新八往来

季節が移ろい、日々に変わり行く様は、どの一瞬も美しいが、私は、風景の中に一際の力強さを湛えて見せる晩秋の紅葉が好きだ。

御巣鷹山墜落事故から尼崎脱線事故までの20年

2005-04-29 17:06:32 | 新八の色眼鏡
事の大小は別にしても、若い頃の失敗は多い。ベテランと言われるほどのキャリアを積んだ後に振り返ってみると、稚拙な自己判断の結果で窮地に立たされたことが多いものだ。若い、未熟な時代の仕事にはリスクが付きまとうのである。従って組織は、その存亡に係わるリスクが予測できるような業務を未熟な者に単独で担当させることを避ける体制で臨むのが常識である。まして利用者の生命に係わるリスクが含まれる場合は、より慎重な体制のはずなのだが・・・尼崎脱線事故の運転手が、あまりにも若く未熟であったことに呆然とさせられた。JRという有数の大企業が事故即人命の事業で最も人命に係わる業務を、23歳、経験1年未満の者に委ねていたことに鳥肌の立つ思いがする。

今年は、春先から日航の航空機に係わる事故が続いていて、国土交通省も神経を尖らせ、マスコミも御巣鷹山の墜落事故から20年ということで、頻繁にニュース種にしていた。日航の経営陣がマイクの前で頭を下げる映像を何度か見せられた。大事故に至っていない幾つものミスの背景にあるのが企業利益優先で安全管理が後退しているという共通の現象である。人々の目が航空機の安全性に向いている最中に、地上運輸機関で大惨事が発生したのである。

日航機の御巣鷹山墜落事故については、当時の報道よりも山崎豊子の小説「沈まぬ太陽」で髣髴とさせられたものである。「金属疲労」などと言う言葉も今では懐かしいが、墜落原因は垂直尾翼の金属疲労が主因であり、整備点検過程での見落としによるものであるとされた。「沈まぬ太陽」の中で展開される「整備点検の不備原因」は、企業側の労組分断・・・旧労組解体策動の渦中での安全管理の後退によるものであった。この事故は、1985年、昭和60年に発生した。ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任し、米国はレーガン、わが国は中曽根第二次内閣の時代であり、電々と専売の二つの公社が民営化された年であった。

私の現役生活の中でも、右肩上がりの業績が頂点に達したのがこの頃であったと思う。多くのサラリーマンが15年ほど前には想像もつかなかった給与所得を得、住宅、車、海外旅行といった夢を現実のものとし、将来の夢をも含めて秘かに達成感を味わっていた時代と言えるであろう。しかし、企業の利潤追求の動きは、小市民の達成感をはるかに超える貪欲さを見せていく。この年の二公社の民営化に次いで2年後の昭和62年4月には国鉄が民営化されて行くという時代の流れの中で、各業界の経営陣とも旧労組の解体を目指し、人的業務の効率化と人的経費の削減に向けて邁進するのである。そこに含まれるリスクが顕在化し表出したのが「垂直尾翼の点検不備」による航空機の墜落事故であった。

右肩上がりの好景気は、その後数年で終焉を迎え、出口の明かりの見えない景気の低迷が今日まで続いている。労働者は好景気時代の糧で忍従を余儀なくされ、いまだに経営を支えようとしているのだか、競争と利潤追求の原理は更なる効率化を目指し、人的資源の疲弊を顧みようとしていない。

数百人の人命を乗せて時速100km超の猛速で走る電車の現場安全管理は「♪♪運転手は君だ、車掌はぼくだ・・・♪」の二人に任されていた。マンションの1階側面に貼り付いたような2号車の映像は、今にも風に飛ばされそうなアルミ箔のように見えた。106名もの犠牲者と遺族に向ける言葉が思いつかない。これほどに軽佻浮薄な安全管理体制の中で予期せぬ死を強制された人々に、ただ瞑目するのみである。
関係当局が事業者に対する指導は、一連の航空機ミスに対するような事前指導であるべきだが、安全管理を後退させている企業の利潤優先体質を鋭く、継続的に注視し、改善させることが望ましい。人的資源の疲弊によるリスクは、あらゆる業界に蔓延し、安全管理の後退のみならず雇用問題等、バブル期の負の遺産の主要因である。
明後日5月1日はメーデーであるが、昨今労働側の声があまりにも弱々しく人的資源の疲弊に歯止めを掛けるべき力になり得ていない。労使は今一度、拮抗した関係に戻るべきだ。


