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桜が今に伝える「兵どもが夢の跡」 ~根来寺

2017年03月04日 | 祭・行事・季節の花

桜 根来寺

 

 

根来寺(ねごろじ)は、和歌山県の北端の山脈の麓にあり、山を越えれば大阪府になる。眼下に雄大な紀の川の流れが見えるように、高台に位置する天然の要害であり、戦国時代に各地で強大になった宗教勢力の一つである。

 

平安時代の末期、高野山では改革を推進しようとした金剛峰寺の高僧・覚鑁(かくばん)と守旧派との内部対立が発生していた。守旧派に山内の拠点を焼き討ちされた覚鑁は山を下り、根来の地に新たな経典を設けたのが根来時の起源である。

 

山を下りた覚鑁派の真言宗は「新義真言宗」と呼ばれ、京都・智積院の「智山派」、奈良・長谷寺の「豊山派」も新義真言宗の系統だ。天台宗でも同様の動きがあり、平安時代に天台寺門宗が叡山から降り園城寺(三井寺)に拠点を設けている。

 

根来寺は、戦国時代には現在の和歌山県北部から大阪府南部までを勢力下におき、石高70万石、僧兵1万、「根来衆」と呼ばれて巨大な宗教都市として繁栄していた。堺より早く鉄砲の生産に成功しており、戦国大名にとっては大坂の石山本願寺と並んで最も手ごわい宗教集団だった。

 

しかし本能寺の変後に家康寄りの姿勢を取ったため秀吉に攻められ、国宝の多宝大塔などごく一部を除いて伽藍は灰燼に帰した。時を置かず高野山も秀吉に屈服し、権力者に従わない宗教集団は日本史において事実上消滅することになった。

 

奇跡的に根来寺の栄華を見てきた生き証人が焼失を免れている。本堂である「大伝法堂」の重要文化財「大日如来」と、伽藍の中心に立つ国宝「大塔」である。

 

根来寺の大日如来は、仏像制作が下火になっていた室町時代中期の作品としては見応えがある。座像だが3mを超える大きさで、全身の金箔がほぼ残っている。背中から直線で放射状に強い後光がさしているよう光背(こうはい)が表現されており、真言密教では最高位の仏である大日如来の威光を、明確にかつ神秘的に伝えている。放射状に強い後光がさす光背は、兵庫県・浄土寺の快慶作・阿弥陀三尊のものも美しい。

 

国宝・大塔

 

「大塔」は秀吉に焼き討ちされる40年ほど前に竣工しており、多宝塔としては大きく(日本最大)存在感がある。四方が凛と反りあがった二層の屋根瓦が美しく、上層部が円形になっている多宝塔が何とも言えずエレガントに見える。

 

日本の仏教寺院の塔は、全層が方形の三重塔・五重塔が一般的だが、多宝塔は下層が方形で上層が円形になっている。真言宗に特に多い。根来寺の伽藍は山を借景にして作られており、大塔が山の緑に映える姿は美しい。特に桜の季節は美しさに磨きがかかる。

 

根来寺は和歌山県や大阪府では桜の名所としてよく知られており、広い境内でのびのびと花をなびかせる空間を歩くだけでも心が洗われる。ぜひおすすめしたい。

 

日本の宗教集団が多宗派との抗争や戦国大名との対峙を激しく繰り返した16世紀は、欧州でも宗教対立が激しかった。500年前の1517年、ドイツでルターが唱えた宗教改革をきっかけに、当初は新旧の教会同士の争いであったが、次第に各地の領主や王侯の権力争いに姿を変え、新教の王が旧教の王に味方することも稀ではなくなっていった。

 

欧州の宗教戦争は権力者同士の争いでもあることが日本と異なる。しかしながら日本は1615年の大坂夏の陣、欧州は三十年戦争を終結する1648年のウェストフェリア条約によって、ほぼ安定した政治体制を形成し、政治権力に影響するほど宗教集団が力を持つことなくなった。

 

根来寺は、日本で自ら夢の国を作ろうとした最後の宗教集団の栄華を今に伝える。

 

 

日本や世界には、数多く「ここにしかない」名作がある。

「ここにしかない」名作に会いに行こう。

 

 

休館日 なし(例外が発生する可能性もあるので訪問前にご確認ください)

公式サイト www.negoroji.org/

 

 


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