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雑記帳

豊田市在住 あきたんの日記風ブログ 様々なジャンルのブログです。

浄土宗 76

2017-02-26 22:02:23 | 宗教
 浄土宗
◇選択集について
 選択集は、建久8年(1197)に現在でいえば「前総理大臣」という立場にあった九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」という切望に応じられ、建久9年(1198)の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。

【選擇本願念佛集】
 法然上人の選擇本願念佛集を読んでみましょう。 原文は漢文で書かれていますが、今回は書き下してあります。
○第一 聖道浄土二門篇
第二 雑行を捨てて正行に帰する篇
第三 念仏往生本願篇
第四 三輩念仏往生篇
第五 念仏利益篇
第六 末法万年に特り念仏を留むる篇
第七 光明ただ念仏の行者を摂する篇
第八 三心篇
第九 四修法篇
第十 化仏讃歎篇
第十一 雑善に約対して念仏を讃歎する篇
第十二 仏名を付属する篇
第十三 念仏多善根遍
第十四 六方諸仏ただ念仏の行者を証誠したまう篇
第十五 六方諸仏護念篇
第十六 弥陀の名号を以て舎利弗に付属したまう篇

「第一 聖道浄土二門篇」
道綽禅師聖道浄土の二門を立てて、しかも聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文

『安楽集』の上に云く、問うて曰く、一切衆生は皆仏性有り。遠劫より以来まさに多仏に値えるなるべし。何に因ってか今に至るまで、なお自ら生死に輪廻して、火宅を出でざるや。答えて曰く、大乗の聖教に依るに、良に二種の勝法を得て、以て生死を排はざるに由る。ここを以て火宅を出でざるなり。何をか二と為す。一には謂く聖道、二には謂く往生浄土なり。

その聖道の一種は、今の時証し難し。一には大聖を去ること遥遠なるに由る。二には理は深く解は微なるに由る。この故に『大集月蔵経』に云く、「我が末法の時の中に、億億の衆生、行を起し道を修せんに、いまだ一人も得るもの有らじ」。当今は末法、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみ有って通入すべき路なり。この故に『大経』に云わく、「もし衆生有って、たとい一生悪を造るとも、命終の時に臨んで、十念相続して、我が名字を称せんに、もし生ぜずば正覚をとらじ」と。

またまた一切の衆生はすべて自ら量らず。もし大乗に據らば、真如実相第一義空、かつていまだ心を惜かず、もし小乗を論ぜば、見諦修道に修入し、乃至那含羅漢に、五下を断じ五上を除くこと、道俗を問うこと無く、いまだその分有らず、たとい人天の果報有れども、皆五戒十善に為って、能くこの報を招く。然るに持ち得る者は、はなはだ希なり。もし起悪造罪を論ぜば、何ぞ暴風駛雨に異ならん。ここを以て諸仏の大慈、勧めて浄土に帰せしむ。たとい一形悪を造るともただ能く意を繋けて、専精に常に能く念仏すれば、一切の諸障、自然に消除して、定んで往生を得。何ぞ思量せずして、すべて去る心無きや。

私に云く、密に計れば、それ立教の多少は宗に随って不同なり。且く有相宗のごときは、三時教を立てて一代の聖教を判ず。いわゆる有・空・中これなり。無相宗のごときは、二蔵教を立てて以て一代の聖教を判ず。いわゆる菩薩蔵・声聞蔵これなり。華厳宗のごときは、五教を立てて一切の仏教を摂す。いわゆる小乗教・始教・終教・頓教・円教これなり。法華宗のごときは、四教五味を立てて以て一切の仏教を摂す。四教とはいわゆる蔵・通・別・円これなり。五味とはいわゆる乳・酪・生・熟・醍醐これなり。真言宗のごときは、二教を立てて一切を摂す。いわゆる顕教・密教これなり。

今この浄土宗は、もし道綽禅師の意に依らば二門を立てて一切を摂す。いわゆる聖道門・浄土門これなり。

問うて曰く、それ宗の名を立てることは本、華厳・天台等の八宗九宗に在り。いまだ浄土の家において、その宗の名を立てることを聞かず。然るに今、浄土宗と号すること何の証拠有るや。答えて曰く、浄土の宗の名その証一に非ず。元暁の『遊心安楽道』に云く、「浄土宗の意は本、凡夫の為にし兼ねて聖人の為にす」と。また慈恩の『西方要決』に云く、「この一宗に依る」と。また迦才の『浄土論』に云く、「この一宗、密かに要路たり」と。その証かくのごとし。疑端に足らず。

