● 浄土宗
◇選択集について
選択集は、建久8年(1197)に現在でいえば「前総理大臣」という立場にあった九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」という切望に応じられ、建久9年(1198)の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。
【選擇本願念佛集】
法然上人の選擇本願念佛集を読んでみましょう。 原文は漢文で書かれていますが、今回は書き下してあります。
第一 聖道浄土二門篇
第二 雑行を捨てて正行に帰する篇
第三 念仏往生本願篇
第四 三輩念仏往生篇
第五 念仏利益篇
第六 末法万年に特り念仏を留むる篇
第七 光明ただ念仏の行者を摂する篇
● 第八 三心篇
第九 四修法篇
第十 化仏讃歎篇
第十一 雑善に約対して念仏を讃歎する篇
第十二 仏名を付属する篇
第十三 念仏多善根遍
第十四 六方諸仏ただ念仏の行者を証誠したまう篇
第十五 六方諸仏護念篇
第十六 弥陀の名号を以て舎利弗に付属したまう篇
【第八章段】念仏の行者必ず三心を具足すべきの文
『観無量寿経』に云わく、もし衆生有って、彼の国に生ぜんと願う者は、三種の心を発して、すなわち往生す。何等をか三とす。一には至誠心、二には深心、三には回向発願心なり。三心を具する者は、必ず彼の国に生ず。
同経の『疏』に云く。『経』に「一者至誠心」と云うは、至とは真なり。誠とは実なり。一切衆生の身口意業に修する所の解行、必ず真実心の中に作すべきことを明さんと欲す。外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ。貧嗔邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難く、事、蛇蝎に同じきは、三業を起すといえども、名づけて雑毒の善と為し、また虚仮の行と名づけ、真実の業と名づけず。もしかくのごときの安心起行を作す者は、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走り急に作すこと、頭燃を炙うがごとくなるも、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回して、彼の仏の浄土に生ぜんことを求めんと欲する者は、これ必ず不可なり。何を以ての故に。正しく彼の阿弥陀仏の因中に、菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業に修する所、皆これ真実心の中に作し、およそ施為趣求する所、また皆真実なるに由ってなり。また真実に二種有り。一には自利の真実、二には利他の真実なり。自利の真実と言うは、また二種有り。一には真実心の中に、自他の諸悪および穢国等を制捨して、行住坐臥に一切の菩薩の諸悪を制捨するに同じく、我れもまたかくのごとくならんと想う。二には真実心中に、自他凡聖等の善を勤修し、真実心中の口業に、彼の阿弥陀仏および依正二報を讃歎し、また真実心中の口業に三界六道等の自他の依正二報の苦悪の事を毀厭し、また一切衆生の三業に為す所の善を讃歎す。もし善業に非ざるは敬ってこれを遠ざけ、また随喜せざるなり。また真実心中の身業に合掌礼敬して、四事等を以て彼の阿弥陀仏および依正二報を供養す。また真実心中の身業にこの生死三界等の自他の依正二報を軽慢し厭捨す。また真実心中の意業に彼の阿弥陀仏および依生二報を思想、観察、憶念して目前に現ずるがごとくすべし。また真実心中の意業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽賤し、厭捨す。不善の三業をば必ずすべからく真実心中に捨すべし。またもし善の三業を起せば、必ずすべからく真実心中に作すべし。内外明闇を簡ばず、皆すべからく真実なるべし。故に至誠心と名づく。
