新八往来

季節が移ろい、日々に変わり行く様は、どの一瞬も美しいが、私は、風景の中に一際の力強さを湛えて見せる晩秋の紅葉が好きだ。

次の機会は・・・?

2005-06-23 16:42:58 | 病の記
余命半年という期限内のうちは、妙な達成意識があったが、達成してしまうと、あとどの程度の時間をどのように生きられるのか曖昧な感覚に晒され、死の苦痛への恐怖心が意識を持ち上げ始める。
2月に、十二指腸からの大量出血があって、あの時は医師から近親者に連絡するようにとの指示が家内にあった。カテーテルによる止血処置が施されている間、終始意識があって、医師の呼びかけにも応えていた。自分の血圧低下のカウントダウンが看護師の緊張した声で耳に入って来た時、自分は今、危険な状態にあるのだと自覚できた。止血処置の経過中の苦痛感が鈍かった所為で、処置が成功裡に終わって覚醒した時、ひょっとすると自分は、安楽な死の機会を逃してしまったのではなかろうかという一抹の後悔の念のようなものに襲われたのだった。きわどい状況を脱して、平均余命を達成した今、次の死の機会はどのような状況の下で訪れるのだろうか。

夏至が行く

2005-06-22 14:33:26 | 病の記
夏至の朝、4度目の退院を迎えた。このたびは6月8日から2週間の入院となった。考えてみれば2週間と言う時間の流れは、取り返しの付かない貴重なものに思える。入院前に、我家の荒れ庭に間もなく咲くであろう大輪の牡丹の花を心待ちにしていた。夏至の昼時に見た光景は、わずか2週間前のそれとは違う、ギラギラとした日射しの中に汚れた布巾を絞ったような大輪の残骸があるだけであった。わずか2週間で或る種の生命の展開にこれほどの落差が生じるのである。
昨年の冬至前に半年の余命を宣告され、夏至に至った。マニアル的な生存期間は、クリアーすることができたのである。途中、落命の危機的症状もあったが、自分でもこの生存期間は全うできるだろうという予感はあった。それは、季節が厳しさの頂点を脱して、地中に生命の胎動を感じさせる命の季節に向う時期であったからである。
今、北国はようやく夏のおもむきである。しばらくは、爛漫の季節が活き活きとした展開を見せてくれるが、夏至を過ぎた季節の流れは、冬至からのそれとは確実に逆の流れとなって、暮色を早めつつ灰色の季節へと向うのである。昨年の晩秋に妙な予感をしていたが、あの時見たいと思った、真紅のななかまどの実が純白の雪を冠った風景を再び見る事ができるであろうか。

ハットリ君 登場

2005-04-24 20:05:43 | 病の記
長い付き合いの友人の中には、本来、自分とはまったく相容れないタイプなのに何故か憎めなくて親しい交遊の続いている奴がいる。ハットリ君がそうである。
私より4歳年下の彼は、私の新婚時代から訪れる度にまるでそこが自分の家庭であるかのような遠慮のない態度で、家内に向って「おい、お茶」「おい、飯」と、かたわらの私の苦虫顔を無視して「亭主関白」を気取っている奴だった。苦々しい奴だが、娘が誕生した時には真っ先に大きなメリーゴーランドを届けてくれた。

私が配置転換でまったく未経験の経理に異動したのが29歳の時であったが、異動先にはハットリ君が大きな顔をして待っていた。業務的なことを彼に聞いてもほとんど相手にされず、私はコノヤローッと思いつつ、彼より若い先輩に教えを乞うていたものである。ハットリ君は、私の目から見ると呆れるほどの「怠け者」であり、男のくせに呆れるほどの「お喋り」であった。大した仕事もせずに終始口からつばを飛ばして喋り捲っている奴だった。こいつの職務能力に追いつくのにそう何年も掛からないだろう、と高をくくって交遊が始まった。4年ほど同じ職場に居たと思う。事業所の展開と同時に異動が活発になり、ハットリ君は札幌近郊のゴルフ場へ出て行き、さらに4年後にはニセコへ異動して行った。彼の抜けた後に私が配属され、私の異動が始まったのである。独身の長かったハットリ君は、遊びの資金が潤沢だったので、何かあると声を掛けてススキノのご相伴に預かれたのは楽しい良い時代であった。ニセコに定着すると彼は結婚し、早々に大きな一戸建てを買ったのには驚かされた。私はまだ公営住宅住まいであった。

余命を宣告された昨年末にハットリ君に電話をした時の彼の応答にもムッとさせられた。「ナニッ!隣の爺ちゃんと同じ病気じゃないか!爺ちゃんは本当に半年で死んだぞ!」動顛したあまりの彼の言葉だと許す事にした。彼は、53歳で若い上司との軋轢に耐えられず退職して後、定職に就いておらず奥さんの内助の功に甘えて、のんびりしたものだった。