ハットリ君 登場

2005-04-24 20:05:43 | 病の記
長い付き合いの友人の中には、本来、自分とはまったく相容れないタイプなのに何故か憎めなくて親しい交遊の続いている奴がいる。ハットリ君がそうである。
私より4歳年下の彼は、私の新婚時代から訪れる度にまるでそこが自分の家庭であるかのような遠慮のない態度で、家内に向って「おい、お茶」「おい、飯」と、かたわらの私の苦虫顔を無視して「亭主関白」を気取っている奴だった。苦々しい奴だが、娘が誕生した時には真っ先に大きなメリーゴーランドを届けてくれた。

私が配置転換でまったく未経験の経理に異動したのが29歳の時であったが、異動先にはハットリ君が大きな顔をして待っていた。業務的なことを彼に聞いてもほとんど相手にされず、私はコノヤローッと思いつつ、彼より若い先輩に教えを乞うていたものである。ハットリ君は、私の目から見ると呆れるほどの「怠け者」であり、男のくせに呆れるほどの「お喋り」であった。大した仕事もせずに終始口からつばを飛ばして喋り捲っている奴だった。こいつの職務能力に追いつくのにそう何年も掛からないだろう、と高をくくって交遊が始まった。4年ほど同じ職場に居たと思う。事業所の展開と同時に異動が活発になり、ハットリ君は札幌近郊のゴルフ場へ出て行き、さらに4年後にはニセコへ異動して行った。彼の抜けた後に私が配属され、私の異動が始まったのである。独身の長かったハットリ君は、遊びの資金が潤沢だったので、何かあると声を掛けてススキノのご相伴に預かれたのは楽しい良い時代であった。ニセコに定着すると彼は結婚し、早々に大きな一戸建てを買ったのには驚かされた。私はまだ公営住宅住まいであった。

余命を宣告された昨年末にハットリ君に電話をした時の彼の応答にもムッとさせられた。「ナニッ!隣の爺ちゃんと同じ病気じゃないか!爺ちゃんは本当に半年で死んだぞ!」動顛したあまりの彼の言葉だと許す事にした。彼は、53歳で若い上司との軋轢に耐えられず退職して後、定職に就いておらず奥さんの内助の功に甘えて、のんびりしたものだった。

ハットリ君は入院中にも一度見舞いに来てくれたが、昨日は自宅を訪ねてくれた。心もとない足取りで玄関に迎えに出た私に、屈託のない笑顔で「ヤアッ!どう?」と言いつつ肩を叩かれた時には、また少々ムッとさせられた。「泊まっていく」と彼の方から言って、昔と変わらぬ遠慮の無い態度になっていた。仕事の話を聞いてみると、意気揚々と最近町役場の臨時雇用になり、町内に広報誌を配布することで月収10万5千円になると自慢した。本来ならまだ就学中の二人の子供と奥さんを支えて現役の仕事をしていなければならないのに、と思いつつ言葉に出すのは控えた。
5年ほど前に私は、ハットリ君の居たニセコのホテルへ業務の手助けに言ったことがある。経理と総務が一室になった事務所であった。それぞれに机を合せて境界を明確にしていたが、経理のグループの中にハットリ君の姿はなく、振り返ると彼だけが独り総務グループの端に座っていた。その頃は、どのパソコンもWindowsで表計算ソフトはエクセル主体に変わっていたが、肩越しに覗いたハットリ君のパソコンはDOSのままで、ロータス123であった。若い上司と部下の間から押し出されたような、彼には似合わない苦汁を飲む姿に心が痛んだものである。彼が早期退職した時、仕方が無いか・・・と納得した。私には言わなかったが、昨夜彼は家内に向って、この時期彼がうつ病に陥っていたと漏らしていたそうである。

今朝も私の体内の疼きをよそに「おはよう!」と元気に起きて来て、自宅のごとき屈託のなさで美味そうに朝食を平らげ、家内の車で地下鉄まで送らせて帰っていった。車中、ハンドルを握る家内に向って「大変だろうけど、頑張れよ。お前が倒れてはならないぞ。」と言ったそうである。憎めない奴だ。





