雑記帳

豊田市在住 あきたんの日記風ブログ 様々なジャンルのブログです。

執行部説明

2015-02-18 16:48:35 | 議会・議員
 15:00-15:30 議長室
■スポーツ課からの報告がありました。(突然の執行部説明でした)
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今日のお弁当

2015-02-18 13:13:28 | 今日の食べ物
 今日のお弁当は…
①ご飯(たくあん)
②コーンスープ
③手作りハンバーグ&サラダ
④味噌おでん(コンニャク 大根)
⑤リンゴ
⑥ジャムパン
●今日は、ちょっとしたイレギュラーがありましたが、まあ、何とかです。
今日のメインは、手作りハンバーグです。
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真宗大谷派 48

2015-02-18 13:10:07 | 宗教
 真宗大谷派
【歴代】
*大谷派における歴代の正式呼称に関する注意
歴代の留守職・法主・門主を「歴代門首」と呼称し、「大谷派御歴代」と総称するのが正式である。
親鸞のみ「宗祖」と呼称、「聖人」と敬称する。
宗祖親鸞以降の歴代は、「第○○代」と漢数字を用いて「代」で呼称し、「第○○世」と呼称しない。敬称は、「上人」を用いる。なお在職中は、「上人」の敬称を付さない。
 例…「第八代 蓮如上人」・「第二十五代 大谷暢顯」
 「※」は、大谷廟堂留守職・本願寺留守職のうち歴代に数えない者と、真宗大谷派門首代行である。
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【戦国時代の本願寺】
第九世実如・第十世証如・第十一世顕如が本願寺宗主(現在西本願寺では「門主」と言っている)を務める100年間は、戦国混乱の時期にあたる。本願寺は、民衆が支配者に対して展開した解放運動のささえとなり、社会変革の思想的原動力となる。この間に、教勢は著しく発展し、日本有数の大教団として、また一個の強力な社会的勢力としての地位を得るにいたる。
・明応9年(1500年)、実如の長男照如、22歳で入寂。
・永正年間。越前(福井県)の朝倉氏の内紛に加賀(石川県)の門徒が介入。
・永正元年(1504年)、相模(神奈川県)の後北条氏は、この年から50年間にわたって領内の真宗を禁ずる。
・永正3年(1506年)、近畿・北陸・東海で、本願寺門徒が一斉に蜂起する。
・永正4年(1507年)、細川政元が家督争いのため暗殺される(永正の錯乱)。本願寺は蓮如以来、政元と親交があり、紛争にまきこまれることを恐れ、実如と宗祖真影は近江堅田に避難する。
・永正6年(1509年)、山科本願寺に戻る。
・永正13年(1516年)、後柏原天皇の勅願寺となる。
・永正18年(1521年)、越後(新潟県)の長尾氏、本願寺門徒を禁圧する。
・大永元年(1521年)8月20日、円如(実如の次男)、32歳で示寂。
・大永5年(1525年)2月2日、第九世実如の遷化にともない、証如が本願寺を継承し第十世となる。
・天文元年(1532年)、証如は細川晴元の要請を受け、近畿の門徒2万人を動員して畠山氏を破る(飯盛城の戦い)。
・同年8月、山科本願寺は、京都の日蓮宗徒と近江の六角定頼の連合軍の焼き討ちによって、焼失する(法華一揆)。寺基を大坂石山の「大坂御坊」へ移し、「大坂本願寺」(「石山本願寺」)と号する。「大坂御坊」は、蓮如の隠居所として建立された小規模な坊舎であったが、この頃には拡大されていて、寺内町も形成されていた。
・天文10年(1541年)、朝倉氏との間で和談。
・天文22年(1553年)、長尾景虎(上杉謙信)は京都への通路を確保するため本願寺と和解。
・天文23年(1554年)8月13日 、第十世証如の入滅にともない、顕如が本願寺を継承し第十一世となる。
