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雑記帳

豊田市在住 あきたんの日記風ブログ 様々なジャンルのブログです。

浄土宗 84

2018-09-17 16:50:42 | 宗教
 浄土宗
◇選択集について
 選択集は、建久8年(1197)に現在でいえば「前総理大臣」という立場にあった九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」という切望に応じられ、建久9年(1198)の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。

【選擇本願念佛集】
 法然上人の選擇本願念佛集を読んでみましょう。 原文は漢文で書かれていますが、今回は書き下してあります。
第一 聖道浄土二門篇
第二 雑行を捨てて正行に帰する篇
第三 念仏往生本願篇
第四 三輩念仏往生篇
第五 念仏利益篇
第六 末法万年に特り念仏を留むる篇
第七 光明ただ念仏の行者を摂する篇
第八 三心篇
●第九 四修法篇
第十 化仏讃歎篇
第十一 雑善に約対して念仏を讃歎する篇
第十二 仏名を付属する篇
第十三 念仏多善根遍
第十四 六方諸仏ただ念仏の行者を証誠したまう篇
第十五 六方諸仏護念篇
第十六 弥陀の名号を以て舎利弗に付属したまう篇

【第九章段】
念仏の行者四修の法を行用すべきの文

善導の『往生礼讃』に云く、また勧めて四修の法を行ぜしむ。何者をか四とす。一には恭敬修。いわゆる彼の仏、および彼の一切の聖衆等を恭敬礼拝す。故に恭敬修と名づく。畢命を期として、誓って中止せざる、すなわちこれ長時修なり。
 二には無余修。いわゆる専ら彼の仏名を称して、彼の仏および一切の聖衆等を、専念し、専想し、専礼し、専讃して、余業を雑えず。故に無余修と名づく、畢命を期とし誓って中止せざる、すなわちこれ長時修なり。
 三には無間修。いわゆる相続して、恭敬礼拝し、称名讃歎し、憶念観察し、回向発願し、心心に相続して、余業を以て来し間えず、故に無間修と名づく。また貧瞋煩悩を以て来し間えず、隨犯隨懺して、念を隔て、時を隔て、日を隔てしめず。常に清浄ならしめるをまた無間修と名づく。畢命を期として、誓って中止せざる、すなわちこれ長時修なり。
 『西方要決』に云く、ただ四修を修するを以て正業とす。一には長時修。初発心より乃至菩提まで、恒に浄因を作して、ついに退転ずること無し。二には恭敬修。これにまた五有り。一には有縁の聖人を敬う。謂く行住坐臥、西方に背かず、涕唾便痢、西方に向わず。二には有縁の像教を敬う。謂く西方の弥陀の像変を造る。広く作ること能はざれば、ただ一仏二菩薩を作るもまた得たり。教とは『弥陀経』等を、五色の袋に盛れて、自ら読み他を教えてこの経像を室中に安置して、六時に礼懺し、香華供養して、特に尊重を生せ。三には有縁の善知識を敬う。謂く浄土の教を宣べる者は、もしは千由旬十由旬より巳来、ならびにすべからく敬重し親近し供養すべし。別学の者にも、すべて敬心を起し、己と同じからざるをも、ただ深く敬うことを知れ。もし軽慢を生ずれば、罪を得ること窮まり無し。故にすべからくすべて敬うべし。すなわち行障を除く。四には同縁の伴を敬う。謂く同修業の者なり。自ら障重くして、独業成ぜずといえども、要ず良朋に藉って、まさに能く行を作す。危うきを扶け厄を救い、力を助けて相い資く。同伴の善縁、深く相い保重せよ。五には三宝を敬う。同体別相、ならびに深く敬うべし。つぶさに録すること能わず。浅行の者の、依修することを果さざるに為ってなり。住持三宝とは、今の浅識の与に大因縁と作る。今ほぼ料簡せば、仏宝と言うは、謂く檀を雕り。綺に繍い。素質金容、玉を鏤め、(カトリ=糸+曾)に図し、石を磨き、土を削る、この霊像特に尊承すべし。暫爾、形を観れば、罪消じ福を増す。もし少慢を生ずれば、悪を長じ善亡ず。ただし尊容を想うこと、まさに真仏を見るがごとくすべし。法宝と言うは、三乗の教旨、法界所流の名句の所詮なり。能く解を生ずるの縁なり。故にすべからく珍仰すべし。慧を発するの基なるを以てなり。尊経を鈔写して、恒に浄室に安じ。箱篋に盛れ貯えて、ならびに厳敬すべし。読誦の時は、身手清潔にせよ。僧宝と言うは、聖僧と菩薩と破戒との流、等心に敬を起せ。慢想を生ずること勿れ。三には無間修。謂く常に念仏して、往生の心を作す。一切の時において、心に常に想巧すべし。譬えばもし人有って、他に抄掠せられて、身下賤と為って、つぶさに艱辛を受く。たちまち父母を思って、走って国に帰らんと欲すれども、行装いまだ弁ぜず。なお他郷に在って、日夜に思惟して、苦しみ堪え忍びず。時として暫くも捨てて、耶嬢を念ぜざること無し。計を為すことすでに成って、すなわち帰って達することを得て、父母に親近し、縦任に歓娯す。行者もまた然なり。往し煩悩に因って、善心を壊乱し、福智の珍財ならびに皆散失す。久しく生死に流れて、制するに自由ならず。恒に魔王の与に、僕使と作って、六道に駈馳せられて、身心を苦切す。今善縁に遇って、たちまち弥陀慈父の弘願に違せず。群生を済抜したまうを聞いて、日夜に驚忙し、発心して往くことを願ず。所以に精勤して倦まず、まさに仏恩を念じて、報の尽きるを期と為して、心に恒に計念すべし。四には無余修。謂く専ら極楽を求めて、弥陀を礼念す。ただ諸余の業行雑起せしめざれ。所作の業には、日別にすべからく念仏誦経を修して、余課を留めざるべし。
 私に云く、四修の文見つべし。繁を恐れて解せず。ただし前の文の中に、すでに四修と云って、ただ三修有り。もしその文を脱するか。もしはその意有りや。更に脱文に非ず、その深意有り。何を以てか知ることを得る。四修とは、一には長時修、二には慇重修、三には無余修、四には無間修なり。而るに初めの長時は、ただこれ後の三修に、通用するを以てなり。謂く、慇重もし退せば、慇重の行、すなわち成ずべからず。無余もし退せば、無余の行、すなわち成ずべからず。無間もし退せば、無間の修、すなわち成ずべからず。この三修の行を成就せしめんが為に、皆長時を以て、三修に属して、通じて修せしむる所なり。故に三修の下に、皆結して畢命を期として、誓って中止せざる、すなわちこれ長時修と云うこれなり。例せば彼の精進、余の五度に通ずるがごときのみ。
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お盆参り

2018-08-15 06:26:37 | 宗教
 18:00-18:40 常行院
◇今日は、お盆のお参りの日です。
昔は、14日、15日とお参りをしましたが、
この頃では、14日のみになってます。
=合掌=
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お宮参り ~白山宮~

2018-05-06 20:12:16 | 宗教
 8:30-17:00 神社
お宮参り:生後1ヶ月頃の行事
生後1ヶ月頃に地元の氏神様に赤ちゃんの誕生を報告し、無病息災を祈願するお祝いです。
 男の子は生後31日目、女の子は生後32日目が一般的ですが、地域によって異なります。現在では細かい日数にはこだわらず、ママの体調や親族の都合、天候のよい日を考慮して行われる場合がほとんどです。
 参拝時は、父方の祖母が赤ちゃんを抱っこするのが正式ですが、母方のおばあちゃんやパパが抱っこしても大丈夫です。本来、ママは体を休めるためにお宮参りには参加しませんでしたが、近年はほとんどのママが一緒に参拝しています。
   白山宮
  
 足の神様(…サッカー日本代表チームが参詣されました)
 今神社
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浄土宗 83

2018-03-05 11:40:39 | 宗教
 浄土宗
◇選択集について
 選択集は、建久8年(1197)に現在でいえば「前総理大臣」という立場にあった九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」という切望に応じられ、建久9年(1198)の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。

【選擇本願念佛集】
 法然上人の選擇本願念佛集を読んでみましょう。 原文は漢文で書かれていますが、今回は書き下してあります。
第一 聖道浄土二門篇
第二 雑行を捨てて正行に帰する篇
第三 念仏往生本願篇
第四 三輩念仏往生篇
第五 念仏利益篇
第六 末法万年に特り念仏を留むる篇
第七 光明ただ念仏の行者を摂する篇
● 第八 三心篇
第九 四修法篇
第十 化仏讃歎篇
第十一 雑善に約対して念仏を讃歎する篇
第十二 仏名を付属する篇
第十三 念仏多善根遍
第十四 六方諸仏ただ念仏の行者を証誠したまう篇
第十五 六方諸仏護念篇
第十六 弥陀の名号を以て舎利弗に付属したまう篇

【第八章段】念仏の行者必ず三心を具足すべきの文

『観無量寿経』に云わく、もし衆生有って、彼の国に生ぜんと願う者は、三種の心を発して、すなわち往生す。何等をか三とす。一には至誠心、二には深心、三には回向発願心なり。三心を具する者は、必ず彼の国に生ず。

同経の『疏』に云く。『経』に「一者至誠心」と云うは、至とは真なり。誠とは実なり。一切衆生の身口意業に修する所の解行、必ず真実心の中に作すべきことを明さんと欲す。外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ。貧嗔邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難く、事、蛇蝎に同じきは、三業を起すといえども、名づけて雑毒の善と為し、また虚仮の行と名づけ、真実の業と名づけず。もしかくのごときの安心起行を作す者は、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走り急に作すこと、頭燃を炙うがごとくなるも、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回して、彼の仏の浄土に生ぜんことを求めんと欲する者は、これ必ず不可なり。何を以ての故に。正しく彼の阿弥陀仏の因中に、菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業に修する所、皆これ真実心の中に作し、およそ施為趣求する所、また皆真実なるに由ってなり。また真実に二種有り。一には自利の真実、二には利他の真実なり。自利の真実と言うは、また二種有り。一には真実心の中に、自他の諸悪および穢国等を制捨して、行住坐臥に一切の菩薩の諸悪を制捨するに同じく、我れもまたかくのごとくならんと想う。二には真実心中に、自他凡聖等の善を勤修し、真実心中の口業に、彼の阿弥陀仏および依正二報を讃歎し、また真実心中の口業に三界六道等の自他の依正二報の苦悪の事を毀厭し、また一切衆生の三業に為す所の善を讃歎す。もし善業に非ざるは敬ってこれを遠ざけ、また随喜せざるなり。また真実心中の身業に合掌礼敬して、四事等を以て彼の阿弥陀仏および依正二報を供養す。また真実心中の身業にこの生死三界等の自他の依正二報を軽慢し厭捨す。また真実心中の意業に彼の阿弥陀仏および依生二報を思想、観察、憶念して目前に現ずるがごとくすべし。また真実心中の意業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽賤し、厭捨す。不善の三業をば必ずすべからく真実心中に捨すべし。またもし善の三業を起せば、必ずすべからく真実心中に作すべし。内外明闇を簡ばず、皆すべからく真実なるべし。故に至誠心と名づく。

