新八往来

季節が移ろい、日々に変わり行く様は、どの一瞬も美しいが、私は、風景の中に一際の力強さを湛えて見せる晩秋の紅葉が好きだ。

沖田沢の頃

2015-05-30 16:12:25 | 新八雑言
沖田沢の時代は、紛れもなく「ばっちゃん」が唯一人の私の保護者であった。

私は、淡路島での妹の誕生を見ることなく、昭和23年に日高門別村の沖田沢に入った。
それから、昭和27年の3月に富川小学校第一学年を終了するまでのほぼ4年間を此処で過ごしたのである。

私が、鉄瓶とともに踏み込んだその沢地は、沖田という姓の旧地主が2戸と広中という姓の旧小作人が農業を営むわずか3戸の集落とも言えないような所であった。

10数年前、祖父の姉の葬儀の時に当時、沖田沢であったろう所へ寄ってみた。
どの家も新たに建て直されていたし、住人も私のことなど記憶にない世代に変わっていただろうと思うが、景色の佇まいに懐かしさが漂っていた。
私たちが住んでいた場所もあのあたりだろうと思えたが、立ち寄らずに引き返した。
当時の低い視点と距離感からの思い出と比べると、小学校までの一里の長い道程は、車ではわずか5分の距離であり、かなりの内陸部であったという印象も太平洋からわずかの場所であった。
しかし、記憶に残る想い出は、当時の低い視線で見たものである。そして、そこに「じっちゃん」は登場していない。
おそらく次の入植地であった江別への動きを始めていて、不在がちであったのだろう。

私と祖母の住いは、沢から少し山に上った所で、ふもとの沖田家からは子供の足でも10分ほどの所であったと思う。
短い坂道は、雑木に囲まれていて昼間でも薄暗かったが、夕暮れともなると暗さが増して、一人で帰る時などは、今にも左右の林から何かが襲ってくるのではないかと怯えながら早足で歩くのだった。
そんな時に、私はいつも怯えを振り払うために「異国の丘」を大声で歌いながら帰るのである。

想い出の風景は、遠望のきく景色であった。
家の前の狭い土地の境に、おそらくじっちゃんが作ったであろう木の柵が回らされていた。
柵は、しっかりとしてはいたが、組木の粗い雑なものであったから、人の侵入を防ぐものでも、土地の境界を示すものでもなかったと思う。
沖田沢では羊毛を売るためなのか羊を飼っており、羊の群れが侵入して畑を荒らすのを防ぐためのものであったと思う。
小高い土地の上に作られた柵に腰を掛けると、沖田沢が一望でき、遠く富川の町のはずれまでも望めた。
内陸側低山の裾を通って富川へ走る軌道があった。
地元の人が「マッチ箱」と通称した小さな機関車が小さな車両を引いてピーッという甲高い汽笛を鳴らす列車であった。
柵の上からは、この「マッチ箱」が軌道を走る姿も遠望できた。

沖田沢のはずれに無人駅があったが、屈強な大人は通り過ぎた列車を追い駆けて飛び乗れるほどの速度のものであった。
だが、この細い軌道は奥地の平取辺りから富川へ出る重要な交通機関であった。
当時、奥地には純系のアイヌの人達が多かったから、列車に乗ればアツシ(アイヌの衣装…今では、観光地で見ることができるだけになった)を着て口の周りに藍色の刺青をほどこした婦人を見かけることは、そう珍しくなかった。
柵に腰を掛けて沖田沢を一望することは、時間を忘れるほど私の心を満たしてくれた。

ばっちゃんは、野菜や山菜などを背負って富川の町へ売りに行き生計の足しにしていたので、日中は留守がちの日が多かった。
遊びから戻っても、ばっちゃんの姿が無い時は、私は、柵に腰を掛けてばっちゃんの帰りを待った。
夕暮れも迫る頃、視界にばっちゃんの姿が入って来る。
小さなばっちゃんの姿が、見慣れたヒョイヒョイと飛び跳ねるような足取りで帰り道を急いでいるのを見つけて、私は「ばっちゃ~んっ!」と呼ぶのである。
ばっちゃんは、その声に気付くと「お~い」と応えて手を振ってくれた。
私は、柵の上で大きく安堵するのであった。

ばっちゃんは、両親の叔父(養父=じっちゃん)の連れあいであったから、両親にも、勿論私にも血縁の人ではなかったけれど、先年、101歳の天寿を全うするまで、私にとっては「ばっちゃん」であった。