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雑記帳

豊田市在住 あきたんの日記風ブログ 様々なジャンルのブログです。

お盆 お参り

2019-08-15 06:50:03 | 宗教
 18:00-18:40 常行院(浄土宗)
◇☂がぱらつく中、結構大勢の方がお参りに見えました。
 盆供養ですからね。
*お盆とは、正式名称を「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と言い、故人の霊魂(たましい)が
あの世と呼ばれている浄土からこの世(現世)に戻ってこられる期間のことを言います。
お盆の期間には、亡くなった家族やご先祖様の精霊(しょうりょう)をお迎えし、供養をします。
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お盆 お参り

2019-08-14 16:01:09 | 宗教
 17:00-18:00 常行院
◇常行院にて、お盆のお参りがあります。
例年ですと、大勢の参拝者が集まりますが、
今日は、台風の影響もあります。
☂も心配ですしね。どれだけの人が
集まってきますかね。
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真宗大谷派 62 

2019-07-13 16:46:07 | 宗教
 真宗大谷派
【歴代】
*大谷派における歴代の正式呼称に関する注意
歴代の留守職・法主・門主を「歴代門首」と呼称し、「大谷派御歴代」と総称するのが正式である。
親鸞のみ「宗祖」と呼称、「聖人」と敬称する。
宗祖親鸞以降の歴代は、「第○○代」と漢数字を用いて「代」で呼称し、「第○○世」と呼称しない。敬称は、「上人」を用いる。なお在職中は、「上人」の敬称を付さない。
 例…「第八代 蓮如上人」・「第二十五代 大谷暢顯」
 「※」は、大谷廟堂留守職・本願寺留守職のうち歴代に数えない者と、真宗大谷派門首代行である。
------------------------------------------------------------------------------------------------
●宗会
 「宗会」は、大谷派の最高議決機関であり、すべての予算、決算、条例案などを議決する。また、宗務総長を指名する(門首が認証する)。「宗議会」と、「参議会」の両議院で構成する。宗議会には、参議会に対する宗議会の優越が宗憲で定められている。
 宗議会は、各教区の僧侶から選出される議員(65人以内)で組織する。宗議会には、その議長、副議長及び宗議会で互選した者の合計10人の参与会員で組織する参与会が置かれている。
 参議会は、各教区の門徒から選出される議員(65人以内)で組織する。参議会には、その議長、副議長及び参議会で互選した者の合計10人の常務会員で組織する常務会が置かれている。
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浄土宗 94

2019-03-11 00:02:31 | 宗教
 浄土宗
◇浄土宗の法話:2017年01月

「仏の大慈悲に照らされて」

 新聞の投書欄に「胎児に座席を譲った男の子」という一文が掲載されていました。
 満員電車に妊婦さんが乗って来られて、おばあさんと並んで座っていた五歳ぐらいの男の子が突然妊婦さんに駆け寄り、「座りや」と席を譲ろうとしたのです。妊婦さんは「おばちゃんは大丈夫、ぼく座っとき」と応じました。すると男の子は、「おばちゃんが座るのと違う、お腹の赤ちゃんが座るんや」。これを聞いた妊婦さんは涙を流して、声を詰まらせながら、「ありがとう ありがとう」と座りました。男の子はおばあちゃんの膝の上に座り、仲良く三人で楽しそうにしていました。一連の動きを見ながら、車内は和やかな雰囲気に包まれました。妊婦さんはおそらく、お腹の子どももこんな子に育って欲しいなぁと願ったのだろうと思いました。この記事を読んで慈悲心の大切さを改めて教えられました。

 自分の事しか考えない人 自分の事として考える人

 似てるけど 全然違うんだなぁ (相田みつを)

 「慈悲」の「慈」とは相手に喜びや安楽を与え心豊かにする。「悲」とは相手の痛みに共感し、この苦しみをなんとか取り除いてあげたいと願う心であります。

 『観無量寿経』の中に「仏心とは大慈悲これなり」と説かれています。すべての人々に分け隔てなく慈しむ無縁(縁のあるなしに関係ない、すべてを対象とした)のお慈悲が仏様なのです。慈悲の漢字を四文字に変えると「玆心非心」(この心、心にあらず)自分の心を中心とするのではなく、相手の心を心として生きる。私たちは自分中心に生きています。慈悲心のある方でも、有縁の少悲しか起こせない。有縁の少悲とは、関係のある者、縁のある人に向く慈悲であります。

 阿弥陀様が届けて下さる慈悲は「無縁の大慈悲」であります。

 大いなるお慈悲に包まれていることに気づき、一人も漏らさずに救いたいとの阿弥陀様の願いにおすがりし、阿弥陀様のみ名をお称えするしかない私たちです。

合掌

 大阪教区 大江組 稱念寺 葭間弘淳
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浄土宗 93

2019-02-04 06:35:50 | 宗教
 浄土宗
◇浄土宗の法話:2016年12月
「ありがたい」と「あたりまえ」
●あなたは「ありがとう」の反対語を知ってますか?
 先日、こんな書き込み記事がありました。う~ん…と思いながら続きを見ると、『ありがとうの反対語など今まで考えたこともなかった。教えてもらった答えは…「あたりまえ」。「ありがとう」は漢字で書くと「有難う」「有難(ありがた)し」という意味だ。あることがむずかしい、まれである。めったにない事にめぐりあう。すなわち、奇跡ということだ。奇跡の反対は、「当然」とか「当たり前」。我々は毎日起こる出来事を、当たり前だと思って過ごしている。(中略) 毎朝目覚めるのが、あたりまえ。食事ができるのが、あたりまえ。息ができるのが、あたりまえ。友達といつも会えるのが、あたりまえ。太陽が毎朝昇るのが、あたりまえ。うまれてきたのが、あたりまえ。夫(妻)が毎日帰ってくるのが、あたりまえ。そして…生きているのが、あたりまえ。』と書かれていました。
 読み終えて思い出したことがありました。
お父様とお母様の命日に必ずお参りされる方が、命日ではない日に訪ねて来たので、私が「何かありましたか?」と尋ねると、「今日は、父と母にあやまりに来ました。」と言うので「ええっ?」と声を出すと、「来週、白内障の手術を受けることになったので…」と。私は「手術を受けるのに何故あやまるのですか?」と伺いました。すると、両手を広げて仁王立ちになり、「だってそうでしょ。この身体のどれ一つも自分で作ったものは無くて、両親からいただいた身体でしょ。そのいただいた身体に傷をつけちゃうのだから、あやまります。」と言って本堂に上がると、「阿弥陀様、父母にごめんなさいと伝えてください。それから、私が死んだら必ず迎えに来てください、直接、話したいので…」と言って、お十念をお称えしてお墓へと向かいました。その後ろ姿は、「両親が生んでくれた、自分の身体に感謝しましょう!」と語っているように見えました。
 お釈迦様は、「人の生を受くるはかたく やがて死すべきものの いま生命あるはありがたし 仏法を耳にするは難かたく 諸仏の世に出づるもありがたし」と説かれています。生きていることはあたりまえではなく、ありがたいことなのです。「死す」ことがあたりまえなのです。そして「死す」前に極楽浄土に往き生まれることができるお念仏のみ教えをいただき、阿弥陀様に会うことができることは、欲や瞋りや迷いを消すことのできない私たちにとって、奇跡といえるほどありがたいことなのです。そのみ教えを示してくださった法然上人は、「阿弥陀佛と 十声とこえとなえて まどろまん ながきねぶりに なりもこそすれ」(「ねぶり」とは「眠り」のこと)と詠まれ、翌朝は目が覚めないかもしれないと、命の終わりがいつきてもいいようにお十念をお称えされていたのです。私たちも「あたりまえ」と考えがちな「ありがたい」ことに気づき、感謝の気持ちを忘れず、「あたりまえ」である命の終わりが来た時に、阿弥陀様やたくさんの菩薩様、ご先祖様に迎えに来ていただけるようにお念仏をお称えする日暮らしをしていきましょう。