「二には深心」。深心と言うは、すなわちこれ深く信ずるの心なり。また二種有り。一には決定して、深く自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より巳来常に没し、常に流転して、出離の縁有ること無しと信ず。二には決定して、深く彼の阿弥陀仏四十八願をもって、衆生を摂受したまう。疑なく慮無く、彼の願力に乗じて、定んで往生を得と信ず。また決定して、深く釈迦仏この『観経』の三福九品、定散二善を説いて、彼の仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまうと信ず。また決定して、深く『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏、一切凡夫決定して生ずることを得と証勧したまうと信ず。また深信とは、仰ぎ願わくは、一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して依行せよ。仏の捨てしめたまう者はすなわち捨て、仏の行ぜしめたまう者をばすなわち行じ、仏の去らしめたまう処をばすなわち去れ。これを仏教に隨順し、仏意に隨順すと名づけ。これを仏願に隨順すと名づけ、これを真の仏弟子と名づく。
また一切の行者、ただ能くこの『経』に依って深く信じて行ずる者は、必ず衆生をあやまらず。何を以ての故に。仏はこれ大悲を満足する人なるが故に。実語したまうが故に。仏を除いて已還は、智行いまだ満ぜず。その学地に在って、なお正習二障有っていまだ除かず、果願いまだ円ならず。これ等の凡聖は、たとい諸仏の教意を測量するも、いまだ決了すること能わず。平章すること有りといえども、要らずすべからく仏の証を請うて定と為すべし。もし仏意に称えば、すなわち印可して如是如是と言いたまう。もし仏意に可わざれば、すなわち汝等が説く所は、この義不如是と言いたまう。印せざる者は、すなわち無記、無利、無益の語に同じ。仏の印可したまう者は、すなわち仏の正教に隨順す。もし仏の所有る言説は、すなわちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多、もしは少、すべて菩薩人天等を問わず、その是非を定むるなり。もし仏の所説はすなわちこれ了教なり。菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づく。まさに知るべし。この故に今時仰いで勧む、一切有縁の往生人等、ただ深く仏語を信じて、専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教を信用して、以て疑碍を為し、惑をいだいて自ら迷い、往生の大益を廃失すべからず。
また深心は、深信なりとは、決定して自心を建立して、教に順じて修行して、永く疑錯を除いて、一切の別解・別行・異学・異見・異執の為に、退失傾動せられざるなり。
問うて曰く、凡夫は智浅く、惑障処り深し。もし解行不同の人、多く経論を引き来って相い妨難し、証して一切罪障の凡夫、往生を得ずと云うに逢わば、云何が彼の難を対治して、信心を成就し、決定してただちに進んで、怯退を生ぜざらんや。
答えて曰く、もし人有って、多く経論を引いて、証して生ぜずと云わば、行者すなわち報えて云え。仁者経論を将ち来って、証して生ぜずと道うといえども、我が意のごときは、決定して汝が破を受けず。何を以ての故に。然るに我れまたこれ彼の諸の経論を信ぜざるにはあらず。ことごとく皆仰いで信ず。然れども仏、彼の経を説きたまう時は、処別に、時別に、対機別に、利益別なり。また彼の経を説きたまう時は、すなわち『観経』『弥陀経』等を説きたまう時に非ず。然るに仏の説教は機に備う。時また同じからず。彼れはすなわち通じて人天菩薩の解行を説き、今は『観経』の定散二善を説いて、ただ韋提および仏滅後の五濁、五苦等の一切の凡夫の為に、証して生ずることを得と言えり。この因縁の為に、我れ今一心にこの仏教に依り決定して奉行す。たとい汝等百千万億あって生ぜずと道うとも、ただ我が往生の信心を増長し成就せん。
また行者更に向って説いて言え。仁者善く聴け、我れ今汝の為に、更にに決定の信相を説かん。たとい地前の菩薩・羅漢・辟支等、もしは一、もしは多、乃至十方に遍満して、皆経論を引いて、証して生ぜずと言うとも、我れまたいまだ一念の疑心を起こさじ。ただ我が清浄の信心を増長し成就せん。何を以ての故に。仏語は決定成就の了義にして、一切の為に破壊せられざるに由るが故に。