「二には深心」。深心と言うは、すなわちこれ深く信ずるの心なり。また二種有り。一には決定して、深く自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より巳来常に没し、常に流転して、出離の縁有ること無しと信ず。二には決定して、深く彼の阿弥陀仏四十八願をもって、衆生を摂受したまう。疑なく慮無く、彼の願力に乗じて、定んで往生を得と信ず。また決定して、深く釈迦仏この『観経』の三福九品、定散二善を説いて、彼の仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまうと信ず。また決定して、深く『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏、一切凡夫決定して生ずることを得と証勧したまうと信ず。また深信とは、仰ぎ願わくは、一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して依行せよ。仏の捨てしめたまう者はすなわち捨て、仏の行ぜしめたまう者をばすなわち行じ、仏の去らしめたまう処をばすなわち去れ。これを仏教に隨順し、仏意に隨順すと名づけ。これを仏願に隨順すと名づけ、これを真の仏弟子と名づく。

また一切の行者、ただ能くこの『経』に依って深く信じて行ずる者は、必ず衆生をあやまらず。何を以ての故に。仏はこれ大悲を満足する人なるが故に。実語したまうが故に。仏を除いて已還は、智行いまだ満ぜず。その学地に在って、なお正習二障有っていまだ除かず、果願いまだ円ならず。これ等の凡聖は、たとい諸仏の教意を測量するも、いまだ決了すること能わず。平章すること有りといえども、要らずすべからく仏の証を請うて定と為すべし。もし仏意に称えば、すなわち印可して如是如是と言いたまう。もし仏意に可わざれば、すなわち汝等が説く所は、この義不如是と言いたまう。印せざる者は、すなわち無記、無利、無益の語に同じ。仏の印可したまう者は、すなわち仏の正教に隨順す。もし仏の所有る言説は、すなわちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多、もしは少、すべて菩薩人天等を問わず、その是非を定むるなり。もし仏の所説はすなわちこれ了教なり。菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づく。まさに知るべし。この故に今時仰いで勧む、一切有縁の往生人等、ただ深く仏語を信じて、専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教を信用して、以て疑碍を為し、惑をいだいて自ら迷い、往生の大益を廃失すべからず。

また深心は、深信なりとは、決定して自心を建立して、教に順じて修行して、永く疑錯を除いて、一切の別解・別行・異学・異見・異執の為に、退失傾動せられざるなり。

問うて曰く、凡夫は智浅く、惑障処り深し。もし解行不同の人、多く経論を引き来って相い妨難し、証して一切罪障の凡夫、往生を得ずと云うに逢わば、云何が彼の難を対治して、信心を成就し、決定してただちに進んで、怯退を生ぜざらんや。

答えて曰く、もし人有って、多く経論を引いて、証して生ぜずと云わば、行者すなわち報えて云え。仁者経論を将ち来って、証して生ぜずと道うといえども、我が意のごときは、決定して汝が破を受けず。何を以ての故に。然るに我れまたこれ彼の諸の経論を信ぜざるにはあらず。ことごとく皆仰いで信ず。然れども仏、彼の経を説きたまう時は、処別に、時別に、対機別に、利益別なり。また彼の経を説きたまう時は、すなわち『観経』『弥陀経』等を説きたまう時に非ず。然るに仏の説教は機に備う。時また同じからず。彼れはすなわち通じて人天菩薩の解行を説き、今は『観経』の定散二善を説いて、ただ韋提および仏滅後の五濁、五苦等の一切の凡夫の為に、証して生ずることを得と言えり。この因縁の為に、我れ今一心にこの仏教に依り決定して奉行す。たとい汝等百千万億あって生ぜずと道うとも、ただ我が往生の信心を増長し成就せん。

また行者更に向って説いて言え。仁者善く聴け、我れ今汝の為に、更にに決定の信相を説かん。たとい地前の菩薩・羅漢・辟支等、もしは一、もしは多、乃至十方に遍満して、皆経論を引いて、証して生ぜずと言うとも、我れまたいまだ一念の疑心を起こさじ。ただ我が清浄の信心を増長し成就せん。何を以ての故に。仏語は決定成就の了義にして、一切の為に破壊せられざるに由るが故に。
  また行者善く聴け。たとい初地已上、十地已来、もしは一、もしは多、乃至十方に遍満して、異口同音に皆、釈迦仏、弥陀を指讃し、三界六道を毀呰し、衆生を勧励して、専心に念仏し、および余善を修し、この一身を畢えて後、必定して彼の国に生ずというは、これ必ず虚妄なり。依信すべからずと云わんに、我れこれ等の所説を聞くといえども、また一念の疑心を生ぜず。ただ我が決定上上の信心を増長し成就せん。何を以ての故に。すなわち仏語は、真実決了の義なるに由るが故に。仏はこれ実知・実解・実見・実証にして、この疑惑心中の語に非ざるが故に。また一切の菩薩、異見異解の為に破壊せられず。もし実にこれ菩薩ならば、すべて仏教に違わざるなり。
 
またこの事を置く。行者まさに知るべし。たとい化仏・報仏、もしは一、もしは多、乃至十方に遍満して、各に光を輝かし、下を吐いて、遍く十方に覆って、一一に説いて、釈迦の所説相い讃じて、一切の凡夫を勧発して、専心に念仏しおよび余善を修し、回願して彼の浄土に生ずることを得というは、これはこれ虚妄なり。定んでこの事無しと言わんに、我れこれ等の諸仏の所説を聞くといえども、畢竟じて一念疑退の心を起こして、彼の仏の国に生ずることを得ざらんことを畏れず。何を以ての故に。一仏は一切仏なり。あらゆる知見・解行・証悟・果位・大悲等同に少しの差別無し。この故に一仏の制する所は、すなわち一切の仏同じく制したまう。前仏の殺生十悪等の罪を制断したまうに、畢竟じて犯ぜず、行ぜざる者は、すなわち十善・十行・隨順六度の義と名づくるがごとく、もし後仏出世すること有らんに、あに前の十善を改めて、十悪を行ぜしむべけんや。この道理を以て推験するに、明らかに知んぬ。諸仏の言行は相い違失せず。たとい釈迦一切の凡夫を指勧し、この一身を尽して、専念専修して、命を捨てて已後、定んで彼の国に生ずというは、すなわち十方の諸仏も、ことごとく皆同じく讃じ、同じ勧め、同じく証したまう。何を以ての故に。同体の大悲なるが故に。一仏の所化は、すなわちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなわちこれ一仏の所化なり。すなわち『弥陀経』の中に説く、釈迦極楽の種々の荘厳を讃歎したまえり。また一切の凡夫、一日七日、一心に専ら弥陀の名号を念ずれば、定んで往生を得と勧めたまう。次ぎ下の文に云く、「十方に各恒河沙等の諸仏有って、同じく釈迦能く、五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩、悪邪無信の盛なる時において、弥陀の名号を指讃して、衆生称念すれば、必ず往生を得と勧励したまうを讃じたまう」と。すなわちその証なり。また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんことを恐畏れて、すなわちともに、同心同時に、各舌相を出して、遍く三千世界に覆って、誠実の言を説きたまう。汝等衆生、皆まさにこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問わず、ただ能く上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心に専ら、弥陀の名号を念ずれば、定んで往生を得ること、必ず疑い無きなり。この故に一仏の所説は、すなわち一切仏、同じくその事を証誠したまう。これを人に就いて信を立つと名づく。

次、行に就いて信を立つとは、然るに行に二種有り。一には正行、二には雑行なり。云々前の二行の中に引く所のごとし 繁を恐れて載せず見ん人意を得よ。

「三には回向発願心」。回向発願心と言うは、過去および今生の身口意業に修する所の世出世の善根および他の一切の凡聖の身口意業に修する所の世出世の善根および他の一切の凡聖の身口意業に修する所の世出世の善根を隨喜し、この自他の所修の善根を以て、ことごとく皆真実深心の心の中に回向して、彼の国に生ぜんと願ず。故に回向発願心と名づく。また回向発願して、生ぜんと願ずる者は、必ずすべからく決定して真実心の中に回向し願じて、得生の想いを作すべし。この心深く信ずることなおし金剛のごとく、一切の異見・異学・別解・別行の人等の為に動乱破壊せられず。ただこれ決定して一心に投じ正直に進んで、彼の人の語を聞いてすなわち進退し、心に怯弱を生ずること有って、回顧落道して、すなわち往生の大益を失うことを得ざれ。

問うて曰く、もし解行不同邪雑の人等有って、来って相い惑乱し、あるいは種種の疑難を説いて往生を得ずと道い、あるいは云わん汝等衆生、曠劫より巳来、および今生の身口意業に一切凡聖の身上において、つぶさに十悪・五逆・四重・謗法・闡堤・破戒・破見等の罪を造って、いまだ除尽すること能わず。然るにこれ等の罪は、三界の悪道に繋属す。云何ぞ一生の修福念仏をもって、すなわち彼の無漏無生の国に入って、永く不退の位を証悟することを得んやと。

答えて曰く、諸仏の教行、数、塵沙に越え、稟識の機縁、隨情一に非ず。譬えば世間の人の、眼に見つべく信ずべきごときは、明能く闇を破し、空能く有を含み、地は能く載養し、水は能く生潤し、火は能く成壊するがごとし。かくのごとき等の事、ことごとく待対の法と名づく。目に即して見つべし。千差万別なり。何にいわんや仏法不思議の力、あに種種の益無からんや。隨って一門を出ずれば、すなわち一煩悩門を出ず。随って一門に入れば、すなわち一解脱智慧門に入る。これに為って縁に随って行を起して、各解脱を求む。汝何を以てか、すなわち有縁に非ざる要行を将て、我を障惑するや。然るに我が愛する所は、すなわちこれ我が有縁の行なり。すなわち汝が求むる所に非ず。汝が愛する所は、すなわちこれ汝が有縁の行なり。また我求める所に非ず。この故に各楽う所に随って、その行を修すれば、必ず疾く解脱を得るなり。行者まさに知るべし。もし解を学せんと欲せば、凡より聖に至り、乃至仏果まで、一切無礙に、皆学することを得よ。もし行を学せんと欲せば、必ず有縁の法に籍れ。少し功労を用いるに、多く益を得るなり。