合掌

埼玉教区 第三組 法性寺 酒井宏典
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浄土宗 92

2019-01-17 06:36:06 | 宗教
 浄土宗
◇浄土宗の法話:2016年11月
「旅支度を整える」
 秋の行楽シーズンを迎えました。旅に出るのは楽しいものですが、遠く見知らぬところへ行くとなると、不安や心配もあります。信頼のできる旅行社に手配を任せて、必要な旅支度を整えれば、あとは安心して楽しい旅の始まりを待つばかりです。
 人生の旅路も必ず終わりが訪れ、いつか見ず知らずの不安に満ちた世界へ旅立たねばなりません。今のうちにしっかりと、次に生まれ行く先を定め、その旅支度を整えておけば安心です。
 住職になって間もない頃の事、こんな出来事がありました。それは、本堂で月例の行事が終わって、それぞれ皆さん帰って行かれたのですが、一人の方が駆け戻ってきて「和尚さん、大変やあ」というのです。「さようなら」と、いつものように挨拶をして帰って行かれた一人の方が、並んで歩いておられた方に寄り掛かる様に倒れてきたのでした。駆け付けたご主人に抱きかかえられ、救急車を待ち、病院へと運ばれました。
 この方のおうちは、ご主人と、この方の実の母親と3人暮らしでした。お母さんは熱心なお念仏の信者で、高齢になり、我が娘であるこの方にお寺参りを引き継いでいたのでした。
 どうしておられるのか、何の連絡もないままに心配が募るばかりです。連絡がないということは、頑張っておられるからだろうと思いつつも、お母さんのことも気がかりでした。そして、3日目の朝、ついに知らせがありました。枕経に来てほしいとのことです。支度を整え向かいましたが、お母さんに何と声を掛けたらいいのか、頭の中は迷いの中に答えを見つけられずにいました。玄関を入るなり、お母さんが奥から飛び出してきて私の手をギュッと握りました。私はもうパニックで頭の中は真っ白になりました。
 その時です。「うちの子は幸せでした」、思いもかけない言葉に、こちらが助けられました。「あの子はお寺が大好きで、いつもお念仏を唱えていました。その子がお寺でお念仏を申したその清らかなままにお迎えを戴いたのですから、こんな幸せな子はありません」
 別れの悲しみの涙は目に溢れていましたが、親子共々に、しっかりと極楽浄土へと生まれ行く旅支度を整えておられたからこその受け取りでありましょう。
 真のお念仏信仰のありがたさ、尊さ、悦びに出会った瞬間でした。
 五重相伝や授戒会等の機会に恵まれましたら、ぜひともお受けになり、お念仏信仰を体得され、人生の旅支度を整えておかれます事をお勧めいたします。
   「後の世もこの世もともに南無阿弥陀仏 佛まかせの身こそ安けれ」
合掌
和歌山教区西牟婁組 来迎寺  榎本了示
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浄土宗 91

2019-01-12 15:21:59 | 宗教
 浄土宗
◇選択集について
 選択集は、建久8年(1197)に現在でいえば「前総理大臣」という立場にあった九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」という切望に応じられ、建久9年(1198)の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。