ただし諸宗の立教は正しく今の意に非ず。且く浄土宗に就いて、略して二門を明さば、一には聖道門、二には浄土門なり。

初めに聖道門とは、これに就いて二有り。一には大乗、二には小乗なり。大乗の中に就いて顕密権実等の不同有りといえども、今この『集』の意はただ顕大および権大を存ず。故に歴劫迂廻の行に当る。これに準じてこれを思うに、まさに密大および実大を存すべし。然ればすなわち今、真言・仏心・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論これらの八家の意、正しくここに在り。まさに知るべし。次に小乗とは、すべてこれ小乗の経律論の中に明す所の声聞・縁覚・断惑証理入聖得果の道なり。上に準じてこれを思うに、また倶舎・成実・諸部の律宗を摂すべきのみ。およそこの聖道門の大意は、大乗および小乗を論ぜず、この娑婆世界の中において、四乗の道を修して、四乗の果を得るなり。四乗とは、三乗の外に仏乗を加う。

次に往生浄土門とは、これに就て二有り。一には正に往生浄土を明すの教、二には傍に往生浄土を明すの教なり。初めに正に往生浄土を明すの教とは、謂く三経一論これなり。三経とは一には『無量壽経』、二には『観無量壽経』、三には『阿弥陀経』なり。一論とは天親の『往生論』これなり。あるいはこの三経を指して浄土の三部経と号す。

問うて曰く、三部経の名、またその例有りや。答えて曰く、三部経の名その例一に非ず。一には法華の三部、謂く『無量義経』・『法華経』・『普賢観経』これなり。二には大日の三部、謂く『大日経』・『金剛頂経』・『蘇悉地経』これなり。三には鎮護国家の三部、謂く『法華経』・『仁王経』・『金光明経』これなり。四には弥勒の三部、謂く『上生経』・『下生経』・『成仏経』これなり。今はただこれ弥陀の三部なり。故に浄土の三部経と名づく。弥陀の三部とはこれ浄土正依の経なり。

次に傍に往生浄土を明すの教とは、『華厳』・『法華』・『隨求』・『尊勝』等の、諸の往生浄土の行を明すの諸経これなり。また『起信論』・『宝性論』・『十住毘婆沙論』・『摂大乗論』等の、諸の往生浄土の行を明すの諸論これなり。

およそこの『集』の中に、聖道浄土の二門を立る意は、聖道を捨てて、浄土門に入らしめんが為なり。これに就いて二つの由有り。一には大聖を去ること遥遠なるに由る。二には理深く解微なるに由る。この宗の中に二門を立てることは、独り道綽のみに非ず。曇鸞・天台・迦才・慈恩等の諸師、皆この意有り。

且く曇鸞法師の『往生論の註』に云く、「謹んで案ずるに、龍樹菩薩の『十住毘婆沙』に云く、菩薩阿毘跋致を求めるに、二種の道有り。一には難行道、二には易行道なり。難行道とは、謂く五濁の世、無仏の時において、阿毘跋致を求めるを難とす。この難にすなわち多途有り。ほぼ五三を言いて、以て義意を示さん。一には外道の相善、菩薩の法を乱る。二には声聞の自利、大慈悲を障う。三には無顧の悪人、他の勝徳を破す。四には顛倒の善果、能く梵行を壊す。五にはただこれ自力にして他力の持無し。かくのごとき等の事、目に触れて皆、是なり。譬えば陸路の歩行はすなわち苦しきがごとし。易行道とは、謂くただ信仏の因縁を以て、浄土に生ぜんと願ずれば、仏の願力に乗じて、すなわち彼の清浄の土に往生することを得。仏力住持して、すなわち大乗正定の聚に入らしむ。正定はすなわちこれ阿毘跋致なり。譬えば水路の乗船はすなわち楽しきがごとし」。已上

このなかに難行道とはすなわちこれ聖道門なり。易行道とは、すなわちこれ浄土門なり。難行・易行と、聖道・浄土と、そのことば異なりといえども、その意これ同じ。天台・迦才これに同じ。まさに知るべし。

また『西方要決』に云く、「仰ぎ惟れば、釈迦、運を啓いて、弘く有縁を益す。教、随方に闡けてならびに法潤に霑う。親り聖化に逢えるは、道、三乗を悟りき。福薄く因疎なるは、勧めて浄土に帰せしむ。この業を作す者は、専ら弥陀を念じ、一切の善根、回して彼の国に生ず。弥陀の本願、誓って娑婆を度したまう。上現生の一形を尽くし、下臨終の十念に至るまで、ともに能く決定して、皆往生を得」。已上

また同じき後序に云く、「それ以れば、生れて像季に居して、聖を去ることこれ遙かなり。道、三乗に預かれども、契悟するに方無し。人天の両位は、躁動にして安からず。智博く、情弘きは、能く久しく処するに堪えたり。もし識癡に、行浅きは、恐らくは幽途に溺れん。必ずすべからく跡を娑婆に遠ざけ心を浄域に栖ましむべし」。已上