また行者善く聴け。たとい初地已上、十地已来、もしは一、もしは多、乃至十方に遍満して、異口同音に皆、釈迦仏、弥陀を指讃し、三界六道を毀呰し、衆生を勧励して、専心に念仏し、および余善を修し、この一身を畢えて後、必定して彼の国に生ずというは、これ必ず虚妄なり。依信すべからずと云わんに、我れこれ等の所説を聞くといえども、また一念の疑心を生ぜず。ただ我が決定上上の信心を増長し成就せん。何を以ての故に。すなわち仏語は、真実決了の義なるに由るが故に。仏はこれ実知・実解・実見・実証にして、この疑惑心中の語に非ざるが故に。また一切の菩薩、異見異解の為に破壊せられず。もし実にこれ菩薩ならば、すべて仏教に違わざるなり。
またこの事を置く。行者まさに知るべし。たとい化仏・報仏、もしは一、もしは多、乃至十方に遍満して、各に光を輝かし、下を吐いて、遍く十方に覆って、一一に説いて、釈迦の所説相い讃じて、一切の凡夫を勧発して、専心に念仏しおよび余善を修し、回願して彼の浄土に生ずることを得というは、これはこれ虚妄なり。定んでこの事無しと言わんに、我れこれ等の諸仏の所説を聞くといえども、畢竟じて一念疑退の心を起こして、彼の仏の国に生ずることを得ざらんことを畏れず。何を以ての故に。一仏は一切仏なり。あらゆる知見・解行・証悟・果位・大悲等同に少しの差別無し。この故に一仏の制する所は、すなわち一切の仏同じく制したまう。前仏の殺生十悪等の罪を制断したまうに、畢竟じて犯ぜず、行ぜざる者は、すなわち十善・十行・隨順六度の義と名づくるがごとく、もし後仏出世すること有らんに、あに前の十善を改めて、十悪を行ぜしむべけんや。この道理を以て推験するに、明らかに知んぬ。諸仏の言行は相い違失せず。たとい釈迦一切の凡夫を指勧し、この一身を尽して、専念専修して、命を捨てて已後、定んで彼の国に生ずというは、すなわち十方の諸仏も、ことごとく皆同じく讃じ、同じ勧め、同じく証したまう。何を以ての故に。同体の大悲なるが故に。一仏の所化は、すなわちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなわちこれ一仏の所化なり。すなわち『弥陀経』の中に説く、釈迦極楽の種々の荘厳を讃歎したまえり。また一切の凡夫、一日七日、一心に専ら弥陀の名号を念ずれば、定んで往生を得と勧めたまう。次ぎ下の文に云く、「十方に各恒河沙等の諸仏有って、同じく釈迦能く、五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩、悪邪無信の盛なる時において、弥陀の名号を指讃して、衆生称念すれば、必ず往生を得と勧励したまうを讃じたまう」と。すなわちその証なり。また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんことを恐畏れて、すなわちともに、同心同時に、各舌相を出して、遍く三千世界に覆って、誠実の言を説きたまう。汝等衆生、皆まさにこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問わず、ただ能く上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心に専ら、弥陀の名号を念ずれば、定んで往生を得ること、必ず疑い無きなり。この故に一仏の所説は、すなわち一切仏、同じくその事を証誠したまう。これを人に就いて信を立つと名づく。
次、行に就いて信を立つとは、然るに行に二種有り。一には正行、二には雑行なり。云々前の二行の中に引く所のごとし 繁を恐れて載せず見ん人意を得よ。
「三には回向発願心」。回向発願心と言うは、過去および今生の身口意業に修する所の世出世の善根および他の一切の凡聖の身口意業に修する所の世出世の善根および他の一切の凡聖の身口意業に修する所の世出世の善根を隨喜し、この自他の所修の善根を以て、ことごとく皆真実深心の心の中に回向して、彼の国に生ぜんと願ず。故に回向発願心と名づく。また回向発願して、生ぜんと願ずる者は、必ずすべからく決定して真実心の中に回向し願じて、得生の想いを作すべし。この心深く信ずることなおし金剛のごとく、一切の異見・異学・別解・別行の人等の為に動乱破壊せられず。ただこれ決定して一心に投じ正直に進んで、彼の人の語を聞いてすなわち進退し、心に怯弱を生ずること有って、回顧落道して、すなわち往生の大益を失うことを得ざれ。