また一切の往生人等に白す。今更に行者の為に、一の譬喩を説いて、信心を守護して以て外邪異見の難を防がん。何者か是なるや。譬えば人有って、西に向って百千の里を行かんと欲するがごとき、忽然として中路に二河有るを見る。一にはこれ火の河、南に有り。二にはこれ水の河、北に在り。二河各闊さ百歩、各深くして底無く、南北辺無し。水火の中間に一の白道有り。闊さ四五寸許りなるべし。この道、東岸の西岸に至るまで、また長さ百歩なり。その水の波浪こもごも過ぎて道を湿し、その火の焔、また来って道を焼く。水火相い交って常に休息すること無し。この人すでに空曠の迥かなる処に至るに、更に人物無し。多く群賊悪獣のみ有り、この人の単独なるを見て、競い来って、殺さんと欲す。この人死を恐れて、ただちに走って西に向えば、忽然としてこの大河を見る。すなわち自ら念言すらく、この河南北辺畔を見ず。中間に一つの白道をみ見るも極めてこれ狭少なり。二岸相い去ること近しといえども、何に由ってか行くべき。今日定めて死すこと疑わず。まさに到り回らんと欲すれば、群賊悪獣漸々に来り逼む。まさに南北に避け走らんと欲すれば、悪獣毒虫、競い来って我れに向う。まさに西に向い道を尋ねて去らんと欲すれば、また恐らくはこの水火の二河に堕すことを。時に当たって惶怖また言うべからず。すなわち自ら思念すらく、我れ今回るともまた死なん。住まるともまた死なん。去るともまた死なん。一種として死を勉れず、我れ、むしろこの道を尋ねて前に向って去らん。すでにこの道有り。必ずまさに度るべし。この念を作す時、東岸にたちまち人の勧むる声を聞く。仁者ただ決定して、この道を尋ねて行け。必ず死の難無けん。もし住まらば、すなわち死なん。また西岸の上に人有って、喚んで言く。汝一心正念にただちに来たれ。我れ能く汝を護らん。すべて水火の難に堕すことを畏れざれと。この人すでにここに遣り、かしこに喚起ぶを聞いて、すなわち自ら身心を正当にして、決定して道を尋ねて、ただちに進んで、疑怯退の心を生ぜず。あるいは行くこと一分二分するに、東岸の群賊等喚んで言く、仁者回り来れ。この道嶮悪にして過ぐることを得じ。必ず死すこと疑わず。我等すべて悪心をもって、相い向うこと無しと。この人喚ぶ声を聞くといえども、また回り顧ず。一心にただちに進んで、道を念って行けば、須臾にすなわち西岸に到り、永く諸難を離れ、善友と相い見えて慶楽巳むこと無し。これはこれ喩なり。

次に喩を合せば、東岸と言うは、すなわちこの娑婆の火宅に譬う。西岸と言うは、すなわち極楽の宝国に喩う。群賊悪獣詐り親しむと言うは、すなわち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩う。人無き空迥の沢と言うは、すなわち常に悪友に随って、真の善知識に値わざるに喩う。水火の二河と言うは、すなわち衆生の貧愛は水のごとく、瞋憎は火のごときに喩う。中間の白道四五寸と言うは、すなわち衆生の貧瞋煩悩の中に、能く清浄の願往生の心を生ずるに喩う。すなわち貧瞋強きに由るが故にすなわち水火のごとしと喩う。善心微なるが故に白道のごとしと喩う。また水波常に道を湿すとは、すなわち愛心常に起って、能く善心を染汚するに喩う。また火焔常に道を焼くとは、すなわち瞋嫌の心、能く功徳の法財を焼くに喩う。人道の上を行きて、ただちに西に向うと言うは、すなわち諸の行業を回して、ただちに西方に向うに喩う。東岸に人の声あって、勧め遺るを聞いて、道を尋ねてただちに西に進むと言うは、すなわち釈迦すでに滅して後の人見ざれども、なお教法有って尋ぬべきに喩う。すなわち是を喩えるに声のごとし。あるいは行くこと一分二分するに、群賊等喚び回すと言うは、すなわち別解・別行・悪見人等の妄りに見解を説いて、迭いに相い惑乱し、および自ら罪を造って退失するに喩う。西岸の上に人有って喚ぶと言うは、すなわち弥陀の願意に喩う。須臾に西岸に到れば、善友相い見えて喜ぶと言うは、すなわち衆生久しく生死に沈んで、曠劫に輪回し、迷倒自纏して、解脱するに由し無し。仰いで釈迦発遣して西方に指し向わしむるを蒙り、また弥陀の悲心をもって、招喚したまうに藉って、今二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず。念念に遺るること無く、彼の願力の道に乗じて、命を捨てて巳後、彼の国に生ずることを得て、仏と相い見えて、慶喜何ぞ極らんというに喩う。また一切の行者、行住坐臥、三業に修する所、昼夜時節を問うこと無く、常にこの解を作し、常にこの想を作す。故に回向発願心と名づく。また回向と言うは、彼の国に生じ巳って、還って大悲を起し、生死に回入して、衆生を教化するをまた回向と名づく。三心すでに具すれば、行として成ぜずという事無し。願行すでに成じて、もし生ぜずば、この処有ること無し。またこの三心は、また通じて定善を摂する義まさに知るべし。

『往生礼讃』に云く。問うて曰く、今人を勧めて、往生せしめんと欲せば、いまだ知らず、若為が安心し、起行し、作業して、定んで彼の国土に往生することを得るや。

答えて曰く、必ず彼の国土に生ぜんと欲せば、『観経』に説くがごときは、三心を具すれば、必ず往生を得。何等を三とす。一には至誠心、いわゆる身業に彼の仏を礼拝し、口業に彼の仏を讃歎称揚し、意業に彼の仏を専念観察す。およそ三業を起すに、必ずすべからく真実なるべし。故に至誠心と名づく。二には深心、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして、三界に流転して、火宅を出でずと信知し、今弥陀の本弘誓願、名号を称すこと、下、十声一声等に至るに及ぶまで、定んで往生を得と信知して、乃至一念も疑心有ること無し。故に深心と名づく。三には回向発願心、作す所の一切の善根、ことごとく皆回して往生を願ず。故に回向発願心と名づく。この三心を具すれば、必ず生ずることを得。もし一心をも少けぬれば、すなわち生ずることを得ず。『観経』につぶさに説くがごとし。まさに知るべし。

私に云く、引く所の三心は、これ行者の至要なり。所以は何ん。『経』にはすなわち「三心を具する者は、必ず彼の国に生ず」と云う。明らかに知んぬ。三を具して必ず生ずることを得べし。『釈』にはすなわち「もし一心をも少けぬればすなわち生ずることを得ず」と云う。明らかに知んぬ。一も少けぬれば、これ更に不可なることを。これに因って極楽に生ぜんと欲せん人は、全く三心を具足すべし。その中に至誠心とはこれ真実の心なり。その相、彼の文のごとし。ただし外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くとは、外は内に対する辞なり。謂く、外相と内心と調はざるの意なり。すなわちこれ外は智にして内は愚なり。賢は愚に対するの言なり。謂く、外はこれ賢にして、内はすなわち愚なり。善は悪に対する辞なり。謂く、外はこれ善にして、内はすなわち悪なり。精進は懈怠に対する言なり。謂く、外には精進の相を示し、内にはすなわち懈怠の心を懐く。もしそれ外を飜じて内に蓄えば祇に出要に備うべし。「内懐虚仮」等とは、内は外に対する辞なり。謂く、内心と外相と調はざるの意なり。すなわちこれ内は虚にして、外は実なり。虚は実に対する言なり。謂く、内は虚、外は実なる者なり。仮は真に対するの辞なり。謂く、内は仮にして外は真なり。もしそれ内を飜じて外に播さば、また出要に足るべし。

次に深心とは、謂く深く信ずるの心なり。まさに知るべし。生死の家には。疑を以て所止と為し、涅槃の城には、信を以て能入と為す。故に今二種の信心を建立して、九品の往生を決定する者なり。またこの中に、一切の別解・別行・異学・異見等と言うは、これ聖道門の解行学見を指す。その余はすなわちこれ浄土門の意なり。文に在って見るべし。明らかに知んぬ。善導の意、またこの二門を出でず。

回向発願心の義、別の釈を俟つべからす。行者まさにこれ知るべし。この三心は総じてこれを言えば、諸の行法に通じ、別してこれを言わば往生の行に在り。いま通を挙て別を摂す。意すなわち周し。行者能く用心して、あえて忽緒せしむること勿れ。
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真宗大谷派 61

2018-02-24 20:53:45 | 宗教
● 真宗大谷派
【歴代】
*大谷派における歴代の正式呼称に関する注意
歴代の留守職・法主・門主を「歴代門首」と呼称し、「大谷派御歴代」と総称するのが正式である。
親鸞のみ「宗祖」と呼称、「聖人」と敬称する。
宗祖親鸞以降の歴代は、「第○○代」と漢数字を用いて「代」で呼称し、「第○○世」と呼称しない。敬称は、「上人」を用いる。なお在職中は、「上人」の敬称を付さない。
 例…「第八代 蓮如上人」・「第二十五代 大谷暢顯」
 「※」は、大谷廟堂留守職・本願寺留守職のうち歴代に数えない者と、真宗大谷派門首代行である。
------------------------------------------------------------------------------------------------
●組織
 基本方針に従い、種々の教化活動・社会活動・諸事業を展開している。
 運営は、「中央」と「地方」の組織により行われる。それぞれの組織は、以下に示す通り三権分立(宗務機関〈「行政府」に相当〉・立法機関〈「立法府」に相当〉・司法機関〈「司法府」に相当〉)の形態を取る。
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浄土宗 82

2017-10-16 17:38:45 | 宗教
 浄土宗
◇選択集について
 選択集は、建久8年(1197)に現在でいえば「前総理大臣」という立場にあった九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」という切望に応じられ、建久9年(1198)の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。

【選擇本願念佛集】
 法然上人の選擇本願念佛集を読んでみましょう。 原文は漢文で書かれていますが、今回は書き下してあります。
第一 聖道浄土二門篇
第二 雑行を捨てて正行に帰する篇
第三 念仏往生本願篇
第四 三輩念仏往生篇
第五 念仏利益篇
第六 末法万年に特り念仏を留むる篇
● 第七 光明ただ念仏の行者を摂する篇
第八 三心篇
第九 四修法篇
第十 化仏讃歎篇
第十一 雑善に約対して念仏を讃歎する篇
第十二 仏名を付属する篇
第十三 念仏多善根遍
第十四 六方諸仏ただ念仏の行者を証誠したまう篇
第十五 六方諸仏護念篇
第十六 弥陀の名号を以て舎利弗に付属したまう篇