この中に三乗とはすなわちこれ聖道門の意なり。浄土とはすなわちこれ浄土門の意なり。三乗浄土と、聖道浄土とは、その名異なりといえども、その意また同じ。浄土宗の学者、まずすべからくこの旨を知るべし。たとい先に聖道門を学せる人といえども、もし浄土門において、その志有らば、すべからく聖道を棄てて浄土に帰すべし。例せば彼の曇鸞法師は、四論の講説を捨てて、一向に浄土に帰し、道綽禅師は涅槃の広業を閣いて、偏に西方の行を弘めしがごとし。上古の賢哲なお以てかくのごとし。末代の愚魯、むしろこれに遵わざらんや。

問うて曰く、聖道家の諸宗、各師資相承有り。謂く、天台宗のごときは慧文・南嶽・天台・章安・智威・慧威・玄朗・湛然、次第相承す。真言宗のごときは、大日如来・金剛薩(タ=土+垂)・龍樹・龍智・金智・不空、次第相承す。自余の諸宗、また各相承の血脈有り。而るに今言う所の浄土宗に、師資相承血脈の譜有りや。答えて曰く、聖道家の血脈のごとく、浄土宗にもまた血脈有り。ただし浄土一宗において、諸家また同じからず。いわゆる廬山の慧遠法師と、慈愍三蔵と、道綽・善導等とこれなり。今且く道綽・善導の一家に依って、師資相承の血脈を論ぜば、これにまた両説有り。

一には菩提流支三蔵・慧寵法師・道場法師・曇鸞法師・大海禅師・法上法師なり。 已上『安楽集』に出づ

二には菩提流支三蔵・曇鸞法師・道綽禅師・善道禅師・懐感法師・小康法師なり。 已上『唐宋両伝』に出づ


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浄土宗 75

2017-02-13 13:50:54 | 宗教
 浄土宗
◇選択集について
 選択集は、建久8年(1197)に現在でいえば「前総理大臣」という立場にあった九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」という切望に応じられ、建久9年(1198)の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。

●選択集の撰述
 建久8年(1197)老齢65歳の上人は病になやまされたことがありました。ときに前の関白だった九条兼実公はいたく心配されました。そして、回復された様子をみとどけて、「浄土の法門については年来うけたまわっているが、まだ心にとどめ得ない点があるので、なにとぞこの際、肝要なことについて記述して頂きたい」と懇請されたのでした。そこで上人は門弟の感西や証空や遵西の三人を動員し、執筆の助手役をつとめさせ、撰述(せんじゅつ)にとりかかられました。こうして、ようやく翌9年春、一部十六章からなる『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』がつくられたのです。
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浄土宗 74

2016-12-27 05:58:58 | 宗教
 浄土宗
◇一百四十五箇条問答
 仏教が日本に伝来したのはおよそ千五百年の昔。最初は貴族や学問僧だけのものだった仏教が本当に民衆化し、人々心の支えになったのは、鎌倉時代だったと言われている。その先駆けとなったのが浄土宗の開祖・法然上人でした。
 当時、多くの人は字を読むこともできず、仏教の難しい教義を理解することもできませんでした。また、多くの迷信や因習にとらわれ、意味のない女性差別やタブーが横行していました。
 そうした状況の中で、人々は本当の救いがどこにあるのかと悩んでいたのでいたのでした。その悩みや疑問に法然上人が自ら答え、正しい念仏に導くための問答集が、『一百四十五箇条問答』です。
 ところでこうした迷信や因習は、はたして過去のものでしょうか。いたずらに人をおとしいれる怪しげな健康法や占いがはやる現代においてこそ、信仰のありかたが端的に示された『一百四十五箇条問答』の意味があるのです。
 承安五年(1175)の浄土宗宗祖から二十数年を経て、上人のもとには、おびただしい人々が教えを受けに訪れて来ました。この問答集に収められた質問は、そうした人々の疑問を代表するものだったのでしょう。
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真宗大谷派 58

2016-11-07 05:41:08 | 宗教
 真宗大谷派
【歴代】
*大谷派における歴代の正式呼称に関する注意
歴代の留守職・法主・門主を「歴代門首」と呼称し、「大谷派御歴代」と総称するのが正式である。
親鸞のみ「宗祖」と呼称、「聖人」と敬称する。
宗祖親鸞以降の歴代は、「第○○代」と漢数字を用いて「代」で呼称し、「第○○世」と呼称しない。敬称は、「上人」を用いる。なお在職中は、「上人」の敬称を付さない。
 例…「第八代 蓮如上人」・「第二十五代 大谷暢顯」
 「※」は、大谷廟堂留守職・本願寺留守職のうち歴代に数えない者と、真宗大谷派門首代行である。
------------------------------------------------------------------------------------------------
●本山
真宗大谷派の本山については、『宗憲』第3章「本山」に以下の通り規定されている。
真宗本廟
 真宗大谷派は、「真宗本廟」をすべての寺院及び教会の本山と定めている。大谷派に属するすべての個人及び団体は、これを崇敬護持しなければならないとする。
 また「真宗本廟」は、宗祖である親鸞の真影を安置する「御影堂」および「阿弥陀堂」を中心とする聖域であって、本願寺とも称し、本派の崇敬の中心、教法宣布の根本道場であるとする。
大谷祖廟
 また大谷祖廟は、宗祖聖人墳墓の地であって、大谷派に属する者は、これを敬仰護持しなければならないとする。
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真宗大谷派 57