【選擇本願念佛集】
 法然上人の選擇本願念佛集を読んでみましょう。 原文は漢文で書かれていますが、今回は書き下してあります。
第一 聖道浄土二門篇
第二 雑行を捨てて正行に帰する篇
第三 念仏往生本願篇
第四 三輩念仏往生篇
第五 念仏利益篇
第六 末法万年に特り念仏を留むる篇
第七 光明ただ念仏の行者を摂する篇
第八 三心篇
第九 四修法篇
第十 化仏讃歎篇
第十一 雑善に約対して念仏を讃歎する篇
第十二 仏名を付属する篇
第十三 念仏多善根遍
第十四 六方諸仏ただ念仏の行者を証誠したまう篇
第十五 六方諸仏護念篇
●第十六 弥陀の名号を以て舎利弗に付属したまう篇
≪第十六章段≫
●釈迦如来弥陀の名号を以て慇懃に舎利弗等に付属したまうの文
 『阿弥陀経』に云わく。仏この『経』を説き巳りたまうに、舎利弗および諸の比丘、一切世間の天人阿修羅等、仏の所説を聞いて歓喜信受し、礼を作して去りぬ。 善導の『法事讃』に、この文を釈して云く、世尊説法の時まさに了らんとす。慇懃に弥陀の名を付属したまう。五濁増の時、疑謗多く、道俗相い嫌ってて聞くことを、用いず。修行すること有るを見ては、嗔毒を起し。方便破壊して競って怨を生ず。かくのごときの生盲闡提の輩、頓教を毀滅して、永く沈淪せん。大地微塵劫を超過すとも、いまだ三途の身を離れることを得べからず。大衆同心に、皆所有る破法罪の因縁を懺悔せよ。
 私に云く、およそ三経の意を案ずるに、諸行の中に念仏を選択して以て旨帰と為す。まず『双巻経』の中に三の選択有り。一には選択本願、二には選択讃歎、三には選択留教なり。一に選択本願とは、念仏はこれ法蔵比丘、二百一十億の中において、選択したまう所の往生の行なり。細しき旨上に見えたり。故に選択本願と云う。二に選択讃歎とは、上の三輩の中に菩提心等の余行を挙ぐといえども、釈迦すなわち余行を讃歎せず、ただ念仏において、讃歎して無上功徳と云う。故に選択讃歎云う。三に選択留教とは、また上に余行諸善を挙ぐといえども、釈迦選択して、ただ念仏の一法を留む。故に選択留教と云う。
 次に『観経』の中にまた三の選択有り。一には選択摂取、二には選択化讃、三には選択付属なり。一に選択摂取とは、『観経』の中に定散の諸行を説くといえども、弥陀の光明ただ念仏の衆生を照して、摂取して捨てたまわず。故に選択摂取云う。二に選択化讃とは、下品上生の人、聞経と称仏との二行有りといえども、弥陀の化仏、念仏を選択して、「汝、仏名を称するが故に諸罪消滅す、我れ来って汝を迎う」と云う。故に選択化讃と云う。三に選択付属とは、また定散の諸行を明すといえども、ただ独り念仏の一行を付属す。故に選択付属と云う。
 次に『阿弥陀経』の中に一の選択有り。いわゆる選択証誠なり。すでに諸経の中において、多く往生の諸行を説くといえども、六方の諸仏、彼の諸行において証誠せず。この『経』の中に念仏往生を説きたまうに至って、六方恒沙の諸仏、各舌を舒べて大千に覆い、誠実の語を説いてこれを証誠したまう。故に選択証誠と云う。加之、『般舟三昧経』の中に、また一の選択有り。いわゆる選択我名なり。弥陀自ら説いて言わく、「我が国に来生せんと欲せん者はの、常に我が名を念じて休息せしむること莫れ」と。故に選択我名と云う。本願と摂取と我名と化讃と、この四はこれ弥陀の選択なり。讃歎と留教と付属と、この三はこれ釈迦の選択なり。証誠は六方恒沙諸仏の選択なり。然ればすなわち、釈迦、弥陀および十方の各恒沙等の諸仏、同心に念仏の一行を選択したまう。余行は爾らず、故に知んぬ。三経ともに念仏を選んで、以て宗致とするのみ。計れば、それ速やかに生死を離れんと欲せば、二種の勝法の中には、且く聖道門を閣いて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲せば、正雑二行の中には、且く諸の雑行を抛って、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲せば、正助二業の中には、なお助業を傍にし、選んで正定を専らにすべし。正定の業とは、すなわちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、必ず生ずることを得。仏の本願に依るが故なり。
 問うて曰く、華厳・天台・真言・禅門・三論・法相の諸師、各浄土法門の章疏を造る。何ぞ彼等の師に依らずして、ただ善導一師を用いるや。 答えて曰く、彼等の諸師、各皆浄土の章疏を造るといえども、しかも浄土を以て宗と為さず。ただ聖道を以てその宗と為す。故に彼等の諸師に依らざるなり。善導和尚は偏に浄土を以て宗と為て、しかも聖道を以て宗と為たず。故に偏に善導一師に依るなり。
 問うて曰く、浄土の祖師その数また多し。謂く弘法寺の迦才・慈愍三蔵等これなり。何ぞ彼等の諸師に依らずして、ただ善導一師を用いるや。 答えて曰く、これ等の諸師、浄土を宗とすといえども、いまだ三昧を発さず。善導和尚はこれ三昧発得の人なり。道においてすでにその証有り。故に且くこれを用う。
 問うて曰く、もし三昧発得に依らば、懐感禅師もまたこれ三昧発得の人なり。何ぞこれを用いざる。 答えて曰く、善導はこれ師なり。懐感はこれ弟子なり。故に師に依って弟子に依らず。いわんや師資の釈その相違はなはだ多し。故にこれを用いず。
 問うて曰く、もし師に依って弟子に依らずんば、道綽禅師はこれ善導和尚の師なり。そもそもまた浄土の祖師なり。何ぞこれを用いざる。 答えて曰く、道綽禅師はこれ師なりといえども、いまだ三昧を発さず。故に自ら往生の得否を知らず。「善導に問うて曰く、道綽念仏す往生を得んや否や。導、一茎の蓮花を弁じてこれを仏前に置かしめ、行道七日せんに花萎忰せずんば、すなわち往生を得んと。これに依って七日するに、果然として花萎黄せず。綽その深詣を歎ず。入定して、生ずることを得べきや否やを観ぜんことを請うに因って、導、すなわち定に入て、須臾に報じて曰く、師まさに三罪を懺すべし。まさに往生すべし。一には師、かつて仏の尊像を安じて檐(ヨウ=片+庸)の下に在き、自らは深房に処る。二には出家の人を駆使策役す。三には屋宇を営造して蟲命を損傷す。師、宣しく十方仏の前において第一の罪を懺じ、四方僧の前において第二の罪を懺じ、一切衆生の前において第三の罪を懺ずべし。綽公、静に往咎を思うに、皆曰うこと虚しからず。ここにおいて心を洗って侮謝し訖って導に見ゆ。すなわち曰く、師の罪滅しぬ。後まさに白光有って照燭すべし。これ師の往生の相なり」。 已上『新修徃生伝』。
 ここに知んぬ。善導和尚は行、三昧を発して、力、師位に堪えたり。解行、凡に非ざること、まさにこれ暁けし。いわんやまた時の人の諺に曰く、「仏法東行より已来、いまだ禅師のごとき盛徳有らず」。絶倫の誉、得て称すべからざる者か。加之、『観経』の文疏を條録するの刻、すこぶる霊瑞を感じ、しばしば聖化に預れり。すでに聖の冥加を蒙って、しかも、『経』の科文を造る。世を挙げて証定の疏と称し、人これを貴ぶこと、仏の経法のごとし。 すなわち彼の『疏』の第四巻の奥に云く、「敬って一切有縁の知識等に白す。余はすでにこれ生死の凡夫、智惠浅短なり。然るに仏教幽微なれば、あえて輙すく異解を生ぜず。ついにすなわち心を標し願を結んで霊験を請求して、まさに心を造すべし。南無帰命、尽虚空遍法界の一切の三宝、釈迦牟尼仏、阿弥陀仏、観音勢至、彼の土の諸菩薩大海衆および一切の荘厳相等、某この『観経』の要義を出して、古今を楷定せんと欲す。もし三世の諸仏、釈迦仏、阿弥陀仏等の大悲の願意に称わば、願わくば夢の中において、上の所願の如きの一切の境界諸相を見ることを得んと。仏像の前において願を結し已って、日別に『阿弥陀経』を誦すること三遍、阿弥陀仏を念ずること三万遍、至心に発願す。すなわち当夜において見らく、西方の空中に、上のごときの諸相の境界ことごとく皆顕現す。雑色の宝山、百重千重、種種の光明、下、地を照して、地、金色のごとし。中に諸仏菩薩有り。あるいは坐し、あるいは立し、あるいは語し、あるいは黙し、あるいは身手を動かし、あるいは住して動ぜざる者有り。すでにこの相を見て、合掌立観す。やや久しくてすなわち覚む。覚め已って欣喜に勝えず。ここにすなわち義門を條録す。これより已後、毎夜夢中に常に一僧有って、来って玄義科文を指授す。すでに了りぬれば、更にまた見えず。後時脱本し竟已って、また更に至心に七日を要期して、日別に『阿弥陀経』を誦すること十遍、阿弥陀仏を念ずること三万遍、初夜、後夜に、彼の仏の国土の荘厳等の相を観相し、誠心に帰命すること、一ら上の法のごとくす。当夜にすなわち三具の磴輪道の辺に独り転ずるを見る。たちまち一人の白き駱駝に乗ずる有り。来たり前んで師に勧め見る。まさに努力めて決定往生すべし。退転を作すこと莫れ。この界は穢悪にして苦多し、貧楽を労せざれと。答えて言く、大いに賢者好心の視誨を蒙る。某し畢命を期と為て。あえて懈慢の心を生ぜずと。 云云 第二の夜に見らく、阿弥陀仏の身、真金色にして、七宝樹の下、金蓮華の上に在して坐したまう。十僧囲繞して、また各一の宝樹の下に坐せり。仏樹の上に、すなわち天衣有って挂り遶れり。面を正し西に向って、合掌して坐して観る。第三の夜に見らく、両の憧杆、極めて大いに高く顕れ、幡懸って五色なり。道路縦横にして、人観るに礙り無し。すでにこの相を得已って、すなわち休止して七日に至らず。上来所有の霊相は、本心、物の為にして己身の為にせず。すでにこの相を蒙れり。あえて隠蔵せず。謹みて以て義の後に申呈して、聞を末代に被むらしむ。願わくば含霊、これを聞いて信を生じ、有識の覩る者をして、西に帰せしめんことを。この功徳を以て衆生に回施す。ことごとく菩提心を発して、慈心をもって相い向い、仏眼をもって相い看て菩提まで眷属し、真の善知識と作って、同じく浄国に帰してともに仏道を成ぜん。この義すでに証を請うて定め竟んぬ。一句一字、加減すべからず。写さんと欲する者は、一ら経法のごとくせよ。まさに知るべし」。 已上
 静に以れば、善導の『観経の疏』は、これ西方の指南、行者の目足なり。然ればすなわち、西方の行人、必ずすべからく珍敬すべし。中に就いて毎夜夢中に僧有って玄義を指授す。僧は恐らくはこれ弥陀の応現ならん。爾らば謂うべし。この『疏』はこれ弥陀の伝説なりと。何にいわんや、大唐相い伝えて云く、「善導はこれ弥陀の化身なり」と。爾らば謂うべし。またこの文はこれ弥陀の直説なりと。すでに写さんと欲する者は、一ら経法のごとくせよと云えり。この言は誠なるかな。仰いで本地を討ぬれば、四十八願の法王なり。十劫正覚の唱え、念仏に憑有り。俯して垂跡を訪えば、専修念仏の導師なり。三昧正受の語は、往生に疑い無し。本迹異なりといえども、化導これ一なり。
 ここにおいて貧道、昔この典を披閲してほぼ素意を識り、立ちどころに余行を舎てて、ここに念仏に帰す。それより已来、今日に至るまで、自行化他ただ念仏を縡とす。然る間、希に津を問う者には、示すに西方の通津を以てし、たまたま行を尋ぬる者には、誨えるに念仏の別行を以てす。これを信ずる者は多く、信ぜざる者は尠し。まさに知るべし。浄土の教、時機を叩いて行運に当り、念仏の行、水月を感じて昇降を得たり。而るに今図らざるに仰を蒙る。辞謝するに地無し。仍って今憖に念仏の要文を集め、剰え念仏の要義を述ぶ。ただ命旨を顧みて不敏を顧みず。これすなわち無慙無愧のはなはだしきなり。庶幾わくは一たび高覧を経てのち、壁底に埋めて窓前に遺すこと莫れ。恐らくは破法の人をして、悪道に堕せしめんことを。
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浄土宗 90

2019-01-05 06:28:27 | 宗教
 浄土宗
◇選択集について
 選択集は、建久8年(1197)に現在でいえば「前総理大臣」という立場にあった九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」という切望に応じられ、建久9年(1198)の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。