・弘治2年(1556年)、朝倉氏との間で講和成立。
・永禄2年(1559年)、顕如、門跡に列せられる。
 下間氏が坊官、三河本宗寺・播磨本徳寺・河内顕証寺が院家となる。
・永禄6年(1563年)、三河(愛知県)の本願寺門徒、徳川家康と争い、翌年に和睦。これ以後、徳川家康は領国内の本願寺門徒を禁圧。禁圧がとけたのは、20年後の天正11年(1583年)。
 薩摩(鹿児島県)の島津氏、明治初年まで禁教を継続。
・永禄9年(1566年)、後北条氏が禁教を解除。上杉謙信と対抗するための連携を目的とするとされているが、禁教が実施されたのが確認できるのは享禄年間までで、天文年間以後善福寺や勝願寺(古河公方領、永禄年間に後北条氏支配下に入る)などの活動は許されていることから、この頃には形骸化していたとみられている。
・永禄11年(1568年)、織田信長、京都に入る。
・永禄12年(1569年)、顕如の次男顕尊が入寺した興正寺は脇門跡に任ぜられる。
・元亀元年(1570年)9月12日、天下統一を目指す信長が、一大勢力である浄土真宗門徒の本拠地であり、西国への要衝でもあった環濠城塞都市石山からの退去を命じたことを起因に、約10年にわたる「石山合戦」が始まる。合戦当初、顕如は長男・教如とともに信長と徹底抗戦する。
 石山合戦の頃から、「大坂本願寺」は、「石山御坊」と呼ばれるようになる。
 合戦末期になると、顕如を中心に徹底抗戦の構えで団結していた教団も、信長との講和を支持する勢力(穏健派)と、徹底抗戦を主張する勢力(強硬派)とに分裂していく。この教団の内部分裂が、東西分派の遠因となる。
・天正8年(1581年)3月、顕如は正親町天皇の勅使・近衛前久の仲介による講和を受け入れ、信長と和議が成立する。顕如は穏健派と共に石山本願寺から紀伊鷺森(鷺森本願寺)へ退隠する。しかし教如は、信長を信用せず[8]徹底抗戦を主張する。そのため顕如は、教如を義絶[9]する。義絶後も「石山本願寺」に籠城する(大坂拘様)。
・同年8月2日、教如は、近衛前久の説得に応じ「石山本願寺」から退去し、信長に明け渡す。その直後に「石山本願寺」に火が放たれ灰燼と化す。教如は、その後も強硬派への支持を募る。
・天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こり、信長自害。
・同年6月23日、後陽成天皇は顕如に教如の赦免を提案する。
・同年6月27日、教如は、顕如より義絶を赦免される。赦免後は、顕如と共に住し、寺務を幇助する。
・天正11年 (1583年)、石山本願寺跡地を含む一帯に豊臣秀吉によって大坂城が築かれる。
・同年(1583年)、宗祖真影を奉じて、和泉の貝塚にある石山本願寺の末寺であった寺(のちの願泉寺)に移る。(「貝塚本願寺」)
・天正13年(1585年)5月、豊臣秀吉の寺地寄進を得て、大坂の天満(てんま)に移る。同年8月にまず阿弥陀堂を建て、翌年の8月には十間四面の御影堂が落成する。(大坂天満本願寺)
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犯罪情報

2015-02-18 09:21:34 | 防災防犯
 パトネットあいち 身近な犯罪情報
■状況
2月17日午前中に、豊田市内の一般家庭に対し、豊田市役所職員を騙る男から「すでに書類を送っていますが、医療費の払い戻しの期日が今日までです。口座を教えてくれれば振り込みます」と、詐欺の前兆と思われる電話がありました。
☆電話で「お金」の話が出てきたら、まずは誰かに相談を!
☆自分の両親や祖父母が騙されないよう、こまめに連絡を取り合いましょう!
☆自宅の電話機にナンバーディスプレイの設定をしましょう!
■情報配信
豊田警察署
0565-35-0110
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犯罪情報