2016-07-26 04:37:19 | 宗教
 真宗大谷派
【歴代】
*大谷派における歴代の正式呼称に関する注意
歴代の留守職・法主・門主を「歴代門首」と呼称し、「大谷派御歴代」と総称するのが正式である。
親鸞のみ「宗祖」と呼称、「聖人」と敬称する。
宗祖親鸞以降の歴代は、「第○○代」と漢数字を用いて「代」で呼称し、「第○○世」と呼称しない。敬称は、「上人」を用いる。なお在職中は、「上人」の敬称を付さない。
 例…「第八代 蓮如上人」・「第二十五代 大谷暢顯」
 「※」は、大谷廟堂留守職・本願寺留守職のうち歴代に数えない者と、真宗大谷派門首代行である。
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●その他の聖教
以下の書籍・消息(手紙)は、『宗憲』に定められる「正依の聖教」には含まれないが、真宗大谷派の聖典である『真宗聖典』に収録され教化などに用いられる。
親鸞消息
『親鸞聖人御消息集』(広本)
『御消息集』(善性本)
『親鸞聖人血脈文集』(「血脈文集」)
『末燈鈔』従覚編
「御消息拾遺」
恵信尼
『恵信尼消息』
唯円
『歎異抄』
覚如
『執持鈔』
『口伝鈔』
『改邪鈔』
『本願寺聖人伝絵』(『御伝鈔』
『報恩講私記』(『式文』)
存覚
『浄土真要鈔』
『歎徳文』(たんどくもん)
蓮如
『正信偈大意』
「御文」 『五帖御文』
『夏御文』(げのおふみ)
『御俗姓』
『改悔文』
『蓮如上人御一代記聞書』 - 蓮如の言行録
聖覚
『唯信鈔』
隆寛
『後世物語聞書』
『一念多念分別事』
『自力他力事』
著者不明
『安心決定鈔』
源信
『念仏法語』(『横川法語』)
源空(法然)
『一枚起請文』
聖徳太子
『十七条憲法』
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浄土宗 73

2016-06-25 17:07:43 | 宗教
 浄土宗
●法然上人37年の布教活動から
 京都・東山「吉水の庵」。浄土宗を開いた法然上人が、念仏往生の教えを人々に広めるために結んだ庵。法然上人のここでの布教活動は、流罪となった晩年の数年間を除き、開宗の43歳から80歳で生涯を閉じるまでの長きにわたり、浄土宗の中心地となっていました。現在の総本山知恩院がここに建てられました。
 ここには、多くの人々が法然上人を慕って集まってきました。教えを聞きにきた僧、さまざまな悩みをかかえた庶民、戦乱にあけくれて地獄行きを覚悟した武者たち・・・。庶民や女性、殺生をした者には救いの道がないとされていた当時の仏教。そんななかで、だれもが平等に救われるという法然上人の念仏往生の教えは人々に光明を与えました。
 そうした人々の中から、出家をして法然上人の教えをうける多くのお弟子たちが生まれました。法然上人亡き後の浄土宗を支え、全国津々浦々にまでお念仏の教えを広めたお弟子もいれば、師に先立って亡くなったお弟子もいます。また、名前しか知られていないお弟子も多くいます。
 その中から主だったお弟子たちと法然上人との関係を紹介しましょう。
現代に生きる私たちに連綿と伝わる念仏の教え、その礎を築いたお弟子たちの横顔です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【教えを広めた弟子たち】
その他の弟子たち
・隆寛(りゅうかん)
・成覚房幸西(せいかくぼうこうさい)
・正信房(聖信房)湛空(たんくう)
・覚明房長西(ちょうさい)
・蓮寂房信慧(しんえ)
・記主良忠(きしゅりょうちゅう)
・然空(ねんくう)
・良空(りょうくう)
・道光(どうこう)
・良暁(りょうぎょう)
・尊観(そんかん)
●性心(しょうしん)
≪性心≫(性真・水沼上人・秩父上人・号は唱阿)1163-1247(長寛1-宝治1)
13世紀後半の人。生没不明。良忠門下の高足で、藤田派の祖。武州藤田郡(埼玉県)に生まれ、比叡山に登って出家したが、のち1258年(康元1)ごろには良忠に師事し、下総方面で修学を積み、頭角をあらわした。
(浄土宗大辞典より)
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浄土宗 72