【第七章段】弥陀の光明余行の者を照らさず、ただ念仏の行者を摂取したまうの文
『観無量寿経』に云わく、無量寿仏に八万四千の相有り。一一の相に、各八万四千の隨形好有り。一一の好に、 また八万四千の光明有り。一一の光明、遍く十方の世界を照して、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず。
同経の『疏』に云く、「無量寿仏」より、下「摂取不捨」に至る已来は、正しく身の別相を観ずるに、光有縁を益することを明す。すなわちその五有り。一には相の多少を明し、二には好の多少を明し、三には光の多少を明し、四には光照の遠近を明し、五には光の及ぶ所の処、偏に摂益を蒙ることを明す。
 問うて曰く、つぶさに衆行を修して、ただ能く回向すれば。皆往生を得。何を以てか、仏光普く照すにただ念仏の者のみを摂する、何に意有るや。
 答えて曰く、これに三義有り。一に親縁を明す。衆生、行を起して口常に仏を称すれば、仏すなわちこれを聞きたまう。身常に仏を礼敬すれば、仏すなわちこれを見たまう。心常に仏を念ずれば、仏すなわちこれを知りたまう。衆生仏を憶念すれば、仏また衆生を憶念したまう。彼此の三業相い捨離せず。故に親縁と名づく。二に近縁を明す。衆生仏を見んと願ずれば、仏すなわち念に応じて、目前に現在す。故に近縁と名づく。三に僧上縁を明す。衆生称念すれば、すなわち多劫の罪を除く、命終らんと欲する時、仏聖衆とともに自ら来って迎接したまう。諸邪業繋、能く礙うる者無し。故に僧上縁と名づく。自余の衆行も、これ善と名づくといえども、もし念仏に比すれば、全く比校に非ず。この故に諸経の中に、処処に広く念仏の功能を讃ず。『無量寿経』の四十八願の中のごとき、ただ専ら弥陀の名号を念じて生ずることを得と明す。また『弥陀経』の中のごとき、一日七日専ら弥陀の名号を念じて生ずることを得。また十方恒沙の諸仏、虚しからずと証誠したまう。またこの『経』の定散の文の中に、ただ専ら名号を念じて、生ずることを得と標す。この例一に非ず。広く念仏三昧を顕し竟んぬ。
 『観念法門』に云く、また前のごとく、身相等の光、一一遍く十方世界を照らす。ただ専ら阿弥陀仏を念ずる衆生のみ有って、彼の仏の心光常にこの人を照して、摂護して捨てたまわず。すべて余の雑業の行者を、照摂することを論ぜず。
 私に問うて曰く、仏の光明、ただ念仏の者のみを照らして、余行の者を照らさざるは、何に意有りや。
 答えて曰く、解するに二義有り。一には親縁等の三義、文のごとし。二には本願の義、謂く余行は本願に非ず。故にこれを照摂せず。念仏はこれ本願なり、故にこれを照摂す。故に善導和尚の『六時礼讃』に云く、「弥陀の身色金山のごとし。相好の光明十方を照らす。ただ念仏のみ有って、光摂を蒙る。まさに知るべし。本願最も強しと為す。」 已上  また引く所の文の中に、「自余の衆善は、これ善と名づくといえども、もし念仏に比すれば、全く比校に非ず」と言うなりとは、意の云く、これ浄土門の諸行に約して比論する所なり。念仏は、これすでに二百一十億の中に、選取する所の妙行なり。諸行はこれすでに二百一十億の中に、選捨する所の粗行なり。故に「全く比校に非ず」と云う。また念仏はこれ本願の行、諸行はこれ本願に非ず。故に「全く比校に非ず」と言う。
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臨済宗 ⑨

2017-09-28 16:57:51 | 宗教
臨済宗
○栄西(えいさい)…その2
[生]保延7(1141).4.20. 備中,吉備津
[没]建保3(1215).6.5. 鎌倉
 日本臨済宗の開祖。号を葉上房,字を明庵という。初め比叡山に登り天台の教学を修めたがあきたらず,仁安2 (1167) 年伯耆大山の基好のもとで勉学中唐本『法華経』に接して入宋の決意を固め,翌年4月入宋。天台山,阿育王山を歴訪し,禅に対する理解と興味を示し,中国天台宗に関する注釈書などを持って帰朝。以後天台の復興に禅の必要性を痛感し,文治3 (87) 年再び入宋。天台山で臨済禅を学び建久2 (91) 年帰国。筑前誓願寺において布教活動を始め,正治1 (99) 年鎌倉に入り,のちに将軍頼家の帰依を受け寿福寺を創立,建仁2 (1202) 年京都建仁寺を造立し,以後京都,鎌倉の間を往復して禅の弘通に努めた。建永1 (06) 年東大寺の重源のあとをうけて東大寺大仏の再建に尽力した。治承2 (1178) 年の筑前誓願寺の『誓願寺盂蘭盆一品経縁起』は栄西の遺品として名高く,その書風は宋風様式を示している。また茶の種子を宋から持帰り,日本に喫茶の習慣を広めた。著書に『興禅護国論』『一代経論釈』『喫茶養生記』などがある。弟子に釈円栄朝 (しゃくえんえいちょう) ,退耕行勇 (たいこうぎょうゆう) らが輩出した。
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浄土宗 81

2017-09-17 06:27:48 | 宗教
 浄土宗
◇選択集について
 選択集は、建久8年(1197)に現在でいえば「前総理大臣」という立場にあった九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」という切望に応じられ、建久9年(1198)の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。

【選擇本願念佛集】
 法然上人の選擇本願念佛集を読んでみましょう。 原文は漢文で書かれていますが、今回は書き下してあります。
第一 聖道浄土二門篇
第二 雑行を捨てて正行に帰する篇
第三 念仏往生本願篇
第四 三輩念仏往生篇
第五 念仏利益篇
○第六 末法万年に特り念仏を留むる篇
第七 光明ただ念仏の行者を摂する篇
第八 三心篇
第九 四修法篇
第十 化仏讃歎篇
第十一 雑善に約対して念仏を讃歎する篇
第十二 仏名を付属する篇
第十三 念仏多善根遍
第十四 六方諸仏ただ念仏の行者を証誠したまう篇
第十五 六方諸仏護念篇
第十六 弥陀の名号を以て舎利弗に付属したまう篇

【第六章段】
末法万年の後に余行ことごとく滅し、特り念仏を留むるの文

『無量寿経』の下巻に云わく、当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲哀愍を以て、特りこの経を留めて、止住すること百歳ならん。それ衆生有って、この『経』に値わん者は、意の所願に随って、皆得度すべし。

私に問うて曰く、『経』に「特留此経止住百歳」と云って、全くいまだ「特留念仏止住百歳」と云わず。然るに今何ぞ特留念仏と云うや。

答えて曰く、この『経』の所詮は全く念仏に在り。その旨前に見えたり。再び出だすこと能わず。善導・懐感・慧心等の意も、またまたかくのごとし。然ればすなわちこの『経』の止住は、すなわち念仏の止住なり。然る所以は、この『経』に菩提心の言有りといえども、いまだ菩提心の行相を説かず。また持戒の言有りといえども、いまだ持戒の行相を説かず。而るに菩提心の行相を説くことは、広く『菩提心経』等に在り。彼の『経』先に滅しなば菩提心の行、何に因ってかこれを修せん。また持戒の行相を説くことは、広く大小の戒律に在り。彼の戒律先に滅しなば、持戒の行、何に因ってかこれを修せん。自余の諸行これに準じてまさに知るべし。故に善導和尚の『往生礼讃』にこの文を釈して云く、「万年に三宝滅せんに、この『経』、住すること百年ならん。その時聞いて一念せば、皆まさにかしこに生ずることを得べし」。
またこの文を釈するに、略して四の意有り。一には聖道浄土二教住滅の前後。二には十方西方二教住滅の前後。三には都率西方二教住滅の前後。四には念仏諸行二行住滅の前後なり。
一に聖道浄土二教住滅の前後とは、謂く聖道門の諸教は先に滅す、故に「経道滅尽」と云う。浄土門のこの『経』特り留まる。故に「止住百歳」と云う。まさに知るべし、聖道は機縁浅薄にして、浄土は機縁深厚なり。
二に十方西方二教住滅の前後とは、謂く十方浄土往生の諸教、先に滅す。故に「経道滅尽」と云う。西方浄土往生のこの『経』特り留まる。故に「止住百歳」と云う。まさに知るべし、十方の浄土は機縁浅薄にして、西方浄土は機縁深厚なり。
三に兜率西方二教住滅の前後とは、謂く『上生』、『心地』等の上生兜率の諸教、先に滅す。故に「経道滅尽」と云う。往生西方のこの『経』特り留まる。故に「止住百歳」と云う。まさに知るべし、兜率は近しといえども縁浅く、極楽は遠しといえども縁深し。
四に念仏諸行二行住滅の前後とは、諸行往生の諸教、先に滅す。故に「経道滅尽」と云う。念仏往生のこの『経』特り留まる。故に「止住百歳」と云う。まさに知るべし、諸行往生は、機縁最も浅く、念仏往生は、機縁はなはだ深し。加之、諸行往生は縁少く、念仏往生は縁多し。また諸行往生は、近く末法万年の時に局れり、念仏往生は、遠く法滅百歳の代を霑す。

問うて曰く、すでに「われ慈悲哀愍を以て、特りこの経を留めて、止住すること百歳ならん」と云う。もし爾らば釈尊慈悲を以て、経教を留めたまわば、何れの経、何れの教か留まらざらん。而るに何ぞ余経を留めずして、ただこの『経』を留めたまうや。
答えて曰く、たとい何れの経を留むといえども、別して一経を指せば、またこの難を避けず。ただし特りこの『経』を留める、その深意有るか。もし善導和尚の意に依らば、この『経』の中に、すでに弥陀如来の念仏往生の本願を説けり。釈迦の慈悲、念仏を留めんが為に、殊にこの『経』を留む。余経の中には、いまだ弥陀如来の念仏往生の本願を説かず。故に釈尊の慈悲、以てこれを留めたまわず。およそ四十八願、皆本願なりといえども、殊に念仏を以て、往生の規と為す。故に善導の『釈』に云く。「弘誓多門にして四十八なれども、偏に念仏を標して、最も親しとす。人能く仏を念ずれば、仏また念じたまう。専心に仏を想えば、仏人を知りたまう」。 已上

故に知んぬ。四十八願の中に、すでに念仏往生の願を以て、本願の中の王と為す。ここを以て釈迦の慈悲、特りこの『経』を以て、止住すること百歳なり。例せば彼の『観無量寿経』の中に、定散の行を付属せずして、ただ孤り念仏の行を付属するがごとし。これすなわち彼の仏願に順ずるが故に、念仏の一行を付属するなり。

問うて曰く、百歳の間、念仏を留むべきこと、その理然るべし。この念仏の行は、ただ彼の時機に被るとやせん。はた正像末法の機に通ずとやせん。
答えて曰く、広く正像末法に通ずべし。後を挙げて今を勧む。その義まさに知るべし。
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真宗大谷派 60

2017-08-19 06:11:43 | 宗教
 真宗大谷派
【歴代】
*大谷派における歴代の正式呼称に関する注意
歴代の留守職・法主・門主を「歴代門首」と呼称し、「大谷派御歴代」と総称するのが正式である。
親鸞のみ「宗祖」と呼称、「聖人」と敬称する。
宗祖親鸞以降の歴代は、「第○○代」と漢数字を用いて「代」で呼称し、「第○○世」と呼称しない。敬称は、「上人」を用いる。なお在職中は、「上人」の敬称を付さない。
 例…「第八代 蓮如上人」・「第二十五代 大谷暢顯」
 「※」は、大谷廟堂留守職・本願寺留守職のうち歴代に数えない者と、真宗大谷派門首代行である。
------------------------------------------------------------------------------------------------
●門首
門首の地位門首の地位は、真宗大谷派の僧侶及び門徒を代表して、真宗本廟の宗祖聖人真影の給仕並びに佛祖の崇敬に任ずることと、僧侶及び門徒の首位にあって、同朋とともに真宗の教法を聞信することである。地位の継承地位の継承は、宗会の議決した内事章範の定めるところによるとする。門首の宗務に関する行為門首の宗務に関する行為は、内局の進達により、下記の事項を行う。
1.本尊、名号、影像及び法名を授与すること。
2.儀式を主宰すること。
3.得度式及び帰敬式を行うこと。
4.宗会による宗務総長の指名を認証すること。
5.内局による審問院長の指名を認証すること。
6.宗憲改正を公示すること。
7.宗会招集の達示を発すること。
8.宗議会解散の達示を発すること。
9.褒賞を授与すること。
10.懲戒に処せられた者の減免及び復権を認証すること。
門首の行為と内局の進達
 門首が、宗務に関する行為を行うときは、すべて内局の進達を必要とし、内局がその責任を負う。門首に内局の進達事項を拒み、干渉することができない。門首が進達事項を拒否して宗務行為をしないときは、内局が臨時に代行できる。
門首の権能の限界
 門首の権能の限界は、上記の宗務に関する行為のほかは、宗務執行に関する権能を有しない。
門首の代行
 門首が内局の進達事項を拒み、進達を得ないで宗務に干渉したときは、内局は参与会と常務会の選定した門首代行を置くことを決定できる。
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お盆 ~お参り~