【選擇本願念佛集】
 法然上人の選擇本願念佛集を読んでみましょう。 原文は漢文で書かれていますが、今回は書き下してあります。
第一 聖道浄土二門篇
第二 雑行を捨てて正行に帰する篇
第三 念仏往生本願篇
第四 三輩念仏往生篇
第五 念仏利益篇
第六 末法万年に特り念仏を留むる篇
第七 光明ただ念仏の行者を摂する篇
第八 三心篇
第九 四修法篇
第十 化仏讃歎篇
第十一 雑善に約対して念仏を讃歎する篇
第十二 仏名を付属する篇
第十三 念仏多善根遍
第十四 六方諸仏ただ念仏の行者を証誠したまう篇
●第十五 六方諸仏護念篇
第十六 弥陀の名号を以て舎利弗に付属したまう篇
≪第十五章段≫
六方の諸仏念仏の行者を護念したまうの文
 『観念法門』に云く、また『弥陀経』に説くがごとき、もし男子女人有って、七日七夜および一生を尽して、一心に専ら阿弥陀仏を念じて往生を願ずれば、この人常に六方恒河沙等の仏、ともに来って護念したまうことを得るが故に『護念経』と名づく。『護念経』という意は、また諸悪鬼神をして得せしめず。また横病横死、横に厄難有ること無く、一切の災障、自然に消散す。不至心を除く。 『往生礼讃』に云く、もし仏を称して往生する者は、常に六方恒河沙等の諸仏の為に護念せらるるが故に『護念経』と名づく。今すでにこの増上の誓願の憑むべき有り。諸の仏子等、何ぞ意を励まして去らざるや。
 私に問うて曰く、ただ六方の如来のみ有って、行者を護念するや如何。
 答えて曰く、六方の如来に限らず、弥陀、観音等、また来って護念したまう。故に『往生礼讃』に云く、「『十往生経』に云く、もし衆生有って、阿弥陀仏を念じて往生を願すれば、彼の仏すなわち二十五の菩薩を遣して、行者を擁護せしむ。もしは行、もしは坐、もしは住、もしは臥、もしは昼、もしは夜、一切の時、一切の処に、悪鬼悪神をしてその便を得せしめず。また『観経』に云うがごとき、もし阿弥陀仏を称礼念じて彼の国に往生せんと願ずれば、彼の仏すなわち無数の化仏、無数の化観音勢至菩薩を遣して、行者を護念す。また前の二十五の菩薩等とともに、百重千重に行者を囲繞して、行住坐臥、一切の時処を問わず、もしは昼、もしは夜、常に行者を離れたまわず。今すでにこの勝益の憑むべき有り。願わくは諸の行者、各すべからく至心に往くことを求むべし。」 また『観念法門』に云く、「また『観経』の下の文のごときは、もし人有って、至心に常に阿弥陀仏および二菩薩を念ずれば、観音勢至、常に行人の与に勝友知識と作って隨逐影護す。」
 また云く、「また『般舟三昧経』の行品の中に説いて云うがごとく、仏の言わく、もし人専らこの念弥陀仏三昧を行ずれば、常に一切の諸天および四天大王、龍神八部、随逐影護し、愛楽相見することを得て、永く諸の悪鬼神・災障厄難、横に悩乱を加えること無し。つぶさには護持品の中に説くがごとし。」また云く、「三昧の道場に入るを除いて、日別に弥陀仏を念ずること一万して、畢命相続する者は、すなわち弥陀の加念を蒙り、罪障を除くことを得。また仏と聖衆と、常に来って護念したまうことを蒙る。すでに護念を蒙れば、すなわち延年転寿を得。」
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年賀 ~常行院~

2019-01-01 21:49:30 | 宗教
 8:00-8:30 常行院
◇年頭のあいさつを行いました。
今年もよろしくお願いします。
おやおや、氷柱ができてました。
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除夜の鐘

2019-01-01 07:06:48 | 宗教
 11:45~ 常行院
◇除夜の鐘が鳴らされます。
除夜の鐘の由来
● 除夜の鐘をつく理由は、人の心にある煩悩を祓うためと言われています。
仏教では、人には百八つの煩悩(=ぼんのう)があると考えられてきました。その煩悩を祓うためにつく除夜の鐘の回数は108回とされています。
煩悩とは、人の心を惑わせたり、悩ませ苦しめたりする心のはたらきのことを言います。
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浄土宗 89

2018-12-29 06:04:51 | 宗教
 浄土宗
◇選択集について
 選択集は、建久8年(1197)に現在でいえば「前総理大臣」という立場にあった九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」という切望に応じられ、建久9年(1198)の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。

【選擇本願念佛集】
 法然上人の選擇本願念佛集を読んでみましょう。 原文は漢文で書かれていますが、今回は書き下してあります。
第一 聖道浄土二門篇
第二 雑行を捨てて正行に帰する篇
第三 念仏往生本願篇
第四 三輩念仏往生篇
第五 念仏利益篇
第六 末法万年に特り念仏を留むる篇
第七 光明ただ念仏の行者を摂する篇
第八 三心篇
第九 四修法篇
第十 化仏讃歎篇
第十一 雑善に約対して念仏を讃歎する篇
第十二 仏名を付属する篇
第十三 念仏多善根遍
●第十四 六方諸仏ただ念仏の行者を証誠したまう篇
第十五 六方諸仏護念篇
第十六 弥陀の名号を以て舎利弗に付属したまう篇
≪第十四章段≫
 六方諸仏ただ念仏の行者を証誠したまう篇
第十四章段
 六方恒沙の諸仏余行を証誠せず、ただ念仏を証誠したまうの文
 善導の『観念法門』に云く、また『弥陀経』に云うがごとき、六方に各恒沙等の諸仏有して、皆舌を舒べて遍く三千世界に覆って、誠実の言を説たまう。もしは仏の在世、もしは仏の滅後の一切造罪の凡夫、ただ回心して阿弥陀仏を念じて、浄土に生ぜんと願ずれば、上百年を尽し、下七日一日十声三声一声等に至るまで、命終らんと欲する時、仏聖衆とともに、自ら来って迎接し、すなわち往生を得せしむ。上のごときの六方等の仏の舒舌は、定んで凡夫の為に証を作し、罪滅して生ずることを得せしむ。もしこの証に依って生ずることを得ざれば、六方諸仏の舒舌、一たび口を出でて已後、ついに口に還り入らずして、自然に壊爛せんとなり。
 同じく『往生礼讃』に『阿弥陀経』を引いて云く、東方に恒河沙のごとき等の諸仏、南西北方および上下一一の方に恒河沙のごとき等の諸仏、各本国において、その舌相を出して、遍く三千大千世界に覆って、誠実の言を説きたまう。汝等衆生皆まさにこの一切諸仏諸護念経を信ずべし。云何か護念と名づく。もし衆生有って、阿弥陀仏を称念すること、もしは七日および一日、下十声乃至一声一念等に至るまで必ず往生を得。この事を証誠す。故に『護念経』と名づく。
 また云く、六方の如来、舌を舒べて証す。専ら名号を称すれば、西方に至る。かしこに到って華開いて妙法を聞けば、十地の願行自然に彰わる。
 同じく『観経の疏』に『阿弥陀経』を引いて云く、また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんことを恐畏して、すなわちともに同心同時に、各舌相を出して、遍く三千世界に覆って、誠実の言を説きたまう。汝等衆生、皆まさにこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問わず、ただ能く上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心に専ら、弥陀の名号を念ずれば、定んで往生を得、必ず疑い無しと。
 同じく『法事讃』に云く、心心念仏して疑いを生ずること莫れ。六方の如来、不虚を証す。三業専心にして雑乱無ければ、百宝の蓮華、時に応じて見わる。
 法照禅師の、『浄土五会法事讃』に云く万行の中に急要たり迅速なること、浄土門に過ぎたるは無し。ただ本師金口の説のみにあらず。十方の諸仏、ともに伝証す。
 私に問うて曰く、何が故ぞ六方の諸仏の証誠、ただ念仏の一行に局るや。
 答えて曰く、もし善導の意に依れば、念仏はこれ弥陀の本願なり。故にこれを証誠す。余行は爾らず、故にこれ無し。
 問うて曰く、もし本願に依って念仏を証誠せば、『双巻』、『観経』等に、念仏を説く時、何ぞ証誠せざるや。
 答えて曰く、解するに二義有り。一に解して云く、『双巻』、『観経』等の中に、本願念仏を説くといえども、兼ねて余行を明す。故にこれを証誠せず。この『経』の中には一向に純ら念仏を説く。故にこれを証誠す。二に解して云く、彼の『双巻』等の中に、証誠の言無しといえども、この『経』すでに証誠有り。これに例して彼れを思うに、彼等の『経』の中において説く所の念仏、またまさに証誠の義有るべし。文はこの『経』に在りといえども、義は彼の『経』に通ず。故に天台の『十疑論』に云く、「また『阿弥陀経』・『大無量寿経』・『鼓音声陀羅尼経』等に云わく、釈迦仏、この経を説きたまう時に、皆十方世界に各恒河沙諸仏有して、その舌相を舒べて、遍く三千世界に覆って、一切衆生、阿弥陀仏を念ずれば、仏の大悲本願力に乗ずるが故に、決定して極楽世界に生ずることを得と証誠す」。
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浄土宗 88