問うて曰く、もし解行不同邪雑の人等有って、来って相い惑乱し、あるいは種種の疑難を説いて往生を得ずと道い、あるいは云わん汝等衆生、曠劫より巳来、および今生の身口意業に一切凡聖の身上において、つぶさに十悪・五逆・四重・謗法・闡堤・破戒・破見等の罪を造って、いまだ除尽すること能わず。然るにこれ等の罪は、三界の悪道に繋属す。云何ぞ一生の修福念仏をもって、すなわち彼の無漏無生の国に入って、永く不退の位を証悟することを得んやと。
答えて曰く、諸仏の教行、数、塵沙に越え、稟識の機縁、隨情一に非ず。譬えば世間の人の、眼に見つべく信ずべきごときは、明能く闇を破し、空能く有を含み、地は能く載養し、水は能く生潤し、火は能く成壊するがごとし。かくのごとき等の事、ことごとく待対の法と名づく。目に即して見つべし。千差万別なり。何にいわんや仏法不思議の力、あに種種の益無からんや。隨って一門を出ずれば、すなわち一煩悩門を出ず。随って一門に入れば、すなわち一解脱智慧門に入る。これに為って縁に随って行を起して、各解脱を求む。汝何を以てか、すなわち有縁に非ざる要行を将て、我を障惑するや。然るに我が愛する所は、すなわちこれ我が有縁の行なり。すなわち汝が求むる所に非ず。汝が愛する所は、すなわちこれ汝が有縁の行なり。また我求める所に非ず。この故に各楽う所に随って、その行を修すれば、必ず疾く解脱を得るなり。行者まさに知るべし。もし解を学せんと欲せば、凡より聖に至り、乃至仏果まで、一切無礙に、皆学することを得よ。もし行を学せんと欲せば、必ず有縁の法に籍れ。少し功労を用いるに、多く益を得るなり。
また一切の往生人等に白す。今更に行者の為に、一の譬喩を説いて、信心を守護して以て外邪異見の難を防がん。何者か是なるや。譬えば人有って、西に向って百千の里を行かんと欲するがごとき、忽然として中路に二河有るを見る。一にはこれ火の河、南に有り。二にはこれ水の河、北に在り。二河各闊さ百歩、各深くして底無く、南北辺無し。水火の中間に一の白道有り。闊さ四五寸許りなるべし。この道、東岸の西岸に至るまで、また長さ百歩なり。その水の波浪こもごも過ぎて道を湿し、その火の焔、また来って道を焼く。水火相い交って常に休息すること無し。この人すでに空曠の迥かなる処に至るに、更に人物無し。多く群賊悪獣のみ有り、この人の単独なるを見て、競い来って、殺さんと欲す。この人死を恐れて、ただちに走って西に向えば、忽然としてこの大河を見る。すなわち自ら念言すらく、この河南北辺畔を見ず。中間に一つの白道をみ見るも極めてこれ狭少なり。二岸相い去ること近しといえども、何に由ってか行くべき。今日定めて死すこと疑わず。まさに到り回らんと欲すれば、群賊悪獣漸々に来り逼む。まさに南北に避け走らんと欲すれば、悪獣毒虫、競い来って我れに向う。まさに西に向い道を尋ねて去らんと欲すれば、また恐らくはこの水火の二河に堕すことを。時に当たって惶怖また言うべからず。すなわち自ら思念すらく、我れ今回るともまた死なん。住まるともまた死なん。去るともまた死なん。一種として死を勉れず、我れ、むしろこの道を尋ねて前に向って去らん。すでにこの道有り。必ずまさに度るべし。この念を作す時、東岸にたちまち人の勧むる声を聞く。仁者ただ決定して、この道を尋ねて行け。必ず死の難無けん。もし住まらば、すなわち死なん。また西岸の上に人有って、喚んで言く。汝一心正念にただちに来たれ。我れ能く汝を護らん。すべて水火の難に堕すことを畏れざれと。この人すでにここに遣り、かしこに喚起ぶを聞いて、すなわち自ら身心を正当にして、決定して道を尋ねて、ただちに進んで、疑怯退の心を生ぜず。あるいは行くこと一分二分するに、東岸の群賊等喚んで言く、仁者回り来れ。この道嶮悪にして過ぐることを得じ。必ず死すこと疑わず。我等すべて悪心をもって、相い向うこと無しと。この人喚ぶ声を聞くといえども、また回り顧ず。一心にただちに進んで、道を念って行けば、須臾にすなわち西岸に到り、永く諸難を離れ、善友と相い見えて慶楽巳むこと無し。これはこれ喩なり。