2016-05-22 15:54:12 | 宗教
浄土宗
●法然上人37年の布教活動から
 京都・東山「吉水の庵」。浄土宗を開いた法然上人が、念仏往生の教えを人々に広めるために結んだ庵。法然上人のここでの布教活動は、流罪となった晩年の数年間を除き、開宗の43歳から80歳で生涯を閉じるまでの長きにわたり、浄土宗の中心地となっていました。現在の総本山知恩院がここに建てられました。
 ここには、多くの人々が法然上人を慕って集まってきました。教えを聞きにきた僧、さまざまな悩みをかかえた庶民、戦乱にあけくれて地獄行きを覚悟した武者たち・・・。庶民や女性、殺生をした者には救いの道がないとされていた当時の仏教。そんななかで、だれもが平等に救われるという法然上人の念仏往生の教えは人々に光明を与えました。
 そうした人々の中から、出家をして法然上人の教えをうける多くのお弟子たちが生まれました。法然上人亡き後の浄土宗を支え、全国津々浦々にまでお念仏の教えを広めたお弟子もいれば、師に先立って亡くなったお弟子もいます。また、名前しか知られていないお弟子も多くいます。
 その中から主だったお弟子たちと法然上人との関係を紹介しましょう。
現代に生きる私たちに連綿と伝わる念仏の教え、その礎を築いたお弟子たちの横顔です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【教えを広めた弟子たち】
その他の弟子たち
・隆寛(りゅうかん)
・成覚房幸西(せいかくぼうこうさい)
・正信房(聖信房)湛空(たんくう)
・覚明房長西(ちょうさい)
・蓮寂房信慧(しんえ)
・記主良忠(きしゅりょうちゅう)
・然空(ねんくう)
・良空(りょうくう)
・道光(どうこう)
・良暁(りょうぎょう)
●尊観(そんかん)
•性心
≪尊観(そんかん)239-1316(延応1-正和5)≫
 鎌倉中期の僧。字は良弁。名越派派祖。良忠の教えをついで浄土宗をひろめ、東北地方における浄土宗発展の基礎を築いた。
下総国香取郡鏑木(かぶらぎ)村北条朝時の子。幼年より良忠に師事し、有力門下の一人となり、1276年(建治2)付法を受ける。 早くから独自の見識をもっていたが、良忠の寂後表面化し、一念業成の説を主張して注目を浴びた。
 鎌倉名越の善導寺に住んだため、後世尊観の教説を名越流とか善導寺義という。 良忠の寂後、門下は多くの派に分かれ、それぞれ正統性を主張するが、そのもっとも激しかったのは白旗派良暁と名越派尊観である。
1314年(正和3)良暁の『口伝鈔』を見た尊観は、翌年『十六箇条疑問答』を書いて反駁した。これに対し良暁は『浄土述聞鈔』を書いて反論し、晩年まで活発な論争を展開、やがて弟子に受けつがれ、明治時代まで続いた。
弟子は慈観・慧観・明心がなど多数いたが、善光寺南大門(長野)に住む明心が後継者となり教線を拡張した。著書は『十六箇条疑問答』のほか数冊あったというが不明。ほとんど口伝という形で弟子たちの著述の中に残っている。 口伝を尊重するところに名越派の特色がある。(三・一四寂)
(浄土宗大辞典より)
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真宗大谷派 56

2016-04-21 18:26:26 | 宗教
 真宗大谷派
【歴代】
*大谷派における歴代の正式呼称に関する注意
歴代の留守職・法主・門主を「歴代門首」と呼称し、「大谷派御歴代」と総称するのが正式である。
親鸞のみ「宗祖」と呼称、「聖人」と敬称する。
宗祖親鸞以降の歴代は、「第○○代」と漢数字を用いて「代」で呼称し、「第○○世」と呼称しない。敬称は、「上人」を用いる。なお在職中は、「上人」の敬称を付さない。
 例…「第八代 蓮如上人」・「第二十五代 大谷暢顯」
 「※」は、大谷廟堂留守職・本願寺留守職のうち歴代に数えない者と、真宗大谷派門首代行である。
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●正依の聖教…正依の聖教は、以下のとおりである。
 浄土三部経
下記の経典を総称して「浄土三部経」と呼ぶ。
・『佛説無量寿経』 曹魏康僧鎧訳
・『佛説観無量寿経』 劉宋畺良耶舎訳
・『佛説阿弥陀経』 姚秦鳩摩羅什訳
七高僧論釈章疏
・七高僧の論釈章疏