2018-12-22 06:17:23 | 宗教
 浄土宗
◇選択集について
 選択集は、建久8年(1197)に現在でいえば「前総理大臣」という立場にあった九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」という切望に応じられ、建久9年(1198)の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。

【選擇本願念佛集】
 法然上人の選擇本願念佛集を読んでみましょう。 原文は漢文で書かれていますが、今回は書き下してあります。
第一 聖道浄土二門篇
第二 雑行を捨てて正行に帰する篇
第三 念仏往生本願篇
第四 三輩念仏往生篇
第五 念仏利益篇
第六 末法万年に特り念仏を留むる篇
第七 光明ただ念仏の行者を摂する篇
第八 三心篇
第九 四修法篇
第十 化仏讃歎篇
第十一 雑善に約対して念仏を讃歎する篇
第十二 仏名を付属する篇
●第十三 念仏多善根遍
第十四 六方諸仏ただ念仏の行者を証誠したまう篇
第十五 六方諸仏護念篇
第十六 弥陀の名号を以て舎利弗に付属したまう篇
≪第十三章段≫
念仏を以て多善根と為し、雑善を以て少善根としたまうの文
 『阿弥陀経』に云わく、少善根福徳の因縁を以て、彼の国に生ずることを得べからず。舎利弗、もし善男子、善女人有って、阿弥陀仏を説くを聞いて、名号を執持すること、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心不乱なれば、その人命終の時に臨んで、阿弥陀仏諸の聖衆とともに、その前に現在したまう。この人終る時、心顛倒せずして、すなわち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得。
 善導この文を釈して云く、極楽は無為涅槃の界なれば、隨縁の雑善恐らくは生じ難し。故に如来要法を選んで、教えて弥陀を念ずること、専にしてまた専ならしむ。七日七夜、心無間に長時の起行もますます皆然なり。臨終に聖衆、華を持して現ず。身心踊躍して金蓮に坐す。坐する時すなわち無生忍を得。一念に迎将して仏前に至る。法侶、衣を将て競い来って著せしむ。不退を証得して、三賢に入る。
 私に云く、「少善根福徳の因縁を以て、彼の国に生ずることを得べからず」とは、諸余の雑行は、彼の国に生じ難し。故に隨縁の雑善は、恐らくは生じ難しと云う。少善根とは、多善根に対する言なり。然ればすなわち雑善はこれ少善根なり。念仏はこれ多善根なり。故に『龍舒の浄土文』に云く、「襄陽の石に刻む『阿弥陀経』は、すなわち隋の陳仁稜が書ける所、字画清婉にして人多く慕玩す。一心不乱より下に、専ら名号を持すれば、名を称するを以ての故に諸罪消滅す。すなわちこれ多善根福徳の因縁なりと云えり。今世に伝える本、この二十一字を脱す」。 已上
 ただ多少の義有るのみに非ず。また大小の義有り。謂く雑善はこれ小善根なり。念仏はこれ大善根なり。また勝劣の義有り。謂く雑善はこれ劣善根なり。念仏はこれ勝善根なり。その義まさに知るべし。
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浄土宗 87

2018-12-15 06:29:17 | 宗教
 浄土宗
◇選択集について
 選択集は、建久8年(1197)に現在でいえば「前総理大臣」という立場にあった九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」という切望に応じられ、建久9年(1198)の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。