次に喩を合せば、東岸と言うは、すなわちこの娑婆の火宅に譬う。西岸と言うは、すなわち極楽の宝国に喩う。群賊悪獣詐り親しむと言うは、すなわち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩う。人無き空迥の沢と言うは、すなわち常に悪友に随って、真の善知識に値わざるに喩う。水火の二河と言うは、すなわち衆生の貧愛は水のごとく、瞋憎は火のごときに喩う。中間の白道四五寸と言うは、すなわち衆生の貧瞋煩悩の中に、能く清浄の願往生の心を生ずるに喩う。すなわち貧瞋強きに由るが故にすなわち水火のごとしと喩う。善心微なるが故に白道のごとしと喩う。また水波常に道を湿すとは、すなわち愛心常に起って、能く善心を染汚するに喩う。また火焔常に道を焼くとは、すなわち瞋嫌の心、能く功徳の法財を焼くに喩う。人道の上を行きて、ただちに西に向うと言うは、すなわち諸の行業を回して、ただちに西方に向うに喩う。東岸に人の声あって、勧め遺るを聞いて、道を尋ねてただちに西に進むと言うは、すなわち釈迦すでに滅して後の人見ざれども、なお教法有って尋ぬべきに喩う。すなわち是を喩えるに声のごとし。あるいは行くこと一分二分するに、群賊等喚び回すと言うは、すなわち別解・別行・悪見人等の妄りに見解を説いて、迭いに相い惑乱し、および自ら罪を造って退失するに喩う。西岸の上に人有って喚ぶと言うは、すなわち弥陀の願意に喩う。須臾に西岸に到れば、善友相い見えて喜ぶと言うは、すなわち衆生久しく生死に沈んで、曠劫に輪回し、迷倒自纏して、解脱するに由し無し。仰いで釈迦発遣して西方に指し向わしむるを蒙り、また弥陀の悲心をもって、招喚したまうに藉って、今二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず。念念に遺るること無く、彼の願力の道に乗じて、命を捨てて巳後、彼の国に生ずることを得て、仏と相い見えて、慶喜何ぞ極らんというに喩う。また一切の行者、行住坐臥、三業に修する所、昼夜時節を問うこと無く、常にこの解を作し、常にこの想を作す。故に回向発願心と名づく。また回向と言うは、彼の国に生じ巳って、還って大悲を起し、生死に回入して、衆生を教化するをまた回向と名づく。三心すでに具すれば、行として成ぜずという事無し。願行すでに成じて、もし生ぜずば、この処有ること無し。またこの三心は、また通じて定善を摂する義まさに知るべし。
『往生礼讃』に云く。問うて曰く、今人を勧めて、往生せしめんと欲せば、いまだ知らず、若為が安心し、起行し、作業して、定んで彼の国土に往生することを得るや。
答えて曰く、必ず彼の国土に生ぜんと欲せば、『観経』に説くがごときは、三心を具すれば、必ず往生を得。何等を三とす。一には至誠心、いわゆる身業に彼の仏を礼拝し、口業に彼の仏を讃歎称揚し、意業に彼の仏を専念観察す。およそ三業を起すに、必ずすべからく真実なるべし。故に至誠心と名づく。二には深心、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして、三界に流転して、火宅を出でずと信知し、今弥陀の本弘誓願、名号を称すこと、下、十声一声等に至るに及ぶまで、定んで往生を得と信知して、乃至一念も疑心有ること無し。故に深心と名づく。三には回向発願心、作す所の一切の善根、ことごとく皆回して往生を願ず。故に回向発願心と名づく。この三心を具すれば、必ず生ずることを得。もし一心をも少けぬれば、すなわち生ずることを得ず。『観経』につぶさに説くがごとし。まさに知るべし。
私に云く、引く所の三心は、これ行者の至要なり。所以は何ん。『経』にはすなわち「三心を具する者は、必ず彼の国に生ず」と云う。明らかに知んぬ。三を具して必ず生ずることを得べし。『釈』にはすなわち「もし一心をも少けぬればすなわち生ずることを得ず」と云う。明らかに知んぬ。一も少けぬれば、これ更に不可なることを。これに因って極楽に生ぜんと欲せん人は、全く三心を具足すべし。その中に至誠心とはこれ真実の心なり。その相、彼の文のごとし。ただし外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くとは、外は内に対する辞なり。