2017-08-15 06:17:37 | 宗教
 18:00-18:30 お墓(常行院)
◇お盆のお参りです。
昔は、2日間にわたって、坊さんが各家庭のお墓を回ってお参りしてました。
それで、その読経を受けるために皆集まってきているのですが、
近年では、1日で終わっているようです。
もちろん、各家庭でお参りすればよいのですが、
坊さんが我が家のお墓でお参りをしてくれる、というのがミソですね。
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浄土宗 80

2017-08-11 06:06:43 | 宗教
 浄土宗
◇選択集について
 選択集は、建久8年(1197)に現在でいえば「前総理大臣」という立場にあった九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」という切望に応じられ、建久9年(1198)の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。

【選擇本願念佛集】
 法然上人の選擇本願念佛集を読んでみましょう。 原文は漢文で書かれていますが、今回は書き下してあります。
第一 聖道浄土二門篇
第二 雑行を捨てて正行に帰する篇
第三 念仏往生本願篇
第四 三輩念仏往生篇
○第五 念仏利益篇
第六 末法万年に特り念仏を留むる篇
第七 光明ただ念仏の行者を摂する篇
第八 三心篇
第九 四修法篇
第十 化仏讃歎篇
第十一 雑善に約対して念仏を讃歎する篇
第十二 仏名を付属する篇
第十三 念仏多善根遍
第十四 六方諸仏ただ念仏の行者を証誠したまう篇
第十五 六方諸仏護念篇
第十六 弥陀の名号を以て舎利弗に付属したまう篇

【第五】念仏利益篇
第五章段
念仏利益の文

『無量寿経』の下に云わく。仏、弥勒に語げたまわく、それ彼の仏の名号を聞くことを得ること有って、歓喜踊躍して乃至一念せん。当に知るべし、この人は大利を得と為す。すなわちこれ無上の功徳を具足す。

善導の『礼讃』に云く、それ彼の阿弥陀仏の名号を聞くことを得ること有って、歓喜して一念に至るまで、皆かしこに生ずることを得べし。

私に問うて曰く、上の三輩の文に准ずるに、念仏の外に菩提心等の功徳を挙ぐ。何ぞ彼等の功徳を歎せずして、ただ独り念仏の功徳を讃ずるや。
答えて曰く、聖意測り難し。定んで深意有らん。且く善導の一意に依ってこれを謂わば、原ぬるにそれ仏意は、正直にただ念仏の行を説かんと欲すといえども、機に隨って、一往、菩提心等の諸行を説いて、三輩の浅深不同を分別す。然るに今諸行においては、すでに捨てて歎ぜず、置いて論ずべからざる者なり。ただ念仏の一行に就いて、すでに選んで讃歎したまう。思って分別すべき者なり。

もし念仏に約して、三輩を分別せば、これに二の意有り。一には観念の浅深に隨ってこれを分別し、二には念仏の多少を以てこれを分別す。浅深とは、上に引く所のとし。もし説のごとく行ぜば、理、上上に当るというこれなり。次に多少とは、下輩の文の中に、すでに十念乃至一念の数有り。上中の両輩、これに准じて随って増すべし。『観念法門』に云く、「日別に一万遍の仏を念じ、またすべからく時に依って、浄土の荘厳事を礼讃すべし。大いに精進すべし。あるいは三万六万十万を得る者は、皆これ上品上生の人なり」と。まさに知るべし。三万已上はこれ上品上生の業、三万已去は上品已下の業なり。すでに念数の多少に随って、品位を分別することこれ明らけし。

今ここに一念と言うは、これ上の念仏の願成就の中に言う所の一念と、下輩の中に明す所の一念とを指す。願成就の文の中に、一念と云うといえども、いまだ功徳の大利を説かず。また下輩の文の中に、一念と云うといえども、また功徳の大利を説かず。この一念に至って、説いて大利と為し、歎じて無上と為す。まさに知るべし、これ上の一念を指すなり。この大利とは、これ小利に対するの言なり。然ればすなわち菩提心等の諸行を以て小利と為し、乃至一念を以て大利と為す。また無上功徳とは、これ有上に対する言なり。余行を以て有上と為し、念仏を以て無上と為す。すでに一念を以て一の無上と為す。まさに知るべし。十念を以て十の無上と為し、また百念を以て百の無上と為し、また千念を以て千の無上と為す。かくのごとく展転して、少より多に至り、念仏恒沙ならば、無上の功徳もまた恒沙なるべし。かくのごとくまさに知るべし。然れば諸の往生を願求せん人、何ぞ無上大利の念仏を廃して、強いて有上小利の余行を修せんや。
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浄土宗 79

2017-08-10 06:38:13 | 宗教
 浄土宗
◇選択集について
 選択集は、建久8年(1197)に現在でいえば「前総理大臣」という立場にあった九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」という切望に応じられ、建久9年(1198)の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。

【選擇本願念佛集】
 法然上人の選擇本願念佛集を読んでみましょう。 原文は漢文で書かれていますが、今回は書き下してあります。
第一 聖道浄土二門篇
第二 雑行を捨てて正行に帰する篇
第三 念仏往生本願篇
○ 第四 三輩念仏往生篇
第五 念仏利益篇
第六 末法万年に特り念仏を留むる篇
第七 光明ただ念仏の行者を摂する篇
第八 三心篇
第九 四修法篇
第十 化仏讃歎篇
第十一 雑善に約対して念仏を讃歎する篇
第十二 仏名を付属する篇
第十三 念仏多善根遍
第十四 六方諸仏ただ念仏の行者を証誠したまう篇
第十五 六方諸仏護念篇
第十六 弥陀の名号を以て舎利弗に付属したまう篇

≪第四 三輩念仏往生篇≫
第四章段
三輩念仏往生の文

仏、阿難に告げたまわく、十方世界の諸天人民、それ至心有って、彼の国に生ぜんと願ずるに、およそ三輩有り。その上輩とは、家を捨て欲を棄てしかも沙門と作り、菩提心を発して、一向に専ら無量寿仏を念じ、諸の功徳を修して彼の国に生ぜんと願ず。これ等の衆生寿終の時に臨んで、無量寿仏、諸の大衆とともに、その人の前に現ず。すなわち彼の仏に随ってその国に往生し、すなわち七宝華の中において自然に化生して不退転に住す。智慧勇猛、神通自在なり。この故に阿難、それ衆生有って、今世において無量寿仏を見たてまつらんと欲せば、まさに無上菩提の心を発し、功徳を修行し、彼の国に生ぜんと願ずべし。

仏、阿難に語げたまわく、その中輩とは、十方世界の諸天人民、それ至心有って、彼国に生ぜんと願ずるに、行じて沙門と作り、大いに功徳を修すること能わずといえども、まさに無上菩提の心を発して、一向に専ら無量寿仏を念ずべし。多少に善を修し、斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、(カトリ=糸+曾)を懸け、燈を燃し、華を散らし、香を焼き、これを以て回向して彼の国に生ぜんと願ず。その人終りに臨んで、無量寿仏その身を化現したまう。光明相好、つぶさに真仏のごとし。諸の大衆とともに、その人の前に現ず。すなわち化仏に随ってその国に往生して、不退転に住す。功徳智慧ついで上輩の者のごとし。

仏、阿難に告げたまわく。その下輩とは、十方世界の諸天人民、それ至心有って、彼の国に生ぜんと欲せんに、たとい諸の功徳を作すこと能たわざるも、まさに無上菩提の心を発して、一向に意を専らにして、乃至十念、無量寿仏を念じて、その国に生ぜんと願ずべし。もし深法を聞いて歓喜信楽して疑惑を生ぜず、乃至一念彼の仏を念じ、至誠心を以て、その国に生ぜんと願ぜば、この人終りに臨んで、夢に彼の仏を見たてまつりて、また往生を得。功徳智慧、ついで中輩の者のごとし。

私に問うて曰く、上輩の文の中に、念仏の外にまた捨家棄欲等の余行有り。中輩の文の中に、また起立塔像等の余行有り。下輩の文の中に、また菩提心等の余行有り。何が故ぞただ念仏往生と云うや。
答えて曰く、善導和尚の『観念法門』に云く、「またこの『経』の下巻の初めに云く。仏説きたまうに、一切衆生の根性は不同にして上中下有り。その根性に随って、仏皆勧めて専ら無量寿仏の名を念ぜしむ。その人命終らんと欲する時、仏聖衆とともに自ら来って迎接してことごとく往生を得せしめたまう」と。この釈の意に依るに、三輩ともに念仏往生と云うなり。