千枚通し

2005-04-22 22:57:18 | 病の記
私が入院中の後半を過ごした病室の窓から、隣接の神社の屋根がよく見通せた。
白石神社は、札幌では格式も高く古い神社である。戊辰戦争に敗れた仙台白石藩の家士が明治政府の命で開拓の鍬を入れたのが明治4年、翌5年にこの神社が建てられたと言う。白石村が現在の札幌市白石区の発祥地である。

狭い病室のテーブルに家内が真言宗のお寺から頂いてきた「病平癒祈願」の御札が4枚整然と並んでいた。個室に移ってから家内は簡易ベットを手配して四六時中私の傍らに居てくれたのだが、その家内の朝の行動は、顔を洗うとカーテンの開け放たれた窓から神社に向って手を合わせ、次にテーブルの上の御札に向って瞑目し、それが終わると私の手首に念珠を掛けさせるという順序で始まった。小心で臆病なくせに頑固な私は、神仏によって平癒されるなどと言う気休めを信じないことは家内にもよく判っているので、私に朝のお祈りを実行させるのは諦めている。
私も、家内のそういう類の行為を内心では有り難いと思い、感謝しているから、言われるままに枕の下に数枚の御守を敷き、手には念珠をしているのである。私は、それが正しいかどうかの判断に自信はないが、私の現状を現代医学以外のもので対処することには消極的である。しかし、私の病気を知った知人、友人から漢方薬、種々のお茶類を薦められたり頂いたりしている。そういう類のものについては、判断を家内に委ねて彼女が良しとするものは服用することにしている。

今日は、「千枚通し」なるものを頂いた。「千枚通し??」、私が事務屋の現役時代に机の片隅に常備していた、あの錐状のものを想像して首をひねった。
我家の宗旨は空海を弘法大師として崇める「真言宗」である。その真言宗の末寺の住職から「千枚通し」を頂いた。それは、オブラートのように薄くて細い付箋のような紙であった。千枚重ねても精々4cmほどの厚さにしかならない。その一枚一枚に「南無大師遍照金剛」の八文字が書かれていた。住職は『薬の服用ごとに「南無・・・」を3回唱えて「千枚通し」も飲み下しなさい、そうすれば「お大師様」のご利益が体内から叶ってきます』と教えてくれた。これはもう現代医学のらち外のことである。住職が帰った後、私は「困ったな」と家内の顔を見たが、彼女はいとも簡単に、住職の薦めに従ったらと言ったのである。夕食後の薬の服用前に私は「南無・・・」を三度つぶやいて、その紙片を飲み込んだ。

無為の日々

2005-04-22 10:30:09 | 病の記
3月末の退院から、瞬く間に3週間が過ぎた。余命半年を宣告された身としては、3週間は貴重な生存期間であったのだが・・・

例年になく雪の多かった冬の殆どを季節の実感もなく、病院のベットで過ごしてきたが、退院後4月に入っても庭や空地には汚れた雪がうず高く積もっていていて、芽生える前の北国の春は、まだ命の息吹も瑞々しさも感ずることのできないうっとおしい気分で私を迎えた。おまけに、私の生来の神経質な気質のためか、重い「つわり」の症状に似て喉を通すことのできる食事のアイテムが少なく、おじや・煮込みうどん・煮込みソーメン・バナナを主食としなければならない食生活の頼りなさに負けて気分は滅入りがちである。

つい昨年までの現役時代に描いていた定年後の時間は、その頃の倍くらいのテンポで緩やかに経過し、それまで見向くゆとりのなかった季節の移ろいを優しく味わうことを可能にしてくれるだろうと期待していた。しかし、この3週間の経過で私の甘い期待は、甚だしい勘違いであったことを思い知らされることになったのである。現役時代に描いていた期待を実現させるための必須条件は、健康でなければならないということなのである。入院時よりはるかに自由になったとはいえ、自宅のベットで寝たり起きたりしながら、3食後ごとの薬の服用と10時就寝、6時起床の繰り返しは入院時のテンポのままである。4月に入ってからの天候の悪さもあって、戸外を散歩できたのは2度ほどしかない。例年になくけだるい疲れに違和感を抱きながらもまだ病を知らずに庭の植木に施した昨秋の雪囲いは、見舞いに来た母や家内、娘の手を借りて取り除くことができた。あとは毎週月曜日に抗がん剤の治療を受けに通院しただけの3週間であった。このままでは、限られた命を浪費するために生きているようなものだ・・・少々焦っている。

