の山から切り出された木材で組み建てられ、壁は粘土に切藁を繋ぎとして混入たものを塗り上げただけの粗末と言うより酷い棲家であった。
つまりは、文字通りの泥土の壁であったから、屋内での生活は、壁に背を預けないように注意が必要な状態であり、どうにか雨露を凌げるだけの住いだった。
入り口の引き戸も建て付けの悪い手製で、板戸ではなく日中の明り取りのためなのか、障子用の桟に紙を貼り付け、菜種油か何かを塗って強度を保っているようなものであって、その油の臭いが屋内に漂っていたような記憶がある。
その入り口を開けて祖父が我が家に戻った時、祖母は屋内に居て土間に射し込んだ光に鉄瓶を片手にした大柄な身体が影となって立っているのを見た。
しばらく、息をひそめて祖父の背後に隠れていた私が、少し間をおいて祖母の前へひょいと姿を現した時の祖母の驚きと喜びようは、当の本人の私が驚かされるほどであった。
私の幼児期の記憶は、このあたりから鮮明になってきたのである。
祖父が、祖母を思いがけない土産でも見せるように驚かそうとして私を背後に隠した事と言い、その時の祖母の驚きようと言い、私が祖父とともに日高の地へ向かったことは、両親にとっても祖父母にとっても予想外の成り行きであったのだろうと思う。
私が、躊躇いも恐れもなく祖父に付いて来たことは、それまでの短い私の人生の中に二人の存在がどのような係わりを持っていたかを覗わせる出来事であったと思うのである。
私の1歳に満たない頃の一枚の写真は、祖父の胡座の中に抱かれて笑っているものである。
一方、私一人を養父母のもとへ預けて、妹とともに釧路へ入った両親の思いはどうであったろうかと思うのである。
私の父も、祖父も強烈な個性の持ち主であり、ともに家族、家庭の枠には収まりきれない男たちであった。
私の中では、家族における男の存在感は希薄なのである。
鉄瓶とともに私を北海道の地へ連れて来た「じっちゃん」の存在感はこの時だけで、その後、10年の家族の転変とした軌跡を経て江別市の国道で泥酔の挙げ句に交通事故死するに至るまで、私の周辺に登場しなかったのである。
私達兄妹は、祖母と母、二人の女性の辛酸の中で少年期を経て来たのである。