問うて曰く、この釈いまだ前の難を遮せず。何ぞ余行を棄てて、ただ念仏と云うや。
答えて曰く、これに三の意有り。一には諸行を廃して、念仏に帰せしめんが為に、諸行を説く。 二には念仏を助成せしめんが為に、諸行を説く。三には念仏と諸行の二門に約して各三品を立てんが為に、諸行を説く。 一に諸行を廃して念仏に帰せしめんが為に、諸行を説くとは、善導の『観経の疏』の中に、「上来定散両門の益を説くといえども、仏の本願に望むれば、意衆生をして、一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるに在り」と云う釈の意に准じて、且くこれを解せば、上輩の中に、菩提心等の余行を説くといえども、上の本願に望むれば、意ただ衆生をして専ら弥陀仏の名を称せしむるに在り。而るに本願の中には、更に余行無し。三輩ともに上の本願に依るが故に一向専念無量寿仏と云う。一向とは、二向三向等に対する言なり。例せば、彼の五竺に三寺あるがごとし。一には一向大乗寺、この寺の中には小乗を学すること無し。二には一向小乗寺、この寺の中には大乗を学すること無し。 三には大小兼行寺。この寺の中には大小兼ね学す。故に兼行寺と云う。まさに知るべし。大小の両寺には一向の言有り。兼行の寺には一向の言無し。今この『経』の中の一向もまた然なり。もし念仏の外にまた余行を加えばすなわち一向に非ず。もし寺に准せば、兼行と云うべし。すでに一向と云う、余を兼ねざること明らけし。すでに余行を説くといえども、後に一向専念と云う。明らかに知んぬ、諸行を廃してただ念仏を用いるが故に一向と云う。もし爾らずば一向の言、最も以て消しがたきか。
二には念仏を助成せしめんが為に、この諸行を説くとは、これにまた二の意有り。一には同類の善根を以て念仏を助成し、二には異類の善根を以て念仏を助成す。
初めに同類の助成とは、善導和尚の『観経の疏』の中に、五種の助行を挙げて、念仏の一行を助成すこれなり。つぶさには上の正雑二行の中に説くがごとし。
次に異類の助成とは、まず上輩に就いて正助を論ぜば、一向専念無量寿仏とはこれ正行なり。またこれ所助なり。捨家棄欲、而作沙門、発菩提心等とは、これ助行なり。またこれ能助なり。謂く往生の業には、念仏を本とす。故に一向に念仏を修せんが為に、家を捨て欲を棄て沙門と作り、また菩提心を発す等なり。中に就いて出家発心等とは、且く初出および初発を指す。念仏はこれ長時不退の行なり。むしろ念仏を妨礙すべけんや。中輩の中に、また起立塔像、懸(ゾウ=糸+曾)、然燈、散華、焼香等の諸行有り。これすなわち念仏の助成なりその旨『往生要集』に見えたり。謂く助念方法の中の、方処供具等これなり。下輩の中に、また発心有り、また念仏有り。助正の義、前に准じて知るべし。
三に念仏諸行に約して、各三品を立てんが為に、諸行を説くとは、まず念仏に約して三品を立つとは、謂くこの三輩の中に、通じて皆一向専念無量寿仏と云う。これすなわち念仏門に約して、その三品を立つるなり。故に『往生要集』の念仏証拠門に云く、「『雙巻経』の三輩の業、浅深有りといえども、しかも通じて皆一向専念無量寿仏と云う。」 感師これに同じ 次に諸行門に約して、三品を立つとは、謂くこの三輩の中に、通じて皆菩提心等の諸行有り。これすなわち諸行に約して、その三品を立つるなり。故に『往生要集』の諸行往生門に云く、「『雙巻経』の三輩も、またこれを出でず。」 已上

およそかくのごときの三義、不同有りといえども、ともにこれ一向念仏の為にする所以なり。初めの義は、すなわちこれ廃立の為に説く。謂く諸行は廃の為に説き、念仏は立の為に説く。次の義は、すなわちこれ助正の為に説く。謂く念仏の正業を助けんが為に諸行の助業を説く。後の義は、すなわちこれ傍正の為に説く。謂く、念仏諸行の二門を説くといえども、念仏を以て正と為し、諸行を以て傍と為す。故に三輩通じて、皆念仏と云うなり。ただしこれ等の三義、殿最知り難し。請う、諸の学者、取捨心に在るべし。今もし善導に依らば、初めを以て正と為すのみ。

問うて曰く、三輩の業皆念仏と云う。その義然るべし。ただし『観経』の九品と、『寿経』の三輩とは、本これ開合の異なり。もし爾らば何ぞ『寿経』の三輩の中には皆念仏と云い、『観経』の九品に至って初めて上中二品に念仏を説かず。下品に至って始めて念仏を説くや。答えて曰く、これに二の義有り。一には問端に云うがごとく、『双巻』の三輩と、『観経』の九品と、開合の異とは、これを以てまさに知るべし。九品の中に、皆念仏有るべし。云何が知ることを得たる。三輩の中に皆念仏有り。九品の中、盍ぞ念仏無からんや。故に『往生要集』に云く、「問う、念仏の行は、九品の中において、これ何れの品の摂ぞや。答う、もし説のごとく行ぜば、理、上上に当れり。かくのごとくその勝劣に随ってまさに九品を分つべし。然るに『経』に説く所の九品の行業は、これ一端を示す。理、実には無量なり」と。 已上 

故に知んぬ、念仏また九品に通ずべし。二には『観経』の意、初めには広く、定散の行を説いて普く衆機に逗し、後には定散二善を廃して、念仏の一行に帰せしむ。いわゆる「汝好持是語」等の文これなり、その義下につぶさに述べるがごとし。故に知んぬ、九品の行は、ただ念仏に在ることを。
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浄土宗 78

2017-06-25 16:37:45 | 宗教
浄土宗
◇選択集について
 選択集は、建久8年(1197)に現在でいえば「前総理大臣」という立場にあった九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」という切望に応じられ、建久9年(1198)の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。

【選擇本願念佛集】
 法然上人の選擇本願念佛集を読んでみましょう。 原文は漢文で書かれていますが、今回は書き下してあります。
第一 聖道浄土二門篇
第二 雑行を捨てて正行に帰する篇
○第三 念仏往生本願篇
第四 三輩念仏往生篇
第五 念仏利益篇
第六 末法万年に特り念仏を留むる篇
第七 光明ただ念仏の行者を摂する篇
第八 三心篇
第九 四修法篇
第十 化仏讃歎篇
第十一 雑善に約対して念仏を讃歎する篇
第十二 仏名を付属する篇
第十三 念仏多善根遍
第十四 六方諸仏ただ念仏の行者を証誠したまう篇
第十五 六方諸仏護念篇
第十六 弥陀の名号を以て舎利弗に付属したまう篇

≪第三 念仏往生本願篇≫
第三章段
弥陀如来余行を以て往生の本願とせず、ただ念仏を以て往生の本願と為たまえるの文。

『無量寿経』の上に云わく、設し我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずんば正覚をとらじ。

『観念法門』に上の文を引いて云く、もし我れ成仏せんに、十方の衆生、我が国に生ぜんと願じて、我が名字を称すること、下十声に至るまで、我が願力に乗じて、もし生ぜずば正覚を取らじ。

『往生礼讃』に同じく上の文を引いて云く、もし我れ成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称すること、下十声に至るまで、もし生ぜずば正覚を取らじ。彼の仏、今現に世に在して成仏したまえり。まさに知るべし。本誓の重願虚しからず、衆生称念すれば必ず往生することをを得。

私に云く、一切の諸仏各総別二種の願有り。総とは四弘誓願これなり。別とは釈迦の五百の大願、薬師の十二の上願等のごときこれなり。今この四十八願は、これ弥陀の別願なり。

問うて曰く、弥陀如来、何れの時、何れの仏の所において、この願を発したまえるや。
答えて曰く、『寿経』に云わく、「仏阿難に告げたまわく、乃往過去久遠無量不可思議無央数劫に錠光如来、世に興出して、無量の衆生を教化し度脱して、皆得度せしめて、すなわち滅度を取りたまえり。次に如来有ます。名づけて光遠と曰う。 乃至 次を処世と名づく。かくのごときの諸仏 五十三仏なり。 皆ことごとくすでに過ぎたまえり。その時、次に仏有ます。世自在王如来と名づく。時に国王有り。仏の説法を聞いて、意に悦予を懐いて、ついで無上正真の道意を発し、国 を棄て王を捐て、行じて沙門と作り、号して法蔵と曰う。高才勇哲にして世と超異せり。世自在王 如来の所に詣で乃至 ここにおいて世自在王仏すなわち為に広く、二百一十億の諸仏刹土の天人 の善悪国土の粗妙を説いて、その心願に応じて、ことごとく現じてこれを与えたまう。時に彼の比 丘、仏の所説の厳浄の国土を聞き、皆ことごとく覩見して、無上殊勝の願を超発す。その心寂静にして、志所着無く、一切世間に能く及ぶ者無し。五劫を具足して、荘厳仏国清浄の行を思惟し摂取す。阿難仏に白さく、彼の仏の国土の寿量幾何ぞや。仏の言わく、その仏の寿命四十二劫なり。時に法蔵比丘二百一十億の諸仏の妙土の清浄の行を摂取す。」 已上

また『大阿弥陀経』に云わく、「その仏すなわち二百一十億の仏国土の中の諸天人民の善悪国土の好醜を選択し、為に心中所欲の願を選択す。楼夷亙羅仏 ここに世自在王仏と云う 経を説き畢って、曇摩迦 ここに法蔵と云う。 すなわちその心を一らにして、すなわち天眼を得、徹視してことごとく自ら二百一十億の諸仏の国土の中の諸天人民の善悪国土の好醜を見て、すなわち心中の所願を選択して、すなわちこの二十四願の経を結得す。」 『平等覚経』またまたこれに同じこの中に選択とは、すなわちこれ取捨の義なり。謂く、二百一十億の諸仏の浄土の中において、 人天の悪を捨てて、人天の善をとり、国土の醜を捨てて、国土の好を取るなり。『大阿弥陀経』の選択の義かくのごとし。『双巻経』の意また選択の義有り。謂く、二百一十億の諸仏の妙土の清浄の行を摂取すと云えるこれなり。選択と摂取とその言異なりといえども、その意これ同じ。然れば不清浄の行を捨てて、清浄の行を取るなり。上の天人の善悪、国土の粗妙その義また然なり。これに準じてまさに知るべし。

それ四十八願に約して、一往各選択摂取の義を論ぜば、第一に無三悪趣の願とは、覩見する所の二百一十億の土の中において、あるいは三悪趣有るの国土有り、あるいは三悪趣無きの国土有り。すなわち、その三悪趣ある粗悪の国土を選捨して、その三悪趣無き善妙の国土を摂取するが故に選択と云うなり。第二に不更悪趣の願とは、彼の諸仏の土の中において、あるいは国の中に三悪道無しといえども、その国の人天寿終の後、その国より去って、また三悪趣に更るの土有り。あるいは悪道に更らざるの土有り。すなわちその悪道に更る粗悪の国土を選捨して、その悪道に更らざる善妙の国土を選取するが故に選択と云うなり。第三に悉皆金色の願とは、彼の諸の仏の土の中において、あるいは一土の中に黄白二類の人天有るの国土有り。あるいは純黄金色の国土有り。すなわち黄白二類の粗悪の国土を選捨して、黄金一色の善妙の国土を選取するが故に選択と云うなり。第四に無有好醜の願とは、その諸仏の土の中において、あるいは人天の形色好醜不同なるの国土有り。あるいは形色一類にして好醜有ること無きの国土有り。すなわち好醜不同の諸悪の国土を選捨して、好醜有ることなき、善妙の国土を選取するが故に選択と云うなり。乃至第十八の念仏往生の願とは、その諸仏の土の中において、あるいは布施を以て往生の行とするの土有り。あるいは持戒を以て往生の行とするの土有り。あるいは忍辱を以て往生の行とするの土有り。あるいは精進を以て往生の行とするの土有り。あるいは禅定を以て往生の行とするの土有り。あるいは般若を以て 第一義を信ずる等これなり。 往生の行とするの土有り。あるいは菩提心を以て往生の行とするの土有り。あるいは六念を以て往生の行とするの土有り。あるいは持経を以て往生の行とするの土有り。あるいは持咒を以て往生の行とするの土有り。あるいは起立塔像、飯食沙門および孝養父母、奉事師長等の種々の行を以て、各往生の行とするの国土等有り。あるいは専らその国の仏名を称して往生の行とするの土有り。かくのごとく一行を以て一仏の土に配することは、これ且く一往の義なり。再往これを論ぜばその義不定なり。あるいは一仏の土の中に、多行を以て、往生の行とするの土有り。あるいは多仏の土の中に、一行を以て通じて往生の行とするの土有り。かくのごとく往生の行種々不同なり。つぶさに述ぶべからず。すなわち今は前の布施持戒乃至孝養父母等の諸行を選捨して専称仏号を選取す。故に選択と云うなり。且く五の願に約して、略して選択を論ずることその義かくのごとし。自余の諸願はこれに准じてまさに知るべし。