この数ヶ月間、「積極的に生きようとする者は癌を克服し、短い余命も延命できる」という意味の励ましをあちらこちらから受けてきた。もっとも、余命を宣告された癌患者に対しては「前向きに生きて!病気に打ち勝って!」という励まし以外には適切な言葉は見つからないだろう。さて、何をなすべきか。
今は、入院時の生活リズムを意識的に少しづつ、そして具体的に変えていくことだろうと考えている。食事のアイテムの少なさは焦らない。パジャマを着てベットに横たわる時間を減らしていくことが最善策だろう。外気10度以上の雨天以外の日は戸外に出て、散歩、軽作業などの時間を確保する。現役時の事業所を訪ねて、かつての仲間と話す機会をつくる。ブログを通して時期折々の事象について、自分なりの雑感を展開してみる。とりあえず、そんなところから次の展開が見えてくるのかもしれない。

「造反有理」から「愛国無罪」までの40年 2

2005-04-15 17:38:34 | 新八の色眼鏡
隣国の大衆を「造反有理」から「愛国無罪」の40年間を一党独裁の政権のもとで操られていたと言うのは簡単だが、翻れば我々は同じ期間を組織に追随してきただけの世代である。

今、我々第二次世界大戦の終戦直前から戦後の数年に生まれた世代(団塊)が現役を退きつつある中で、様々な問題が提起されている。それらは、国内的にも、国際的にも波及しているにもかかわらず、結果的には我々は問題の解決を先送りしたままで現役を退き、無力な「老人」と化してしまうのだ。
我々の父の世代は、その現役時代においては否応無しに「闘う」ことを強いられた世代である。戦場で、そして戦後はその復興のためにである。父の世代に対しては、現状の諸問題の多くを責任転嫁はできない。

我々は、言わば「組織追随」の世代である。「闘う」真似事の「学園闘争」は「青春の一ページ」として懐かしい思い出の中にあるにすぎない。「日本列島改造」「高度成長」の流れの中で、民間、官公庁もキャリア、ノンキャリアも、多数派、少数派もその他の区分も関係なく、大勢の組織に組み込まれた「労働戦士」として利潤の追求と組織の保全に現役生活の全てを賭けてきたのである。それが我々世代の個人生活を維持し向上させる最善策であったからだ。身の丈の水準を維持することが精一杯の父祖の時代と異なり、我々は現役時代の前半に抱かされた成長幻想を実現させるために我々を牛耳る組織に対して、唯々諾々として「追随」してきた。子供への先行投資、生活環境への先行投資、老後への先行投資、等々、自己を中心とした過剰投資は全体として見れば、それ自体が平成初頭までの好景気を下支えしていた。我々は今、一応の達成感を得て第一線から身を引く。

しかし、振り返ってみれば我々が次世代に残した負の遺産はあまりにも多い。
我々自身は、組織に追随することで体験させられた競争社会を、子供に対する先行投資の過程で義務教育レベルから強制してきた。父子ともに競争原理の渦中で生き、トータル的に子供を見つめる余裕のない親と精神的に親から隔離された子供が家庭を成していた。生活環境への先行投資は、とりあえず衣食住を含み必要以上の物で満たされた。老後は夫婦二人、悠々自適の生活インフラも整えた。
今、我々が眉を曇らせる青少年に顕著な諸問題は、我々が蒔いた先行投資が原因ではなかったか。未熟な夫婦の形成と子供への虐待の多発、犯罪の低年齢化、70万人とも言われる「ニート(無業者=教育を受けることも、仕事に就くこともしていない若者群)」の出現。
一方で、唯々諾々として組織に追随してきた体質は、大勢=体制の目指す方向に対しての見方を甘い鈍感なものとし、成り行き任せにしてきた。常に、問題が表出してから論評を加えることに終始してきた。現状、表出している近隣諸国との摩擦状況は、歴史認識、領土認識の曖昧さを露呈している。そもそも、我々自身がこれらの認識に無関心であったことに起因しているのであって、新刊の教科書上の問題ではない。

さて、今後、「老人」「高齢者」として一括りにされてしまう我々は、我々が蒔いた種によって次世代に残したリスクを座視して、悠々自適を決め込んでいて良いのであろうか。憲法問題も歴史認識も高齢少子化問題も多くの政治的、行政的問題も、改めて拾い起こして、自身の見解を明確にし行動する時間は充分に残されている。平均寿命82歳の長寿大国なのである。