ハットリ君は入院中にも一度見舞いに来てくれたが、昨日は自宅を訪ねてくれた。心もとない足取りで玄関に迎えに出た私に、屈託のない笑顔で「ヤアッ!どう?」と言いつつ肩を叩かれた時には、また少々ムッとさせられた。「泊まっていく」と彼の方から言って、昔と変わらぬ遠慮の無い態度になっていた。仕事の話を聞いてみると、意気揚々と最近町役場の臨時雇用になり、町内に広報誌を配布することで月収10万5千円になると自慢した。本来ならまだ就学中の二人の子供と奥さんを支えて現役の仕事をしていなければならないのに、と思いつつ言葉に出すのは控えた。
5年ほど前に私は、ハットリ君の居たニセコのホテルへ業務の手助けに言ったことがある。経理と総務が一室になった事務所であった。それぞれに机を合せて境界を明確にしていたが、経理のグループの中にハットリ君の姿はなく、振り返ると彼だけが独り総務グループの端に座っていた。その頃は、どのパソコンもWindowsで表計算ソフトはエクセル主体に変わっていたが、肩越しに覗いたハットリ君のパソコンはDOSのままで、ロータス123であった。若い上司と部下の間から押し出されたような、彼には似合わない苦汁を飲む姿に心が痛んだものである。彼が早期退職した時、仕方が無いか・・・と納得した。私には言わなかったが、昨夜彼は家内に向って、この時期彼がうつ病に陥っていたと漏らしていたそうである。

今朝も私の体内の疼きをよそに「おはよう!」と元気に起きて来て、自宅のごとき屈託のなさで美味そうに朝食を平らげ、家内の車で地下鉄まで送らせて帰っていった。車中、ハンドルを握る家内に向って「大変だろうけど、頑張れよ。お前が倒れてはならないぞ。」と言ったそうである。憎めない奴だ。





千枚通し

2005-04-22 22:57:18 | 病の記
私が入院中の後半を過ごした病室の窓から、隣接の神社の屋根がよく見通せた。
白石神社は、札幌では格式も高く古い神社である。戊辰戦争に敗れた仙台白石藩の家士が明治政府の命で開拓の鍬を入れたのが明治4年、翌5年にこの神社が建てられたと言う。白石村が現在の札幌市白石区の発祥地である。

狭い病室のテーブルに家内が真言宗のお寺から頂いてきた「病平癒祈願」の御札が4枚整然と並んでいた。個室に移ってから家内は簡易ベットを手配して四六時中私の傍らに居てくれたのだが、その家内の朝の行動は、顔を洗うとカーテンの開け放たれた窓から神社に向って手を合わせ、次にテーブルの上の御札に向って瞑目し、それが終わると私の手首に念珠を掛けさせるという順序で始まった。小心で臆病なくせに頑固な私は、神仏によって平癒されるなどと言う気休めを信じないことは家内にもよく判っているので、私に朝のお祈りを実行させるのは諦めている。
私も、家内のそういう類の行為を内心では有り難いと思い、感謝しているから、言われるままに枕の下に数枚の御守を敷き、手には念珠をしているのである。私は、それが正しいかどうかの判断に自信はないが、私の現状を現代医学以外のもので対処することには消極的である。しかし、私の病気を知った知人、友人から漢方薬、種々のお茶類を薦められたり頂いたりしている。そういう類のものについては、判断を家内に委ねて彼女が良しとするものは服用することにしている。

今日は、「千枚通し」なるものを頂いた。「千枚通し??」、私が事務屋の現役時代に机の片隅に常備していた、あの錐状のものを想像して首をひねった。
我家の宗旨は空海を弘法大師として崇める「真言宗」である。その真言宗の末寺の住職から「千枚通し」を頂いた。それは、オブラートのように薄くて細い付箋のような紙であった。千枚重ねても精々4cmほどの厚さにしかならない。その一枚一枚に「南無大師遍照金剛」の八文字が書かれていた。住職は『薬の服用ごとに「南無・・・」を3回唱えて「千枚通し」も飲み下しなさい、そうすれば「お大師様」のご利益が体内から叶ってきます』と教えてくれた。これはもう現代医学のらち外のことである。住職が帰った後、私は「困ったな」と家内の顔を見たが、彼女はいとも簡単に、住職の薦めに従ったらと言ったのである。夕食後の薬の服用前に私は「南無・・・」を三度つぶやいて、その紙片を飲み込んだ。

無為の日々

2005-04-22 10:30:09 | 病の記
3月末の退院から、瞬く間に3週間が過ぎた。余命半年を宣告された身としては、3週間は貴重な生存期間であったのだが・・・