問うて曰く、普く諸願に約するに粗悪を選捨し善妙を選取すること、その理然るべし。何が故ぞ第十八の願に一切の諸行を選捨し、ただ偏に念仏の一行を選取して往生の本願とするや。
答えて曰く、聖意測りがたし、輙く解すること能はず。然りといえども、今試みに二義を以てこれを解せば、一には勝劣の義、二には難易の義なり。
初めに勝劣とは念仏はこれ勝、余行はこれ劣なり。所以何となれば、名号はこれ万徳の帰する所 なり。然ればすなわち弥陀一仏の所有る四智・三身・十力・四無畏等の一切の内証の功徳、相好・ 光明・説法・利生等の一切の外用の功徳、皆ことごとく阿弥陀仏の名号の中に摂在せり。故に名号の功徳最も勝とす。余行は然らず、各一隅を守る。ここを以て劣とす。譬へば世間の屋舎のごとし。その屋舎の名字の中には棟梁椽柱等の一切の家具を摂すれども、棟梁等の一一の名字の中には一切を摂すること能はず。これを以てまさに知るべし。然ればすなわち仏の名号の功徳は余の一切の功徳に勝れたり。故に劣を捨て勝を取って、以て本願としたまうか。 次に難易の義とは、念仏は修し易く、諸行は修し難し。この故に『往生礼讃』に云く、「問うて曰く、何が故ぞ観を作さしめずして、ただちに専ら名字を称せしむるは何の意有るや。答えて曰く、すなわち衆生障重く、境細かく、心粗く、識(風+易アガ)り、神飛びて観成就し難きに由って なり。ここを以て大聖悲憐して、ただちに勧めて専ら名字を称せしむ。正しく称名易きが故に相続してすなわち生ずるに由る」 已上 
また『往生要集』に「問うて曰く、一切の善業各利益有って、各往生を得。何が故ぞただ念仏の一門を勧むるや。答えて曰く、今念仏を勧めることは、これ余の種々の妙行を遮するには非ず。ただこれ男女貴賤行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず。これを修するに難からず。乃至、臨終に往 生を願求するに、その便宜を得ること、念仏に如かず。」 已上
故に知んぬ、念仏は易きが故に一切に通ず。諸行は難きが故に諸機に通ぜず。然ればすなわち、一切衆生をして平等に往生せしめんが為に、難を捨て易を取って本願としたまえるか。
もしそれ造像起塔を以て、本願としたまわば、すなわち貧窮困乏の類は定んで往生の望を絶たん。然るに富貴の者は少なく、貧賤の者ははなはだ多し。もし智慧高才を以て本願としたまわば、愚鈍下智の者は定んで往生の望を絶たん。然るに智慧ある者は少なく、愚癡なる者ははなはだ多し。 もし多聞多見を以て本願としたまわば、少聞少見の輩は定んで往生の望を絶たん。然るに多聞の者は少なく、少聞の者ははなはだ多し。もし持戒持律を以て本願としたまわば、破戒無戒の人は定んで往生の望を絶たん。然るに持戒の者は少なく、破戒の者ははなはだ多し。自余の諸行これに准じ てまさに知るべし。まさに知るべし、上の諸行等を以て本願としたまわば、往生を得る者は少なく、往生せざる者は多からん。然ればすなわち弥陀如来、法蔵比丘の昔、平等の慈悲に催され、普く一切を摂せんが為に、造像起塔等の諸行を以て、往生の本願としたまわず。ただ称名念仏の一行を 以て、その本願としたまえる。

故に法照禅師の、『五会法事讃』に云く、「彼の仏の因中に弘誓を立つ。名を聞いて我れを念ぜば、すべて迎来せん。貧窮と富貴とを簡ばず、下智と高才とを簡ばず、多聞と浄戒を持つとを簡ばず、破戒と罪根の深きとを簡ばず、ただ心を回して多く念仏せしむれば、能く瓦礫をして変じて金と成さしむ。」 已上

問うて曰く、一切の菩薩、その願を立といえども、あるいはすでに成就せる有り。また今だ成就せざる有り。未審し、法蔵菩薩の四十八願はすでに成就したまうとやせん、はたいまだ成就したまわずとやせん。
答えて曰く、法蔵の誓願一一に成就したまえり。何となれば、極楽界中にすでに三悪趣無し。まさに知るべし。これすなわち無三悪趣の願を成就するなり。何を以てか知ることを得たる。すなわち願成就の文にまた地獄、餓鬼、畜生諸難の趣無しと云えるこれなり。また彼の国の人天寿終って 後、三悪趣に更ること無し。まさに知るべし、これすなわち不更悪趣の願を成就するなり。何を以てか知ることを得たる。すなわち願成就の文に、また彼の菩薩乃至成仏まで悪趣に更らずと云えるこれなり。

また極楽の人天すでに以て一人として三十二相を具せざること有ること無し。まさに知るべし、これすなわち具三十二相の願を成就するなり。何を以てか知ることを得たる。すなわち願成就の文に、彼の国に生るる者は皆ことごとく三十二相を具足すと云えるこれなり。かくのごとく初め無三 悪趣の願より終わり得三法忍の願に至るまで、一一の誓願皆以て成就せり。第十八の念仏往生の願、あに孤り以て成就したまわざらんや。然ればすなわち念仏の人皆以て往生す。何を以てか知ることを得たる。すなわち念仏往生の願成就の文に、諸有る衆生その名号を聞いて信心歓喜して、乃至 一念至心に回向して、彼の国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住すと云えるこれなり。

およそ四十八願、浄土を荘厳す。華池宝閣、願力に非ずということ無し。何ぞその中において独り念仏往生の願を疑惑すべきや。如之、一一の願の終わりに、もし爾らずば正覚を取らじと云えり。而るに阿弥陀仏成仏したまいてより已来、今において十劫なり。成仏の誓いすでに以て成就せり 。まさに知るべし、一一の願虚しく設くべからず。故に善導の云く、「彼の仏今現に世に在して成仏したまえり。まさに知るべし、本誓の重願虚しからず、衆生称念ずれば必ず往生を得。」 已上

問うて曰く、『経』に十念と云い『釈』に十声と云う。念声の義云何。答えて曰く、念声はこれ一なり。何を以てか知ることを得たる。『観経』の下品下生に云わく、「声をして絶えざらしめ、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するが故に念念の中において八十億劫の生死の 罪を除く」と。
今この文に依るに、声はこれ念なり、念すなわちこれ声なること、その意明らけし。如之、『大集月蔵経』に云く、「大念は大仏を見、小念は小仏を見る」と。感師釈して云く、「大念とは大声の念仏、小念とは小声の念仏なり」と。故に知んぬ、念すなわちこれ唱なり。

問うて曰く、『経』に乃至と云い、『釈』に下至と云う。その意云何。
答えて曰く、乃至と下至とその意これ一なり。『経』に乃至と云えるは、多より少に向かうの言なり。多とは上一形を尽す。少とは下至十声一声等に至るなり。『釈』に下至と云えるは、下とは 上に対するの言なり。下とは下至十声一声等に至るなり。上とは上一形を尽す。上下相対の文、そ の例これ多し。宿命通の願に云わく、「もし我れ仏を得たらんに、国中の人天宿命を識らずして、 下百千億那由他諸劫の事を知らざるに至らば、正覚を取らじ」と。かくのごとく五神通および光明 寿命等の願の中に、一一に下至の言を置く。これすなわち多より少に至り、下を以て上に対するの義なり。上の八種の願に例するに、今この願の乃至とは、すなわちこれ下至なり。この故に今善導の引釈する所の下至の言、その意相違せず。
ただし善導と諸師と、その意不同なり。諸師の釈には別して十念往生の願と云う。善導独り総じて念仏往生の願と云えり。諸師の別して十念往生の願と云えるは、その意すなわち周からず。然る所以は、上一形を捨て、下一念を捨つるが故。善導の総じて念仏往生の願と云えるは、その意すな わち周し。然る所以は、上一形を取り、下一念を取るが故。
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真宗大谷派 59

2017-04-21 15:56:44 | 宗教
 真宗大谷派
【歴代】
*大谷派における歴代の正式呼称に関する注意
歴代の留守職・法主・門主を「歴代門首」と呼称し、「大谷派御歴代」と総称するのが正式である。
親鸞のみ「宗祖」と呼称、「聖人」と敬称する。
宗祖親鸞以降の歴代は、「第○○代」と漢数字を用いて「代」で呼称し、「第○○世」と呼称しない。敬称は、「上人」を用いる。なお在職中は、「上人」の敬称を付さない。
 例…「第八代 蓮如上人」・「第二十五代 大谷暢顯」
 「※」は、大谷廟堂留守職・本願寺留守職のうち歴代に数えない者と、真宗大谷派門首代行である。
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●教義
「本派の教義は、宗祖親鸞聖人が、佛説無量寿経に基づいて、顕浄土真実教行証文類を撰述して開顕した本願の名号を体とする往還二廻向を要旨とする。」と『宗憲』第8条に定める。
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浄土宗 77

2017-03-27 05:45:28 | 宗教
浄土宗
◇選択集について
 選択集は、建久8年(1197)に現在でいえば「前総理大臣」という立場にあった九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」という切望に応じられ、建久9年(1198)の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。

【選擇本願念佛集】
 法然上人の選擇本願念佛集を読んでみましょう。 原文は漢文で書かれていますが、今回は書き下してあります。
第一 聖道浄土二門篇
○第二 雑行を捨てて正行に帰する篇
第三 念仏往生本願篇
第四 三輩念仏往生篇
第五 念仏利益篇
第六 末法万年に特り念仏を留むる篇
第七 光明ただ念仏の行者を摂する篇
第八 三心篇
第九 四修法篇
第十 化仏讃歎篇
第十一 雑善に約対して念仏を讃歎する篇
第十二 仏名を付属する篇
第十三 念仏多善根遍
第十四 六方諸仏ただ念仏の行者を証誠したまう篇
第十五 六方諸仏護念篇
第十六 弥陀の名号を以て舎利弗に付属したまう篇

≪第二 雑行を捨てて正行に帰する篇≫
善導和尚正雑二行を立てて、しかも雑行を捨てて正行に帰するの文。

『観経の疏』の第四に云く、行に就いて信を立つとは、然るに行に二種有り。一には正行、二には雑行なり。正行と言うは専ら往生経に依って行を行ずる者、これを正行と名づく。何の者か是なる。一心に専らこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦し、一心に専注して、彼の国の二報荘厳を思想し観察し憶念し、もし礼するには、すなわち一心に専ら彼の仏を礼し、もし口称するには、すなわち一心に専ら彼の仏を称し、もし讃歎供養するには、すなわち一心に専ら讃歎供養す。これを名づけて正とす。またこの正の中に就いてまた二種有り。一には一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず、念念に捨てざる者、これを正定の業と名づく。彼の仏の願に順するが故に。もし礼誦等に依るをば、すなわち名づけて助業と為す。この正助二行を除いて已外の自余の諸善をことごとく雑行と名づく。もし前の正助二行を修すれば、心常に親近し憶念して断えざるを、名づけて無間とす。もし後の雑行を行ずれば、すなわち心常に間断す。回向して生ずることを得べしといえども、すべて疏雑の行と名づく。