謂く、外相と内心と調はざるの意なり。すなわちこれ外は智にして内は愚なり。賢は愚に対するの言なり。謂く、外はこれ賢にして、内はすなわち愚なり。善は悪に対する辞なり。謂く、外はこれ善にして、内はすなわち悪なり。精進は懈怠に対する言なり。謂く、外には精進の相を示し、内にはすなわち懈怠の心を懐く。もしそれ外を飜じて内に蓄えば祇に出要に備うべし。「内懐虚仮」等とは、内は外に対する辞なり。謂く、内心と外相と調はざるの意なり。すなわちこれ内は虚にして、外は実なり。虚は実に対する言なり。謂く、内は虚、外は実なる者なり。仮は真に対するの辞なり。謂く、内は仮にして外は真なり。もしそれ内を飜じて外に播さば、また出要に足るべし。
次に深心とは、謂く深く信ずるの心なり。まさに知るべし。生死の家には。疑を以て所止と為し、涅槃の城には、信を以て能入と為す。故に今二種の信心を建立して、九品の往生を決定する者なり。またこの中に、一切の別解・別行・異学・異見等と言うは、これ聖道門の解行学見を指す。その余はすなわちこれ浄土門の意なり。文に在って見るべし。明らかに知んぬ。善導の意、またこの二門を出でず。
回向発願心の義、別の釈を俟つべからす。行者まさにこれ知るべし。この三心は総じてこれを言えば、諸の行法に通じ、別してこれを言わば往生の行に在り。いま通を挙て別を摂す。意すなわち周し。行者能く用心して、あえて忽緒せしむること勿れ。
◇選択集について
選択集は、建久8年(1197)に現在でいえば「前総理大臣」という立場にあった九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」という切望に応じられ、建久9年(1198)の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。
【選擇本願念佛集】
法然上人の選擇本願念佛集を読んでみましょう。 原文は漢文で書かれていますが、今回は書き下してあります。
第一 聖道浄土二門篇
第二 雑行を捨てて正行に帰する篇
第三 念仏往生本願篇
第四 三輩念仏往生篇
第五 念仏利益篇
第六 末法万年に特り念仏を留むる篇
第七 光明ただ念仏の行者を摂する篇
● 第八 三心篇
第九 四修法篇
第十 化仏讃歎篇
第十一 雑善に約対して念仏を讃歎する篇
第十二 仏名を付属する篇
第十三 念仏多善根遍
第十四 六方諸仏ただ念仏の行者を証誠したまう篇
第十五 六方諸仏護念篇
第十六 弥陀の名号を以て舎利弗に付属したまう篇
【第八章段】念仏の行者必ず三心を具足すべきの文
『観無量寿経』に云わく、もし衆生有って、彼の国に生ぜんと願う者は、三種の心を発して、すなわち往生す。何等をか三とす。一には至誠心、二には深心、三には回向発願心なり。三心を具する者は、必ず彼の国に生ず。
同経の『疏』に云く。『経』に「一者至誠心」と云うは、至とは真なり。誠とは実なり。一切衆生の身口意業に修する所の解行、必ず真実心の中に作すべきことを明さんと欲す。外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ。貧嗔邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難く、事、蛇蝎に同じきは、三業を起すといえども、名づけて雑毒の善と為し、また虚仮の行と名づけ、真実の業と名づけず。もしかくのごときの安心起行を作す者は、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走り急に作すこと、頭燃を炙うがごとくなるも、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回して、彼の仏の浄土に生ぜんことを求めんと欲する者は、これ必ず不可なり。何を以ての故に。正しく彼の阿弥陀仏の因中に、菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業に修する所、皆これ真実心の中に作し、およそ施為趣求する所、また皆真実なるに由ってなり。また真実に二種有り。一には自利の真実、二には利他の真実なり。自利の真実と言うは、また二種有り。