例年になく雪の多かった冬の殆どを季節の実感もなく、病院のベットで過ごしてきたが、退院後4月に入っても庭や空地には汚れた雪がうず高く積もっていていて、芽生える前の北国の春は、まだ命の息吹も瑞々しさも感ずることのできないうっとおしい気分で私を迎えた。おまけに、私の生来の神経質な気質のためか、重い「つわり」の症状に似て喉を通すことのできる食事のアイテムが少なく、おじや・煮込みうどん・煮込みソーメン・バナナを主食としなければならない食生活の頼りなさに負けて気分は滅入りがちである。

つい昨年までの現役時代に描いていた定年後の時間は、その頃の倍くらいのテンポで緩やかに経過し、それまで見向くゆとりのなかった季節の移ろいを優しく味わうことを可能にしてくれるだろうと期待していた。しかし、この3週間の経過で私の甘い期待は、甚だしい勘違いであったことを思い知らされることになったのである。現役時代に描いていた期待を実現させるための必須条件は、健康でなければならないということなのである。入院時よりはるかに自由になったとはいえ、自宅のベットで寝たり起きたりしながら、3食後ごとの薬の服用と10時就寝、6時起床の繰り返しは入院時のテンポのままである。4月に入ってからの天候の悪さもあって、戸外を散歩できたのは2度ほどしかない。例年になくけだるい疲れに違和感を抱きながらもまだ病を知らずに庭の植木に施した昨秋の雪囲いは、見舞いに来た母や家内、娘の手を借りて取り除くことができた。あとは毎週月曜日に抗がん剤の治療を受けに通院しただけの3週間であった。このままでは、限られた命を浪費するために生きているようなものだ・・・少々焦っている。

この数ヶ月間、「積極的に生きようとする者は癌を克服し、短い余命も延命できる」という意味の励ましをあちらこちらから受けてきた。もっとも、余命を宣告された癌患者に対しては「前向きに生きて!病気に打ち勝って!」という励まし以外には適切な言葉は見つからないだろう。さて、何をなすべきか。
今は、入院時の生活リズムを意識的に少しづつ、そして具体的に変えていくことだろうと考えている。食事のアイテムの少なさは焦らない。パジャマを着てベットに横たわる時間を減らしていくことが最善策だろう。外気10度以上の雨天以外の日は戸外に出て、散歩、軽作業などの時間を確保する。現役時の事業所を訪ねて、かつての仲間と話す機会をつくる。ブログを通して時期折々の事象について、自分なりの雑感を展開してみる。とりあえず、そんなところから次の展開が見えてくるのかもしれない。

余命

2004-12-14 19:01:34 | 病の記
この9月に前職を定年で全うし、個人診療所への再就職もスムーズに果たしたのだが、正直な気持ちのどこかに四季の移ろいさえ楽しむゆとりもない日常の延長に終止符を打ちたかったという悔いが疼いていた。
定年の直前、8月の下旬あたりから、身体的な気だるさのようなものを自覚し始めていたが、年齢と定年を迎える気の緩みに起因する心因性の疲れだろうと強いて気に掛けてはいなかった。
11月下旬に診療所の定期健診があり、2日後の血液検査の結果で膵臓関連の数値の異常を告げられたが、それほどの深刻な懸念も持たず、家内の掛かり付けの内科医の所へデーターを持って相談に行ったのだった。採血と検便が実施された。その時にいたって、ようやく自分の身体が何を危惧されているのか判ったのである。それからのわずか一週間たらずの間に、私と私の家族姉妹は緩慢な人生から激変する運命との対峙に直面する羽目になってしまったのである。12月9日に撮ったCTのフィルムに自分自身の死の予告をされてしまったのである。
翌10日、家内が医師に呼ばれ状況説明を受けていた。私は通常通り勤務していたのだが、午後4時半頃に掛かってきた家内からの電話で、詳細を告げない口ぶりの中から最悪の現実を直感した。その時点で私は短期で終わってしまう再就職の場を離れざるを得ないことを認識し、所持品をまとめ、何も知らない院長や職員に事情説明もせずに早退して担当医の所へ向かった。家族には、余命数ヶ月を匂わせていた医師も、流石に私に直接告知することを躊躇していた。循環器の専門医であった担当医は、最終的な結論を私の前に提示することを避け、総合病院の専門医による診断を勧めたのである。
その夜、職場の院長に事情を説明したうえ退職した前任の事務長に再登場していただき、11日の午前中に概ねの引継ぎをしたのである。日曜日を挟んだが、精神状況は比較的安定していた。その間に事情を知った家内の知人友人からは、10人10色の病院の推薦があったが、私は娘の勤務先が近いという理由を最優先して、恵佑会病院に決めた。
月曜の昨日13日に恵佑会病院の若い担当医の診断を受けたが、結果は半年ほどの余命ということであった。
私の余命日誌は、キーボードに向かう機会があるかぎり「北の風紋」へ書き込んでおきたいと思う。