私に云く、この文に就いて二の意有り。一には往生の行相を明し、二には二行の得失を判す。

初めに往生の行相を明すとは、善導和尚の意に依るに往生の行多しといえども、大に分ちて二と為す。一には正行、二には雑行なり。初めに正行とは、これに付いて開合の二義有り。初めには開して五種とし、後には合して二種とす。初めの開して五種とすとは、一には読誦正行、二には観察正行、三には礼拝正行、四には称名正行、五には讃歎供養正行なり。

第一に読誦正行とは専ら『観経』等を読誦する。すなわち文に、「一心に専らこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦す」と云えるこれなり。

第二に観察正行とは専ら彼の国の依正二報を観察する。すなわち文に、「一心に専注して彼の国の二報荘厳を思想し観察し憶念す」と言えるこれなり。

第三に礼拝正行とは、専ら弥陀を礼する。すなわち文に、「もし礼するには、すなわち一心に専ら彼の仏を礼す」と言えるこれなり。

第四に称名正行とは、専ら弥陀の名号を称する。すなわち文に、「もし口に称するには、すなわち一心に専ら彼の仏を称す」と云えるこれなり。

第五に讃歎供養正行とは、専ら弥陀を讃歎供養する。すなわち文に、「もし讃歎供養するには、すなわち一心に専ら讃歎供養す。これを名づけて正と為す」と云えるこれなり。もし讃歎と供養とを開して二と為せば、六種正行と名づくべし。今合の義に依るが故に五種と言う。

次に合して二種とすとは、一には正業、二には助業なり。初めに正業とは、上の五種の中の第四の称名を以て正定の業とす。すなわち文に、「一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問わず。念念に捨てざる者、これを正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に」と云えるこれなり。次に助業とは、第四の口称を除いて外、読誦等の四種を以て助業とす。すなわち文に、「もし礼誦等に依らば、すなわち名づけて助業とす」と云えるこれなり。

問うて曰く、何が故ぞ、五種の中に独り称名念仏を以て、正定業と為するや。答えて曰く、彼の仏の願に順ずるが故に。意の云く、称名念仏は、これ彼の仏の本願の行なり。故にこれを修する者は、彼の仏の願に乗じて必ず往生することを得る。その仏の本願の義は、下に至って知るべし。

次に雑行とは、すなわち文に、「この正助二行を除いて已外の自余の諸善をことごとく雑行と名づく」と云えるこれなり。意の云く、雑行無量なり。つぶさに述べるに遑あらず。ただし今且く五種の正行に飜対して、以て五種の雑行を明さん。

一には読誦雑行、二には観察雑行、三には礼拝雑行、四には称名雑行、五には讃歎供養雑行なり。第一に読誦雑行とは、上の『観経』等の往生浄土の経を除いて已外の大小乗顕密の諸経において、受持し読誦するを、雑行と名づく。第二に観察雑行とは、上の極楽の依正を除いて已外の大小、顕密、事理の観行、皆ことごとく観察雑行と名づく。第三に礼拝雑行とは、上の弥陀を礼拝するを除いて已外の、一切の諸余の仏菩薩等、および諸の世天等において、礼拝恭敬するを、ことごとく礼拝雑行と名づく。第四に称名雑行とは、上の弥陀の名号を称するを除いて已外の自余の一切の仏菩薩等、および諸の世天等の名号を称するを、ことごとく称名雑行と名づく。

第五に讃歎供養雑行とは、上の弥陀仏を除いて已外の一切の諸余の仏菩薩等および諸の世天等において、讃歎供養するを、ことごとく讃歎供養雑行と名づく。この外にまた布施・持戒等の無量の行有り。皆雑行の言に摂尽すべし。

次に二行の得失を判せば、「もし前の正助二行を修すれば、心常に親近し、憶念して断へざるを名づけて無間と為す。もし後の雑行を行ずれば、すなわち心常に間断す。回向して生ずることを得べしといえども、すべて疎雑の行と名づく」と、すなわちその文なり。この文の意を案ずるに、正雑二行に就いて、五番の相対有り。一には親疎対、二には近遠対、三には有間無間対、四には回向不回向対、五には純雑対なり。

第一に親疎対とは、まず親とは正助二行を修する者は、阿弥陀仏においてはなはだ以て親眤とす。故に『疏』の上の文に云く、「衆生、行を起こして、口常に仏を称すれば、仏すなわちこれを聞きたまう。身常に仏を礼敬すれば、仏すなわちこれを見たまう。心常に仏を念ずれば、仏すなわちこれを知りたまう。衆生仏を憶念すれば、仏また衆生を憶念したまう。彼此の三業相い捨離せず。故に親縁と名づく」と。次に疎とは雑行なり。衆生仏を称せざれば、仏すなわちこれを聞きたまわず。身仏を礼せざれば、仏すなわちこれを見たまわず。心仏を念ぜざれば、仏すなわちこれを知りたまわず。衆生仏を憶念せざれば、仏衆生を憶念したまわず。彼此の三業常に捨離す。故に疎行と名づく。

第二に近遠対とは、まず近とは、正助二行を修する者は、阿弥陀仏においてはなはだ以て隣近とす。故に『疏』の上の文に云く、「衆生仏を見んと願わば、仏すなわち念に応じて、目の前に現在したまう。故に近縁と名づく」と。次に遠とは雑行。衆生仏を見んと願わざれば、仏すなわち念に応ぜず。目の前に現じたまわず、故に遠と名づく。ただし親近の義これ一なるに似たりといえども善導の意分ちて二とす。その旨、『疏』の文に見えたり。故に今引釈する所なり。

第三に無間有間対とは、まず無間とは、正助の二行を修する者は、弥陀仏において憶念間断せず。故に名づけて無間とすと云えるこれなり。次に有間とは、雑行を修する者は、弥陀仏において、憶念常に間断す。故に心常に間断すと云えるこれなり。

第四に不回向回向対とは、正助二行を修する者は、たとい別に回向を用いざれども、自然に往生の業と成る、故に『疏』の上の文に云く、「今この『観経』の中の十声称仏はすなわち十願十行有って具足す。云何が具足する。南無と言うはすなわちこれ帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏と言うはすなわちこれその行なり。この義を以ての故に必ず往生を得」。已上 次に回向とは、雑行を修する者は必ず回向を用うる時。往生の因と成る。もし回向を用いざる時は、往生の因と成らず。故に回向して、生ずることを得べしといえどもと曰えるこれなり。

第五に純雑対とは、まず純とは正助二行を修する者は、純らこれ極楽の行なり。次に雑とは、これ純ら極楽の行に非ず。人天および三乗に通じ、また十方の浄土に通ず。故に雑と云うなり。然れば西方の行者すべからく雑行を捨てて正行を修すべし。

問うて曰く、この純雑の義、経論の中において、その証拠有りや。答えて曰く、大小乗の経律論の中において、純雑の二門を立てること、その例一に非ず。大乗には、すなわち八蔵の中において、雑蔵を立つ。まさに知るべし。七蔵はこれ純、一蔵はこれ雑なり。小乗にはすなわち四含の中において、雑含を立つ。まさに知るべし。三含はこれ純、一含はこれ雑なり。

律にはすなわち二十(ケン=牛+建)度を立てて、以て戒行を明す。その中に前の十九はこれ純、後の一はこれ雑(ケン)度なり。論にはすなわち八(ケン)度を立てて、諸法の性相を明す。前の七(ケン)度はこれ純、後の一はこれ雑(ケン)度なり。『賢聖集』の中の唐宋両伝には、十科の法を立てて、高僧の行徳を明す。その中に前の九はこれ純、後の一はこれ雑科なり。乃至『大乗義章』に五聚法門有り。

前の四聚はこれ純、後の一はこれ雑聚なり。また顕教のみに非ず、密教の中に純雑の法有り。謂く『山家の仏法血脈の譜』に云く、「一には胎蔵界の曼陀羅血脈の譜一首、二には金剛界の曼陀羅血脈の譜一首、三には雑曼陀羅の血脈の譜一首、前の二首はこれ純、後の一首はこれ雑なり。純雑の義多しといえども、今略して小分を挙ぐるのみ。まさに知るべし。純雑の義、法に随って不定なり。

これに因って今善導和尚の意、且く浄土の行において、純雑を論ずる。またこの純雑の義、内典のみかぎらず。外典の中に、その例はなはだ多し。繁きを恐れて出さず。ただし往生の行において、二行を分つこと善導一師に限らず。もし道綽禅師の意に依らば、往生の行多しといえども、束ねて二とす。一には謂く念仏往生、二には謂く万行往生。もし懐感禅師の意に依らば、往生の行多しといえども束ねて二とす。一には謂く念仏往生、二には謂く諸行往生なり。慧心これに同じかくのごときの三師各二行を立てて往生の行を摂すること、はなはだその旨を得たり。自余の諸師は然らず。行者まさにこれを思うべし。

『往生礼讃』に云く、もし能く上のごとく念念相続して、畢命を期とする者は、十はすなわち十生じ、百はすなわち百生ず。何を以ての故に。外の雑縁無く、正念を得るが故に。仏の本願と相応することを得るが故に。教に違わざるが故に。仏語に隨順するが故なり。もし専を捨て、雑業を修せんと欲する者は、百時希に一二を得、千時希に五三を得。何を以ての故に。すなわち雑縁乱動して、正念を失うに由るが故に。仏の本願と相応せざるが故に。教と相違するが故に。仏語に順ぜざるが故に。係念相続せざるが故に。憶想間断するが故に。回願慇重真実ならざるが故に。貧瞋諸見の煩悩、来って間断するが故に。慚愧懺悔の心有ること無きが故に。また相続して彼の仏恩を念報せざるが故に。心に軽慢を生じて、業行を作すといえども、常に名利と相応するが故に。人我自ら覆うて、同行善知識に親近せざるが故に。楽うて雑縁に近づいて、往生の正行を自障障他するが故なり。

何を以ての故に。余このごろ自ら諸方の道俗を見聞するに、解行不同にして専雑異なり有り。ただ意を専らにして、作さしめる者は、十はすなわち十生ず。雑を修して至心ならざる者は、千の中に一も無し。この二行の得失前にすでに弁ずるがごとし。仰ぎ願わくは一切の往生人等、善く自ら思量せよ。すでに能く今身に彼の国に生ぜんと願ずる者は、行往坐臥必ずすべからく心を励まし己を剋めて、昼夜に廃すること莫く、畢命を期とすべし。上一形に在るは、少苦なるに似たれども、前念に命終して、後念にすなわち彼の国に生れて、長時永劫に常に無為の法楽を受く。乃至成仏まで生死を経ず。あに快きに非ずや。まさに知るべし。

私に云く、この文を見るに、いよいよすべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。行者能くこれを思量せよ。
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