【選擇本願念佛集】
 法然上人の選擇本願念佛集を読んでみましょう。 原文は漢文で書かれていますが、今回は書き下してあります。
第一 聖道浄土二門篇
第二 雑行を捨てて正行に帰する篇
第三 念仏往生本願篇
第四 三輩念仏往生篇
第五 念仏利益篇
第六 末法万年に特り念仏を留むる篇
第七 光明ただ念仏の行者を摂する篇
第八 三心篇
第九 四修法篇
第十 化仏讃歎篇
第十一 雑善に約対して念仏を讃歎する篇
●第十二 仏名を付属する篇
第十三 念仏多善根遍
第十四 六方諸仏ただ念仏の行者を証誠したまう篇
第十五 六方諸仏護念篇
第十六 弥陀の名号を以て舎利弗に付属したまう篇
≪第十二章段≫
釈尊定散の諸行を附属せず、ただ念仏を以て阿難に付属したまうの文
 『観無量寿経』に云わく、仏阿難に告げたまわく、汝好くこの語を持て。この語を持てとはすなわちこれ無量寿仏の名を持てとなり。
 同経の『疏』に云く、「仏告阿難汝好持是語」より已下は、正しく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することを明す。上来定散両門の益を説くといえども、仏の本願に望むれば、意衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるに在り。
 私に云く、『疏』の文を案ずるに、二行有り。一には定散、二には念仏なり。初めに定散と言うはまた分ちて二とす。一には定善、二には散善なり。
 初めに定善に付いて、その十三有り。一には日想観、二には水想観、三には地想観、四には宝樹観、五には宝池観、六には宝楼閣観、七には華座観、八には像想観、九には阿弥陀仏観、十には観音観、十一には勢至観、十二には普往生観、十三には雑想観、つぶさには『経』に説くがごとし。たとい余の行無しとも、あるいは一、あるいは多、その堪ゆる所に随って、十三観を修して往生を得べし。その旨『経』に見えたり。あえて疑慮すること莫れ。
 次に散善に付いて二有り。一には三福、二には九品。初めに三福とは『経』に曰く、「一には父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず十善業を修す。二には三帰を受持し、衆戒を具足して威儀を犯さず。三には菩提心を発し深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す。」 已上経文。 孝養父母とは、これに付いて二有り。一には世間の孝養、二には出世の孝養なり。世間の孝養とは『孝経』等に説くがごとし。出世の孝養とは律の中の生縁奉事の法のごとし。奉事師長とはこれに付いてまた二有り。一には世間の師長、二には出世の師長なり。世間の師とは、仁義礼智信等を教えるの師なり。出世の師とは、聖道浄土の二門等を教えるの師なり。たとい余の行無しといえども孝養奉事を以て往生の業とす。慈心不殺、修十善業とはこれに就いて二義有り。一には初めに慈心不殺とは、これ四無量心の中の初めの慈無量なり。すなわち初めの一を挙げて後の三を摂す。たとい余の行無しといえども、四無量心を以て往生の業とす。次に修十善業とは一には不殺生、二には不偸盜、三には不邪婬、四には不妄語、五には不綺語、六には不悪口、七には不両舌、八には不貧、九には不瞋、十には不邪見なり。二には慈心不殺、修十善業の二句を合して一句と為す。謂く、初めに慈心不殺とはこれ四無量の中の慈無量には非ず。これ十善のはじめの不殺を指す。故に知んぬ。正しくこれ十善の一句なることを。たとい余の行無しといえども十善業を以て往生の業とす。受持三帰とは仏法僧に帰依するなり。これに就いて二有り。一には大乗の三帰、二には小乗の三帰なり。具足衆戒とはこれに二有り。一には大乗戒、二には小乗戒なり。不犯威義とはこれにまた二有り。一には大乗、謂く八万有り。二には小乗、謂く三千有り。発菩提心とは諸師の意不同なり。天台にはすなわち四教の菩提心有り。謂く蔵通別円これなり。つぶさには『止観』に説くがごとし。真言にはすなわち三種の菩提心有り。謂く行願と勝義と三摩地とこれなり。つぶさには『菩提心論』に説くがごとし。華厳にまた菩提心有り。彼の『菩提心義』および『遊心安楽道』等に説くがごとし。三論・法相に各菩提心有り。つぶさには彼の宗の章疏等に説くがごとし。また善導所釈の菩提心有り。つぶさには『疏』に述するがごとし。発菩提心その言一なりといえども、各その宗に随って、その義同じからず。然ればすなわち菩提心の一句は、広く諸経に亘り、偏く顕密を該ぬ。意気博遠にして、詮測沖(バク=辷-一+貌)なり。願わくは諸の行者一を執して万を遮すること莫れ。諸の往生を求めん人は各すべからく自宗の菩提心を発すべし。たとい余の行無しといえども、菩提心を以て往生の業とするなり。深信因果とは、これに付いて二有り。一には世間の因果、二には出世の因果なり。世間の因果とはすなわち六道の因果なり。『正法念経』に説くがごとし。出世の因果とは、すなわち四聖の因果なり。諸の大小乗経に説くがごとし。もしこの因果の二法を以て遍く諸経を摂せば、諸家同じからず。且く天台に依れば、謂く華厳には仏菩薩二種の因果を説き、阿含には声聞・縁覚二乗の因果を説き、方等の諸経には四乗の因果を説き、般若の諸経には通別円の因果を説き、法華には仏因仏果を説き、涅槃にはまた四乗の因果を説く。然ればすなわち深信因果の言遍く一代を該羅せり。諸の往生を求めん人たとい余の行無しといえども、深信因果を以て往生の業と為すべし。読誦大乗とは、分ち二とす。一には読誦、二には大乗なり。読誦とはすなわちこれ五種法師の中に、転読・諷誦の二師を挙げて、受持等の三師を顕わす。もし十種法行に約せば、すなわちこれ披読・諷誦の二種の法行を挙げて書写供養等の八種の法行を顕わす。大乗とは小乗を簡ぶ言なり。別に一経を指すに非ず。通じて一切の諸大乗経を指す。謂く一切とは、仏意広く一代所説の諸大乗経を指す。而るに一代の所説において已結集の経有り、未結集の経有り。また已結集の経においてあるいは龍宮に隠れて人間に流布せざる経有り。あるいは天竺に留まって、いまだ漢地に来到せざる経有り。而るに今翻訳将来の経に就いてこれを論ぜば、『貞元入蔵録』の中に、始め『大般若経』六百巻より、『法常住経』に終るまで、顕密の大乗経すべて六百三十七部、二千八百八十三巻。皆すべからく読誦大乗の一句に摂すべし。西方を願う行者各その意楽に随って、あるいは法華を読誦して以て往生の業と為し、あるいは華厳を読誦して以て往生の業と為し、あるいは遮那教王および諸尊法等を受持読誦して以て往生の業と為す。あるいは般若方等および涅槃経等を解説し書写して以て往生の業と為す。これすなわち浄土宗の『観無量寿経』の意なり。
 問うて曰く、顕密旨異なり、何ぞ顕の中に密を摂するや。答えて曰く、これは顕密の旨を摂すと云うには非ず。 『貞元の入蔵録』の中に同じくこれを編みて大乗経の限に入る。故に読誦大乗の一句に摂す。
 問うて曰く、爾前の経の中に何ぞ法華を摂するや。答えて曰く、今言う所の摂とは権実偏円等の義を論ずるには非ず。読誦大乗の言、普く前後の大乗諸経に通ず。前とは『観経』已前の諸大乗経これなり。後とは王宮已後の諸大乗経これなり。ただ大乗と云って権実を選ぶこと無し。然ればすなわち正しく華厳・方等・般若・法華・涅槃等の諸大乗経に当れり。勧進行者とは、謂く定散の諸善および念仏三昧等を勧進するなり。