2015-02-18 09:20:52 | 防災防犯

市職員を騙る不審電話が発生!
2月17日(火)午前中、豊田市内において市職員を騙り、「医療費の払い戻しがある。口座を教えてくれれば支払ができる。」と不審電話がありました。
・怪しい電話は一旦切り家族や警察に相談を!
・ATMを操作して還付金が振り込まれることはありません!
★現在、愛知県内で振り込め詐欺をはじめとした特殊詐欺が多発!特殊詐欺被害防止緊急アピールが発令されています!★
■問い合わせ
 豊田警察署 35-0110
 足助警察署 62-0110
★情報元は豊田市役所
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犯罪情報

2015-02-18 09:20:05 | 防災防犯

市内のごみ置き場で不審火が連続発生!
昨年末から豊田市南部を中心として倉庫やごみ置き場で不審火が連続発生しています。
○ごみは決められた時間に出す
○家の周りに燃えやすいものを置かない
等の対策で被害を防ぎましょう!
★情報元はパトネットあいち
 
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2015.02.17(火)

2015-02-18 04:14:10 | 日記
 7.3℃(2.3℃)
●今日は、一日中雲が出ていて、暗い一日だったようです。日照時間は、とりあえず0時間になってました。朝から雨模様で、午後には一旦止んだようですが、夜になって再び降りだした模様。来週は雪マークも減ってきてます。代わりに心配なのが雪崩です。以前にも山奥の旅館が雪崩に巻き込まれ、犠牲者があったと記憶してます。気をつけなければいけません。
さて、今日は、市役所にて「詰めて」いた、と言うところでしょうか。夜はお参りがありました。真宗大谷派のお参りの仕方を説明してました。そうそう、午後からの国会中継は、代表質問の時間でした。丁度、私が見たところでは、協賛塔が質問してるところでした。
  

 今日の記念日
「天使の囁きの日」。1978年2月17日に北海道幌加内町母子里の北海道大学演習林で最低気温氷点下41.2℃を記録したことに由来し、同町の「天使の囁きを聴く会」が1994年に制定。 天使の囁きとは、空気中の水蒸気が凍ってできるダイヤモンドダストのこと。
 
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今日の万歩計

2015-02-18 02:05:10 | 今日の万歩計
 今日の万歩計は…
①12803歩
②10.2K
③511Kcal
●今日は、なかなか気合が入ってたんでしょうか。それとも成り行きでできたんでしょうか。まあ、後者ですね。
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真宗大谷派 47