一には真実心の中に、自他の諸悪および穢国等を制捨して、行住坐臥に一切の菩薩の諸悪を制捨するに同じく、我れもまたかくのごとくならんと想う。二には真実心中に、自他凡聖等の善を勤修し、真実心中の口業に、彼の阿弥陀仏および依正二報を讃歎し、また真実心中の口業に三界六道等の自他の依正二報の苦悪の事を毀厭し、また一切衆生の三業に為す所の善を讃歎す。もし善業に非ざるは敬ってこれを遠ざけ、また随喜せざるなり。また真実心中の身業に合掌礼敬して、四事等を以て彼の阿弥陀仏および依正二報を供養す。また真実心中の身業にこの生死三界等の自他の依正二報を軽慢し厭捨す。また真実心中の意業に彼の阿弥陀仏および依生二報を思想、観察、憶念して目前に現ずるがごとくすべし。また真実心中の意業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽賤し、厭捨す。不善の三業をば必ずすべからく真実心中に捨すべし。またもし善の三業を起せば、必ずすべからく真実心中に作すべし。内外明闇を簡ばず、皆すべからく真実なるべし。故に至誠心と名づく。
「二には深心」。深心と言うは、すなわちこれ深く信ずるの心なり。また二種有り。一には決定して、深く自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より巳来常に没し、常に流転して、出離の縁有ること無しと信ず。二には決定して、深く彼の阿弥陀仏四十八願をもって、衆生を摂受したまう。疑なく慮無く、彼の願力に乗じて、定んで往生を得と信ず。また決定して、深く釈迦仏この『観経』の三福九品、定散二善を説いて、彼の仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまうと信ず。また決定して、深く『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏、一切凡夫決定して生ずることを得と証勧したまうと信ず。また深信とは、仰ぎ願わくは、一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して依行せよ。仏の捨てしめたまう者はすなわち捨て、仏の行ぜしめたまう者をばすなわち行じ、仏の去らしめたまう処をばすなわち去れ。これを仏教に隨順し、仏意に隨順すと名づけ。これを仏願に隨順すと名づけ、これを真の仏弟子と名づく。
また一切の行者、ただ能くこの『経』に依って深く信じて行ずる者は、必ず衆生をあやまらず。何を以ての故に。仏はこれ大悲を満足する人なるが故に。実語したまうが故に。仏を除いて已還は、智行いまだ満ぜず。その学地に在って、なお正習二障有っていまだ除かず、果願いまだ円ならず。これ等の凡聖は、たとい諸仏の教意を測量するも、いまだ決了すること能わず。平章すること有りといえども、要らずすべからく仏の証を請うて定と為すべし。もし仏意に称えば、すなわち印可して如是如是と言いたまう。もし仏意に可わざれば、すなわち汝等が説く所は、この義不如是と言いたまう。印せざる者は、すなわち無記、無利、無益の語に同じ。仏の印可したまう者は、すなわち仏の正教に隨順す。もし仏の所有る言説は、すなわちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多、もしは少、すべて菩薩人天等を問わず、その是非を定むるなり。もし仏の所説はすなわちこれ了教なり。菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づく。まさに知るべし。この故に今時仰いで勧む、一切有縁の往生人等、ただ深く仏語を信じて、専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教を信用して、以て疑碍を為し、惑をいだいて自ら迷い、往生の大益を廃失すべからず。
また深心は、深信なりとは、決定して自心を建立して、教に順じて修行して、永く疑錯を除いて、一切の別解・別行・異学・異見・異執の為に、退失傾動せられざるなり。
問うて曰く、凡夫は智浅く、惑障処り深し。もし解行不同の人、多く経論を引き来って相い妨難し、証して一切罪障の凡夫、往生を得ずと云うに逢わば、云何が彼の難を対治して、信心を成就し、決定してただちに進んで、怯退を生ぜざらんや。