 次に九品とは、前の三福を開して九品の業と為す。謂く上品上生の中に「慈心不殺」と言うは、すなわち上の世福の中の第三の句に当れり。次に「具諸戒行」とは、すなわち上の戒福の中の第二の句の「具足衆戒」に当れり。次に「読誦大乗」とは、すなわち上の行福の中の第三の句の「読誦大乗」に当れり。次に「修行六念」とは、すなわち上の第三の福の中の第三の句の意なり。上品中生の中に「善解義趣」等と言うは、すなわちこれ上の第三の福の中の第二第三の意なり。上品下生の中に「深信因果発道心」等と言うは、すなわちこれ上の第三の福の第一第二の意なり。中品上生の中に「受持五戒」等と言うは、すなわち上の第二の福の中の第二の句の意なり。中品中生の中に「或一日一夜受持八戒斎」等と言うは、また上の第二の福の意に同じ。中品下生の中に「孝養父母行世仁慈」等と言うは、すなわち上の初めの福の第一第二の句の意なり。下品上生とはこれ十悪の罪人なり。臨終の一念に罪滅して生ずることを得。下品中生はこれ破戒の罪人なり。臨終に仏の依正の功徳を聞いて罪滅して生ずることを得。下品下生はこれ五逆の罪人なり。臨終の十念に罪滅して生ずることを得。この三品は尋常の時ただ悪業を造って往生を求めずといえども、臨終の時始めて善知識に遇ってすなわち往生を得。もし上の三福に準ぜば第三福の大乗の意なり。定善散善大概かくのごとし。文にすなわち「上来雖説定散両門之益」と云うこれなり。
 次に念仏とは、専ら弥陀仏の名を称するこれなり。念仏の義常のごとし。今正しく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することを明すと言うは、およそこの『経』の中にすでに広く定散の諸行を説くといえども、すなわち定散を以て阿難に付属して後世に流通せしめずして、ただ念仏三昧の一行を以てすなわち阿難に付属して遐代に流通せしむ。
 問うて曰く、何が故ぞ定散の諸行を以て付属流通せざるや。もしそれ業の浅深に依って嫌って付属せずば、三福業の中に浅有り、深有り。その浅業は「孝養父母」、「奉事師長」なり。その深業は「具足衆戒」、「発菩提心」、「深信因果」、「読誦大乗」なり。すべからく浅業を捨てて、深業を付属すべし。もし観の浅深に依って嫌って付属せずば、十三観の中に浅有り、深有り。その浅観は日想水想これなり。その深観は始め地観より雑想観の終るまですべて十一観これなり。すべからく浅観を捨てて深観を付属すべし。中に就いて第九の観はこれ阿弥陀仏観なり。すなわちこれ観仏三昧なり。すべからく十二観を捨てて、観仏三昧を付属すべし。中に就いて『同疏』の玄義分の中に云く、「この『経』は観仏三昧を宗と為し、また念仏三昧を宗と為す」と。すでに二行を以て一経の宗と為す。何ぞ観仏三昧を廃して念仏三昧を付属するや。答えて曰く、「仏の本願に望むるに、意衆生をして一向は専ら弥陀仏の名を称せしむるに在り」と云う。定散の諸行は本願に非ざるが故にこれを付属せず。またその中において、観仏三昧は殊勝の行なりといえども仏の本願に非ず。故に付属せず。念仏三昧はこれ仏の本願なり。故に以てこれを付属す。「望仏本願」と言うは、『雙巻経』の四十八願の中の第十八願を指す。「一向専称」と言うは、『同経』の三輩の中の「一向専念」を指す。本願の義つぶさには前に弁ずるがごとし。問うて曰く、もし爾らば何が故ぞ直に本願念仏の行を説かずして、煩わしく非本願の定散諸善を説くや。答えて曰く、本願念仏の行は『巻経』中に委くすでにこれを説く。故に重ねて説かざるのみ。また定散を説くことは、念仏の予善に超過することを顕さんが為なり。もし定散無くば、何ぞ念仏特り秀でたることを顕さん。例せば法華の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説無くんば何ぞ法華の第一なることを顕さん。故に今定散は廃の為にしかも説き、念仏三昧は立せんが為にしかも説く
 ただし定散の諸善皆用て測り難し。およそ定善とはそれ依正の観、鏡を懸けて照臨し、往生の願、掌を指して速疾なり。あるいは一観の力能く多劫の罪(ケン=僣-日+心)を(シリゾ=衵-日+去)け、あるいは具憶の功、ついに三昧の勝利を得。然ればすなわち往生を求めん人、宜しく定観を修行すべし。中に就いて第九の真身観は、これ観仏三昧の法なり。行もし成就すればすなわち弥陀の身を見る。弥陀を見るが故に諸仏を見ることを得。諸仏を見るが故に、現前に授記せらる。この観の利益最も甚深なり。然るに今『観経』の流通分に至って、釈迦如来、阿難に告命して往生の要法を付属し流通せしむるに因って、観仏の法を嫌って、なお阿難に付属せず、念仏の法を選んで、すなわち以て阿難に付属す。観仏三昧の法なお以て付属せず。何にいわんや日想水想等の観においてをや。然ればすなわち十三定観は皆以て付属せざる所の行なり。然るに世人もし観仏等を楽って、念仏を修せざるは、これ遠くは弥陀の本願に乖くのみに非ず。またこれ近くは釈尊の付属に違す。行者宜しく商量すべし。
 次に散善の中に大小持戒の行有り。世皆以為らく、持戒の行はこれ入真の要なり。破戒の者は往生すべからずと。また菩提心の行有り。人皆以為らく菩提心はこれ浄土の綱要なり。もし菩提心無き者はすなわち往生すべからずと。また解第一義の行有り。これはこれ理観なり。人また以為らく、理はこれ仏の源なり。理を離れては仏土を求むべからず。もし理観無き者は往生すべからずと。また読誦大乗の行有り。人皆以為らく、大乗経を読誦せば、すなわち往生すべし。もし読誦の行無き者は往生すべからずと。これに就いて二有り。一には持経、二には持咒なり。持経とは『般若』・『法華』等の諸大乗経を持するなり。持咒とは『随求』・『尊勝』・『光明』・『阿弥陀』等の諸の神咒を持するなり。およそ散善の十一人、皆貴しといえども、しかもその中においてこの四箇の行は当世の人、殊に欲する所の行なり。これ等の行を以て、殆んど念仏を抑う。つらつら『経』の意を尋ねれば、この諸行を以て付属し流通せず。ただ念仏の一行を以てすなわち後世に付属し流通せしむ。まさに知るべし、釈尊諸行を付属したまわざる所以は、すなわちこれ弥陀の本願に非ざるが故なり。また念仏を付属したまう所以は、すなわちこれ弥陀の本願なるが故なり。今また善導和尚諸行を廃して念仏に帰せしむる所以は、すなわち弥陀の本願たるの上、またこれ釈尊付属の行なればなり。故に知んぬ。諸行は機に非ず、時を失えり。念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐ならんや。まさに知るべし。隨他の前には暫く定散の門を開くといえども、隨自の後には還って定散の門を閉づ。一たび開いて以後永く閉じざるはただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意ここに在り、行者まさに知るべし。またこの中に遐代とは、『雙巻経』の意に依るに、遠く末法万年の後の百歳の時を指す。これすなわち遐を挙げて、邇きを摂する。然れば法滅の後、なお以てし然なり。何にいわんや末法をや。末法すでに然り。何にいわんや正法像法をや。故に知んぬ。念仏往生の道は正像末の三時および法滅百歳の時に通ずということを。
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浄土宗 86