≪インド≫
龍樹造
・『十住毘婆沙論』「易行品」
・『十二礼』
天親造
・『浄土論』

≪中国≫
曇鸞撰
・『浄土論註』
・『讃阿弥陀佛偈』
道綽撰
・『安楽集』
善導撰
『観無量寿経疏』
『往生礼讃』
『法事讃』
『般舟讃』
『観念法門』

≪日本≫
源信撰
・『往生要集』
源空(法然)撰
・『選択本願念佛集』
宗祖聖人撰述
・『顕浄土真実教行証文類』[28]
・『浄土文類聚鈔』
・『愚禿鈔』
・『入出二門偈』
・『浄土三経往生文類』
・『如来二種回向文』
・『尊号真像銘文』
・『一念多念文意』
・『唯信鈔文意』
・『浄土和讃』[29]
・『高僧和讃』
・『正像末和讃』
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真宗大谷派 55

2016-03-28 16:01:33 | 宗教
 真宗大谷派
【歴代】
*大谷派における歴代の正式呼称に関する注意
歴代の留守職・法主・門主を「歴代門首」と呼称し、「大谷派御歴代」と総称するのが正式である。
親鸞のみ「宗祖」と呼称、「聖人」と敬称する。
宗祖親鸞以降の歴代は、「第○○代」と漢数字を用いて「代」で呼称し、「第○○世」と呼称しない。敬称は、「上人」を用いる。なお在職中は、「上人」の敬称を付さない。
 例…「第八代 蓮如上人」・「第二十五代 大谷暢顯」
 「※」は、大谷廟堂留守職・本願寺留守職のうち歴代に数えない者と、真宗大谷派門首代行である。
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≪本尊≫
 本尊は、阿弥陀如来一仏を本尊とする。本尊とともに安置する影像寺院などに安置する影像は、「正法弘通の恩徳を謝するため、宗祖親鸞聖人、聖徳太子、七高僧及び歴代門首の影像を安置する。」と定める。
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真宗大谷派 54

2015-11-23 04:16:53 | 宗教
 真宗大谷派
【歴代】
*大谷派における歴代の正式呼称に関する注意
歴代の留守職・法主・門主を「歴代門首」と呼称し、「大谷派御歴代」と総称するのが正式である。
親鸞のみ「宗祖」と呼称、「聖人」と敬称する。
宗祖親鸞以降の歴代は、「第○○代」と漢数字を用いて「代」で呼称し、「第○○世」と呼称しない。敬称は、「上人」を用いる。なお在職中は、「上人」の敬称を付さない。
 例…「第八代 蓮如上人」・「第二十五代 大谷暢顯」
 「※」は、大谷廟堂留守職・本願寺留守職のうち歴代に数えない者と、真宗大谷派門首代行である。
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≪運営の目的≫
 『宗憲』第2条に「本派は、宗祖親鸞聖人の立教開宗の精神に則り、教法を宣布し、儀式を執行し、その他教化に必要な事業を行い、もって同朋社会を実現することを目的とする。」と定める。
 運営の根幹となる方針(『宗憲』の前文より抜粋)
同朋社会の顕現「すべて宗門に属する者は、常に自信教人信の誠を尽くし、同朋社会の顕現に努める。」宗本一体「宗祖親鸞聖人の真影を安置する真宗本廟は、宗門に属するすべての人の帰依処であるから、宗門人はひとしく宗門と一体としてこれを崇敬護持する。」同朋公議「宗門の運営は、何人の専横専断をも許さず、あまねく同朋の公議公論に基づいて行う。」
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浄土真宗 ② 

2015-11-18 04:28:19 | 宗教
 浄土真宗
◇親鸞における「浄土真宗」親鸞の著書に記されている「浄土真宗」・「真宗」(・「浄土宗」)とは、宗旨名としての「浄土真宗」(「浄土宗」)のことではなく、「浄土を顕かにする真実の教え」であり、端的に言うと「法然から伝えられた教え」のことである。親鸞自身は独立開宗の意思は無く、法然に師事できたことを生涯の喜びとした。
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今神社 秋の大祭 ~片付~

2015-10-10 19:53:12 | 宗教
 16:00-16:50 今神社
◇秋の大祭の片付です。お疲れ様でした。
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今神社 秋の大祭 ~準備~