「造反有理」から「愛国無罪」までの40年 1

2005-04-14 20:28:45 | 新八の色眼鏡
私が田舎大学に在籍し、今振り返れば太平楽なキャンパスライフを過ごしていた時期は、中国は台頭し始めた進歩派に対して、毛沢東が主導権の奪取を企てて少年少女を「紅衛兵」として操り、過酷な弾圧を進めていた時期に重なる。少年少女が手に手に振りかざしていた「毛語録」は、当時の私のポケットにも入っていたが、詳細に目を通した記憶はない。とりあえず流行の一端として持ち歩いていた。それにしても、彼等の親、祖父母ほどの年代差の要人、文化人の頭に三角巾を被せ、後ろ手に縛り上げて、市中引き回しをする報道写真を目にする度に、ポケットの「毛語録」とはかけ離れた次元で、得体の知れない政権と国民性に不快感を禁ずることができなかったものである。
毛語録の標語は「造反有理」という四文字熟語であった。毛沢東の政敵に向ける闘争はすべて理に適ったものである、というお墨付きである。少年少女や下層労働者の未熟な判断で実行される、いかなる過激な行為もこの四文字で肯定されていたのである。当時の日本国内の左派勢力の多くも隣国の「革命」を肯定する流れはあったが、日本で行なわれていた政権に対する組合、学生の闘争と政権の主導権争いに利用されていた中国民衆の理性なき闘争とは質的に異なるものであったと思える。
「理」とされる行動に対しては何事も許されるという無謀な見識と、その影にあって世論を操る政権、跳ね上がる若者・・・最近の中国における反日運動で叫ばれる「愛国無罪」の四文字熟語に40年前の「造反有理」と変わらぬ一党独裁の政権体質であることを再認識させられる思いである。「愛国無罪」で炊きつけた火が、現政権に対する「造反有理」に展開しない程度のほどほどにコントロールされた運動であるとは思うが・・・。

トロツキスト

2005-04-10 17:40:39 | 新八雑言
時々、ふーっと時代錯誤的な言葉が頭をよぎることがある。

私は元来読書家ではないから、蔵書も無い。にもかかわらず、学生時代に読んだことがあるのに手元に残っていない本が幾冊かあって、それらの本を何時どのように処分してしまったのだろうと思うことがあるのだ。資本論をはじめとするマルクス、エンゲルス、レーニン等の和訳本の多くがそれである。それらのほとんどが文庫本であったから、共産主義とかイデオロギーといったものが時代にそぐわない状況の到来と共に、かつての輝きは色あせ、記憶の端に残ることもなく、古新聞とともにトイレットペーパーに変じてしまったに違いない。
そんな中で完全に読破しないうちに、つまらない資金源を得るため古本屋に売ってしまって、いまだに後悔している本がある。アイザック・ドイッチャー著の「トロツキー伝」である。3部作で、私が手に入れた時も高価な著書であったが、今では3万円を超えていて、年金暮らしの身には再び手にするのは難しいかも知れない。

学生時代を過ごした田舎のキャンバスも当時の趨勢の中で、マルキストの学生グループは代々木系と反代々木系に分かれて対立していて、その構図は首都圏の学生運動の縮図の時代であった。
思想的に確固たる信念を持った学生ではなかったのだが、多数派の代々木系の集会で議決のたびに全員が一斉に「異議なし!!」と挙手する光景は、どうしても納得できない違和感があった。私がなんとなく反代々木系のグループに近付いたのは、ただそれだけの理由であった。
彼らは、代々木系のグループからは「トロツキスト」として指弾されていた。その「裏切り者」に等しい呼称のされかたが当時の私にとっては、極めてステイタスティックなものであって、トロツキーというレーニンとともにソヴィエトの創設者であった歴史的指導者が、後継のスターリンに追放されメキシコの果てで暗殺されるまで自説で闘い続けた生きざまに幼稚な憧憬を抱いていたのである。
しかし、私は、トロツキーの多くの著書や演説の内容を一編たりとも読んだことはなく、ただその生きざまに惹かれて、伝記を求めたのであった。にもかかわらず、3部作を読破せずに古本屋に持ち込んだことを、いまだに後悔している。

大勢に同化せず、自説で生き抜くことが男の美学であるという思い込みのある私にとってトロツキーは、私の思い込みの中にある男の1人なのである。