2018-12-04 06:46:59 | 宗教
 浄土宗
◇選択集について
 選択集は、建久8年(1197)に現在でいえば「前総理大臣」という立場にあった九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」という切望に応じられ、建久9年(1198)の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。

【選擇本願念佛集】
 法然上人の選擇本願念佛集を読んでみましょう。 原文は漢文で書かれていますが、今回は書き下してあります。
第一 聖道浄土二門篇
第二 雑行を捨てて正行に帰する篇
第三 念仏往生本願篇
第四 三輩念仏往生篇
第五 念仏利益篇
第六 末法万年に特り念仏を留むる篇
第七 光明ただ念仏の行者を摂する篇
第八 三心篇
第九 四修法篇
第十 化仏讃歎篇
●第十一 雑善に約対して念仏を讃歎する篇
第十二 仏名を付属する篇
第十三 念仏多善根遍
第十四 六方諸仏ただ念仏の行者を証誠したまう篇
第十五 六方諸仏護念篇
第十六 弥陀の名号を以て舎利弗に付属したまう篇
≪第十一章段≫
雑善に約対して念仏を讃歎するの文
 『観無量寿経』に云わく、もし念仏せん者、まさに知るべし、この人はすなわちこれ人中の芬陀利華なり。観世音菩薩、大勢至菩薩その勝友と為る。まさに道場に坐し諸仏の家に生るべし。
 同経の『疏』に云く、「若念仏者」より、下「生諸仏家」に至る已来は、正しく念仏三昧の功能超絶して、実に雑善をもって比類と為すことを得るに非ざることを顕す。すなわちその五有り。一には専ら弥陀仏の名を念ずることを明し、二には能念の人を指讃することを明し、三にはもし能く相続して、念仏する者は、この人はなはだ希有なりとし、更に物の以てこれに方ぶべき無し。故に芬陀利を引いて、喩と為すことを明す。芬陀利と言うは人中の好花と名づけ、また希有花と名づけ、また人中上上華と名づけ、また人中妙好華と名づく。この華相い伝えて蔡華と名づくこれなり。もし念仏する者は、すなわちこれ人中の好人・人中の妙好人・人中の上上人・人中の希有人・人中の最勝人なり。四には専ら弥陀の名を念ずる者は、すなわち観音勢至常隨影護したまい、また親友知識のごとくなることを明す。五には今生すでにこの益を蒙る、命を捨ててすなわち諸仏の家に入る。すなわち浄土これなり。かしこに到れば長時に法を聞いて、歴事供養す。因円かに果満ず。道場の座。あに(ハルカ=貝+余)ならんやということを明す。
 私に問うて曰く、『経』に「若念仏者当知此人等」と云うは、ただ念仏の者に約してこれを讃歎す。釈家何の意有って実に雑善をもって比類と為すことを得るに非ずと云って、雑善に相対して独り念仏を歎ずるや。
 答えて曰く、文の中に隠れたりといえども、義意これ明らかなり。知る所以は、この『経』すでに定散の諸善ならびに念仏の行を説く。而るにその中において孤り念仏を標して芬陀利に喩う。雑善に待するに非ずば、云何ぞ能く念仏の功の余善諸行に超えたることを顕さん。然ればすなわち、念仏するものはすなわちこれ人中の好人とは、これ悪に待して美むる所なり。人中の妙好人と言うは、これ粗悪に待して称する所なり。人中の上上人と言うは、これ下下に待して讃ずる所なり。人中の希有人と言うは、これ常有に待して歎ずる所なり。人中の最勝人と言うは、これ最劣に待して褒る所なり。
 問うて曰く、すでに念仏を以て上上と名づけば、何が故ぞ上上品の中に説かずして下下品に至って念仏を説くや。
 答えて曰く、あに前に云わずや。念仏の行は広く九品に亘ると。すなわち前に引く所の『往生要集』に、「その勝劣に随ってまさに九品を分つべし」と云うこれなり。加之、下品下生はこれ五逆重罪の人なり。而るに能く逆罪を除滅すること余行の堪えざる所、ただ念仏の力のみ有って、能く重罪を滅するに堪えたり。故に極悪最下の人の為に極善最上の法を説く所、例せば彼の無明淵源の病は、中道府蔵の薬に非ざれば、すなわち治すること能わざるがごとし。今この五逆は重病の淵源なり。またこの念仏は、霊薬府蔵なり。この薬に非ざれば、何ぞこの病を治せん。故に弘法大師の『二教論』に『六波羅蜜経』を引いて云く、「第三に法宝とは、いわゆる過去無量の諸仏所説の正法とおよび我が今の所説となり。いわゆる八万四千の諸の妙法蘊なり。乃至有縁の衆生を調伏し純熟す。しかも阿難陀等の諸大弟子をして一たび耳に聞いて皆ことごとく憶持せしむ。摂して五分と為す。一には素咀纜、二には毘奈郁、三には阿毘達磨、四には般若波羅蜜多、五には陀羅尼門なり。この五種の蔵をもって有情を教化し、度すべき所に随って為にこれを説く。もし彼の有情、山林に処し、すでに閑寂に居し、静慮を修せんと楽う者には、しかも彼れが為に素咀纜蔵を説く。もし彼の有情、威儀を習い正法を護持し、一味和合して久住することを得せしめんと楽うには、しかも彼れが為に毘奈郁蔵を説く。もし彼の有情、正法を説き性相を分別し、循環研覈して、甚深を究竟せんと楽うには、しかも彼れが為に阿毘達磨蔵を説く。もし彼の有情、大乗真実の智慧を習って、我法執著の分別を離れんと楽うには、しかも彼れが為に、般若波羅蜜多蔵を説く。もし彼の有情、契経と調伏と対法と般若とを受持すること能わず。あるいはまた有情、諸の悪業たる四重・八重・五無間罪・謗方等経・一闡堤等の種種の重罪を造って、銷滅することを得て、速やかに疾く解脱し、頓に涅槃を悟らしめるには、しかも彼れが為に諸の陀羅尼蔵を説く。この五法蔵は、譬えば乳・酪・生酥・熟酥および妙醍醐のごとし。契経は乳のごとく、調伏は酪のごとく、対法教は彼の生酥のごとく、大乗般若はなおし熟酥のごとく、総持門は譬えば醍醐のごとし。醍醐の味は、乳、酪、酥の中に微妙第一なり。能く諸病を除いて、諸の有情をして身心安楽ならしむ。総持門は、契経等の中に最も第一とす。能く重罪を除き諸の衆生をして、生死を解脱して、速やかに涅槃安楽の法身を証せしむ」。
 已上 この中の五無間罪とはこれ五逆罪なり。すなわち醍醐の妙薬に非ざれば、五無間の病、はなはだ療し難しと為す。念仏もまた然なり。往生教の中には念仏三昧は、これ総持のごとくまた醍醐のごとし。もし念仏三昧の醍醐の薬に非ざれば、五逆深重の病、はなはだ治し難しと為す。まさに知るべし。
 問うて曰く、もし爾らば下品上生はこれ十悪軽罪の人なり。何が故ぞ念仏を説くや。
 答えて曰く、念仏三昧は、重罪なお滅す。いかにいわんや軽罪をや。余行は然らず。あるいは軽を滅して、しかも重を滅せざる有り。あるいは一を消して二を消せざる有り。念仏は然らず。軽重兼ね滅し、一切遍く治す。譬えば阿伽陀薬の遍く一切の病を治するがごとし。故に念仏を以て王三昧とす。およそ九品の配当は、これ一往の義なり。五逆の回心、上上に通じ、読誦の妙行また下下に通ず。十悪軽罪・破戒次罪各上下に通じ、解第一義・発菩提心また上下に通ず。一法に各九品有り。もし品に約せばすなわち九九八十一品なり。加之、迦才の云く、「衆生の行を起すにすでに千殊有り。往生して土を見ることまた万別有るなり」と。一往の文を見て封執を起すこと莫れ。その中に念仏は、これすなわち勝行なり。故に芬陀利を引いて以てその譬とす。譬の意まさに知るべし。加之、念仏の行者をば観音勢至、影と形とのごとく暫くも捨離せず。余行は爾らず。また念仏する者は、命を捨てて已後決定して極楽世界に往生す。余行は不定なり。およそ五種の嘉誉を流え二尊の影護を蒙る。これはこれ現益なり。また浄土に往生して乃至成仏す。これはこれ当益なり。また道綽禅師、念仏の一行において、始終の両益を立つ。  『安楽集』に云く、「念仏の衆生は摂取して捨てたまわず。寿尽きて必ず生ず。これを始益と名づく。終益と言うは、『観音授記経』に依るに、云く阿弥陀仏の住世長久、兆載永劫にして、また滅度したまうこと有り。般涅槃の時、ただ観音勢至有って、安楽を住持して十方を接引す。その仏の滅度また住世の時節と等同なり。然るに彼の国の衆生、一切仏を覩見する者あること無し。ただ一向に専ら阿弥陀仏を念じて往生する者のみ有って、常に弥陀現在して、滅したまわざる見る。これすなわちこれその終益なり」。
 已上 まさに知るべし。念仏はかくのごとき等の、現当二世始終の両益有り。まさに知るべし。
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浄土宗 85

2018-12-03 06:41:16 | 宗教
 浄土宗
◇選択集について
 選択集は、建久8年(1197)に現在でいえば「前総理大臣」という立場にあった九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」という切望に応じられ、建久9年(1198)の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。

【選擇本願念佛集】
 法然上人の選擇本願念佛集を読んでみましょう。 原文は漢文で書かれていますが、今回は書き下してあります。
第一 聖道浄土二門篇
第二 雑行を捨てて正行に帰する篇
第三 念仏往生本願篇
第四 三輩念仏往生篇
第五 念仏利益篇
第六 末法万年に特り念仏を留むる篇
第七 光明ただ念仏の行者を摂する篇
第八 三心篇
第九 四修法篇
●第十 化仏讃歎篇
第十一 雑善に約対して念仏を讃歎する篇
第十二 仏名を付属する篇
第十三 念仏多善根遍
第十四 六方諸仏ただ念仏の行者を証誠したまう篇
第十五 六方諸仏護念篇
第十六 弥陀の名号を以て舎利弗に付属したまう篇
<第十章段>
弥陀化仏の来迎、聞経の善を讃歎せず、ただ念仏の行を讃歎したまうの文
 『観無量寿経』に云わく。あるいは衆生有って、衆の悪業を作って、方等経典を誹謗せずといえども、かくのごときの愚人、多く衆悪を造って、慚愧有ること無し。命終らんと欲する時、善知識の為に、大乗の十二部経の首題の名字を讃ずるに遇えり。かくのごときの諸経の名を聞くを以ての故に、千劫の極重の悪業を除却す。智者また教えて、合掌叉手して、南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するが故に、五十億劫の生死の罪を除く。その時彼の仏、すなわち化仏、化観世音、化大勢至を遺わし、行者の前に至らしめ、讃じて言わく、善男子、汝仏名を称するが故に、諸の罪消滅すれば、我れ来って汝を迎うと。
 同経の『疏』に云く、聞く所の化讃、ただ称仏の功を述べて、我れ来って汝迎うと、聞経の事を論ぜず。然るに仏の願意に望れば、ただ正念に、名を称することを勧む。往生の義、疾きこと雑散の業に同じからず。この経および諸部の中のごとき処処に広く歎じ、勧めて名を称せしむるを、まさに要益と為す。まさに知るべし。
 私に云く、聞経の善は、これ本願に非ず。雑業なるが故に、化仏讃ぜず。念仏の行は、これ本願正業なるが故に化仏讃歎す。加之、聞経と念仏と滅罪の多少同じからず。
 『観経の疏』に云く、「問うて曰く、何が故ぞ聞経は十二部、ただ罪を除くこと千劫、称仏は一声、すなわち罪を除くこと五百万劫なるは、何の意ぞや。答えて曰く、造罪の人、障り重く、加えるに死苦来逼を以てす。善人多経を説くといえども、(ザン=ン+食)受の心、浮散す。心散ずるに由るが故に、罪を除くことやや軽し。また仏名はこれ一なり。すなわち能く散を摂して、以て心を住せしむ。また教えて正念に名を称せしむ。心重きに由るが故に、すなわち能く罪を除くこと多劫なり」。
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