2015-10-10 09:56:50 | 宗教
 7:30-20:30 今神社
◇今日は、朝から秋の大祭の準備です。
 
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浄土宗 71

2015-10-02 14:54:54 | 宗教
 浄土宗
●法然上人37年の布教活動から
 京都・東山「吉水の庵」。浄土宗を開いた法然上人が、念仏往生の教えを人々に広めるために結んだ庵。法然上人のここでの布教活動は、流罪となった晩年の数年間を除き、開宗の43歳から80歳で生涯を閉じるまでの長きにわたり、浄土宗の中心地となっていました。現在の総本山知恩院がここに建てられました。
 ここには、多くの人々が法然上人を慕って集まってきました。教えを聞きにきた僧、さまざまな悩みをかかえた庶民、戦乱にあけくれて地獄行きを覚悟した武者たち・・・。庶民や女性、殺生をした者には救いの道がないとされていた当時の仏教。そんななかで、だれもが平等に救われるという法然上人の念仏往生の教えは人々に光明を与えました。
 そうした人々の中から、出家をして法然上人の教えをうける多くのお弟子たちが生まれました。法然上人亡き後の浄土宗を支え、全国津々浦々にまでお念仏の教えを広めたお弟子もいれば、師に先立って亡くなったお弟子もいます。また、名前しか知られていないお弟子も多くいます。
 その中から主だったお弟子たちと法然上人との関係を紹介しましょう。
現代に生きる私たちに連綿と伝わる念仏の教え、その礎を築いたお弟子たちの横顔です。
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【教えを広めた弟子たち】
その他の弟子たち
・隆寛(りゅうかん)
・成覚房幸西(せいかくぼうこうさい)
・正信房(聖信房)湛空(たんくう)
・覚明房長西(ちょうさい)
・蓮寂房信慧(しんえ)
・記主良忠(きしゅりょうちゅう)
・然空(ねんくう)
・良空(りょうくう)
・道光(どうこう)
●良暁(りょうぎょう)
•尊観(そんかん)
•性心
●良暁(りょうぎょう)(寂恵、智慧光ともいう。)1251-1328(建長3-喜暦3)
 良忠の後継者として鎮西流の興隆に尽力、やがて白旗派の派祖として今日ある浄土宗の基礎を作った人。
 浄土宗第四祖。石見国三隅庄(いわみのくにみすみ)(島根県那賀郡)の人。良忠の長男ともいわれる。
 69年(文永6)比叡山に登り、翌年東塔南谷極楽房の仙暁について出家授戒。3年間天台宗の学問に励む。
 72年(文永9)良忠大病の報によって鎌倉に下り、良忠から自房悟真寺(佐介谷(さすけがやつ))の房地と寺領(鳩井)を譲られた。 良暁はやがて檀越大仏時遠に認められ、76年(建治2)良忠上洛のときは、性心や尊観らと一緒に奥義の相伝を受け、良忠の代理として悟真寺を守り、また、この時上野国(こうずけのくに)(群馬県)に善栄寺を創建、布教にも活躍した。
 京都で献身的な活躍を続けた良忠は、86年(弘安9)鎌倉に帰り、法然・弁長・良忠三代相承の九条の袈裟、松影の硯、『阿弥陀経』などを文書にして良暁に授け、さらに浄土宗の奥義のほか、翌年には『伝通記』以下の注釈類をすべて伝授して後継者の立場を明確にした。 ところが良忠が入寂すると、数多くいた門下の中で、正統性をめぐって分裂が生じた。すなわち藤田派性心・一条派然空・名越派尊観・木幡派良空・三条派道光らは、それぞれ自信に満ちた態度で布教に専念し、それぞれ自派の正統を主張するようになった。
 こうした中で年少の良暁も懸命に宣伝につとめ一歩も譲らなかった。やがて尊観と正面から対立するようになった。 互いには付法相伝の骨子となるのは『末代念仏授手印』で、いずれが弁長の正本を使用したかということであるが、内容に変りはない。問題は解釈の相違で、一念業成(いちねんごうじよう)の尊観に対し、多念業成を主張する良暁の立場である。 しかも良暁は、これを裏付けるために『伝通記』や口伝をも授与して弟子たちを納得させている。良暁が門下の異義を除くために作った『口伝鈔』に対して、尊観は1314年(正和3)『浄土十六箇条疑問答』を作って論難し、やがて個人的な批難にまで及んでいった。
 良暁は20年(元応2)再度定恵に付法状を授与して正統をのべ、22年(元亨2)には寂仙に付法を授けるというように、積極的な付法を行ない、『浄土述聞鈔追加』を書き、24年には『浄土述聞見鈔』『浄土術聞口伝切紙』と宗義の詳説を続け、翌25年(正中2)には起請文の形をとった『述聞副文』を書いて門下の疑問に答えている。こうした中で相模国(神奈川県)芦名に浄楽寺を創建、武蔵鵜木光明寺で教化するなど布教発展にも意を配った。
 晩年弟子定恵に悟真寺を譲った後も活躍を続けた。著書は多く、前述のほかに『決疑鈔見聞』『伝通記見聞』『東宗要見聞』『重書無題鈔』『選択集見聞』『浄土述聞鈔』などがある(3・1寂)
(浄土宗大辞典より)
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浄土宗 70