2015-02-18 00:45:50 | 宗教
 真宗大谷派
【歴代】
*大谷派における歴代の正式呼称に関する注意
歴代の留守職・法主・門主を「歴代門首」と呼称し、「大谷派御歴代」と総称するのが正式である。
親鸞のみ「宗祖」と呼称、「聖人」と敬称する。
宗祖親鸞以降の歴代は、「第○○代」と漢数字を用いて「代」で呼称し、「第○○世」と呼称しない。敬称は、「上人」を用いる。なお在職中は、「上人」の敬称を付さない。
 例…「第八代 蓮如上人」・「第二十五代 大谷暢顯」
 「※」は、大谷廟堂留守職・本願寺留守職のうち歴代に数えない者と、真宗大谷派門首代行である。
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【中興の祖・蓮如】
本願寺第八世 蓮如の生涯についての詳細は、蓮如「生涯」の節を参照。
 応永22年(1415年)、存如の長男・蓮如(幼名・布袋丸)誕生する。
 永享8年(1436年)、巧如は長男の存如に本願寺を委譲し、存如が第七世となる。
 長禄元年(1457年)6月18日、存如が入滅する。存如の妻如円尼は実子の蓮照に継職させようと計るものの、存如の弟如乗の支持によって、蓮如が本願寺を継承し第八世となる。
継承当時の本願寺は衰亡の極みにあり、青蓮院の一末寺でしかなく、蓮如の支援者となる堅田本福寺の法住らが参拝しようとした際に、余りにも寂れた本願寺の有様に呆れ、佛光寺へ参拝したほどであった。
そのころ京都は土一揆で騒然。翌々年には大飢饉で、加茂川が餓死者で埋まる。諸国は戦乱が絶えず、深刻な様相を呈していた。
 寛正6年(1465年)、本願寺(大谷本願寺)は延暦寺西塔の衆徒によって破却される(寛正の法難)。この法難に遭うまで「本願寺」はこの地にあった。
 文明3年(1471年)、蓮如は京都から近江に難をさけ、そして越前(福井県)吉崎に移り布教する。
社会は徐々に進展し、民衆が力を得た。農村の生産力の増大と、荘園領主の没落で、農民の地位はしだいに向上し、やがて自治的な惣村をつくる。蓮如はこうした社会の動きに機敏に対応し、積極的な教化を開始した。蓮如の熱烈な伝道に共感する門徒は、近畿から東海地方に拡がりをみせる。特に近江(滋賀県)では広く帰依し、無碍光本尊が普及するようになる。
 文明6年(1474年)、加賀国の守護職を世襲する富樫氏の内紛で、富樫政親から支援の依頼を受ける。蓮如は、対立する富樫幸千代が真宗高田派と組んだことを知ると、同派の圧迫から教団を維持するために政親と協力して幸千代らを滅ぼした。だが、加賀の民衆が次第に蓮如の下に集まる事を政親が危惧して軋轢が生じるようになる。更に蓮如の配下だった下間蓮崇が蓮如の命令と偽って一揆の扇動を行った(ただし、蓮如ら本願寺関係者が蓮崇の行動に対して全く関知していなかったのかどうかについては諸説ある)。
 文明7年(1475年)8月21日、蓮如は吉崎を退去する。一揆を扇動した下間蓮崇を破門する。小浜、丹波、摂津を経て河内出口に居を定めた。
 文明7年(1475年)、蓮如は争いを鎮静化させるため吉崎を退去し、河内(大阪府)の出口を拠点に積極的な布教を開始。結果、浄土・聖道諸宗の僧俗が多く帰依する。
 文明10年(1478年)、蓮如は出口から山科へおもむき、翌年1月本願寺造営に着手する。
 文明15年(1483年)8月22日、「本願寺」(「山科本願寺」)」が落成する。
伽藍の整備と平行し、寺の周辺に多数の民家が営まれ、寺内町が形成され、諸国から参詣人や各職種の人たちが集い、京都市中をしのぐ賑わいをみせるようになる。
本願寺の教線は、東北から九州にいたる全国にのびた。さらに中国大陸北部の契丹人も教えを求めて来日した。蓮如によって本願寺は日本有数の大教団に成長する。
 長享2年(1488年)〜天正8年(1580年)、加賀国の本願寺門徒らが中心による「加賀一向一揆」が起こる。
 延徳元年(1489年)、蓮如は5男の実如に本願寺を委譲し、実如が第九世となる。
 明応6年(1497年)、蓮如は隠居所として、大坂石山に坊舎(「大坂御坊」)を建立する。
 明応7年(1498年)11月22日付の蓮如の『御文(御文章)』四帖の十五に、「大坂」という地名が史料にはじめて現れる。
「そもそも當國摂州東成郡生玉に荘内大坂といふ在所は往古よりいかなる約束のありけるにや、さんぬる明応第五の秋下旬のころより、かりそめながらこの在所をみそめしより、すでにかたのごとく一宇の坊舎を建立せしめ、年はやすでに三年の星霜をへたりき。これすなはち往昔の宿縁あさからざる因縁なりとおぼえはんべりぬ。」
 明応8年(1499年)3月25日、山科本願寺にて蓮如入滅する。
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