2015-09-27 03:44:20 | 宗教
 浄土宗
●法然上人37年の布教活動から
 京都・東山「吉水の庵」。浄土宗を開いた法然上人が、念仏往生の教えを人々に広めるために結んだ庵。法然上人のここでの布教活動は、流罪となった晩年の数年間を除き、開宗の43歳から80歳で生涯を閉じるまでの長きにわたり、浄土宗の中心地となっていました。現在の総本山知恩院がここに建てられました。
 ここには、多くの人々が法然上人を慕って集まってきました。教えを聞きにきた僧、さまざまな悩みをかかえた庶民、戦乱にあけくれて地獄行きを覚悟した武者たち・・・。庶民や女性、殺生をした者には救いの道がないとされていた当時の仏教。そんななかで、だれもが平等に救われるという法然上人の念仏往生の教えは人々に光明を与えました。
 そうした人々の中から、出家をして法然上人の教えをうける多くのお弟子たちが生まれました。法然上人亡き後の浄土宗を支え、全国津々浦々にまでお念仏の教えを広めたお弟子もいれば、師に先立って亡くなったお弟子もいます。また、名前しか知られていないお弟子も多くいます。
 その中から主だったお弟子たちと法然上人との関係を紹介しましょう。
現代に生きる私たちに連綿と伝わる念仏の教え、その礎を築いたお弟子たちの横顔です。
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【教えを広めた弟子たち】
その他の弟子たち
・隆寛(りゅうかん)
・成覚房幸西(せいかくぼうこうさい)
・正信房(聖信房)湛空(たんくう)
・覚明房長西(ちょうさい)
・蓮寂房信慧(しんえ)
・記主良忠(きしゅりょうちゅう)
・然空(ねんくう)
・良空(りょうくう)
●道光(どうこう)
•良暁(りょうぎょう)
•尊観(そんかん)
•性心
●道光(どうこう)1243-1330(寛元1-元徳2)
 字は了慧・望西楼・蓮華堂。諡号は広済和尚という。三條派の派祖。法然上人 ・弁長・良忠三代の伝記を作り円頓戒の精通者として有名。 相模国(神奈川県)鎌倉に宍戸常重の子として生まれる。1253年(建長5)比叡山に登って尊恵に師事、顕密諸宗の学問を修めた。 いつごろ浄土宗に転宗したのか明らかでないが、74年(文永2)には散在していた法然の語録を集めて『和語燈録』『漢語燈録』の編纂を行なっており、これ以前に転宗したことは事実。  集録された語録の中には疑問のものもあるが、現物の少ない現在では貴重であり、法然研究の上に残した功績は大きい。 道光は76年(建治2)上洛した良忠に師事、80年(弘安3)には『末代念仏授手印』を授けられ、学問の力量を認められた。 もともと道光は比叡山時代から博識の人であったが、ことに『法華経』に精通し、円頓戒の研究では有名であった。
77年(建治3)には洛陽華蔵寺で慈明から、79年(弘安2)には良忠から、84年(同7)には万寿禅院で覚空から、それぞれ円頓戒を相承している。 自身をえた道光は京都三條の悟真寺を中心として鎮西流正統の布教活動を続け『末代念仏授手印』と円頓戒の2つを伝授してとくに伏見天皇に円頓戒を授けたのを機に、貴族の間にその教えを広めた功績が認められ、御醍醐天皇から広済和尚の和尚号を賜わったという。 また84年(同7)には弁長の別伝を作り、87年(同10)良忠が入寂すると、すぐ恩師良忠の別伝を作ってその恩に報いている。 96年(永仁4)には『選択大綱鈔』、翌年には『無量寿経鈔』を著わした。この『無量寿経鈔』は慈心の要請によって書きあげ、完成ののちに慈心と然空が完治したという。 ということは、慈心・然空と並んで良忠門下三傑の一人として活躍し、互いに力を合せて鎮西流の団結を密にすると同時に、その基礎を固めた功績を評価しなければならない。 『選択集』に関する異流の解釈を歎き、『新扶選択報恩集』『扶選択正輪通義』を著わして宗義を顕揚したのは、そのあらわれといってよい。
このほかに『往生論註略鈔』『往生論註拾遺鈔』『往生拾因私記』『無量寿経大意』『菩薩戒疏見聞』『尊問愚答記』『伝通記料簡鈔』『知恩伝』など、多くの著述を残している。 このようにして道光の著述は多くの人びとに影響を与え、後継者の了忠もその学説を主張した。 それにより悟真寺は栄え、地名にちなんで三條流といわれた。血脈の上では、この後、浄忠・良禅・妙徳・妙実と相伝されているが、15世紀のなかばになると人材も乏しくなり、やがて木幡派と同様、関東から上洛して発揮する白旗派に合流していった。 それにしても浄土宗発展の上で、道光の功績は高く評価しなければならない。
(浄土宗大辞典より)
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