答えて曰く、もし人有って、多く経論を引いて、証して生ぜずと云わば、行者すなわち報えて云え。仁者経論を将ち来って、証して生ぜずと道うといえども、我が意のごときは、決定して汝が破を受けず。何を以ての故に。然るに我れまたこれ彼の諸の経論を信ぜざるにはあらず。ことごとく皆仰いで信ず。然れども仏、彼の経を説きたまう時は、処別に、時別に、対機別に、利益別なり。また彼の経を説きたまう時は、すなわち『観経』『弥陀経』等を説きたまう時に非ず。然るに仏の説教は機に備う。時また同じからず。彼れはすなわち通じて人天菩薩の解行を説き、今は『観経』の定散二善を説いて、ただ韋提および仏滅後の五濁、五苦等の一切の凡夫の為に、証して生ずることを得と言えり。この因縁の為に、我れ今一心にこの仏教に依り決定して奉行す。たとい汝等百千万億あって生ぜずと道うとも、ただ我が往生の信心を増長し成就せん。
また行者更に向って説いて言え。仁者善く聴け、我れ今汝の為に、更にに決定の信相を説かん。たとい地前の菩薩・羅漢・辟支等、もしは一、もしは多、乃至十方に遍満して、皆経論を引いて、証して生ぜずと言うとも、我れまたいまだ一念の疑心を起こさじ。ただ我が清浄の信心を増長し成就せん。何を以ての故に。仏語は決定成就の了義にして、一切の為に破壊せられざるに由るが故に。
また行者善く聴け。たとい初地已上、十地已来、もしは一、もしは多、乃至十方に遍満して、異口同音に皆、釈迦仏、弥陀を指讃し、三界六道を毀呰し、衆生を勧励して、専心に念仏し、および余善を修し、この一身を畢えて後、必定して彼の国に生ずというは、これ必ず虚妄なり。依信すべからずと云わんに、我れこれ等の所説を聞くといえども、また一念の疑心を生ぜず。ただ我が決定上上の信心を増長し成就せん。何を以ての故に。すなわち仏語は、真実決了の義なるに由るが故に。仏はこれ実知・実解・実見・実証にして、この疑惑心中の語に非ざるが故に。また一切の菩薩、異見異解の為に破壊せられず。もし実にこれ菩薩ならば、すべて仏教に違わざるなり。
またこの事を置く。行者まさに知るべし。たとい化仏・報仏、もしは一、もしは多、乃至十方に遍満して、各に光を輝かし、下を吐いて、遍く十方に覆って、一一に説いて、釈迦の所説相い讃じて、一切の凡夫を勧発して、専心に念仏しおよび余善を修し、回願して彼の浄土に生ずることを得というは、これはこれ虚妄なり。定んでこの事無しと言わんに、我れこれ等の諸仏の所説を聞くといえども、畢竟じて一念疑退の心を起こして、彼の仏の国に生ずることを得ざらんことを畏れず。何を以ての故に。一仏は一切仏なり。あらゆる知見・解行・証悟・果位・大悲等同に少しの差別無し。この故に一仏の制する所は、すなわち一切の仏同じく制したまう。前仏の殺生十悪等の罪を制断したまうに、畢竟じて犯ぜず、行ぜざる者は、すなわち十善・十行・隨順六度の義と名づくるがごとく、もし後仏出世すること有らんに、あに前の十善を改めて、十悪を行ぜしむべけんや。この道理を以て推験するに、明らかに知んぬ。諸仏の言行は相い違失せず。たとい釈迦一切の凡夫を指勧し、この一身を尽して、専念専修して、命を捨てて已後、定んで彼の国に生ずというは、すなわち十方の諸仏も、ことごとく皆同じく讃じ、同じ勧め、同じく証したまう。何を以ての故に。同体の大悲なるが故に。一仏の所化は、すなわちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなわちこれ一仏の所化なり。すなわち『弥陀経』の中に説く、釈迦極楽の種々の荘厳を讃歎したまえり。また一切の凡夫、一日七日、一心に専ら弥陀の名号を念ずれば、定んで往生を得と勧めたまう。次ぎ下の文に云く、「十方に各恒河沙等の諸仏有って、同じく釈迦能く、五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩、悪邪無信の盛なる時において、弥陀の名号を指讃して、衆生称念すれば、必ず往生を得と勧励したまうを讃じたまう」と。すなわちその証なり。また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんことを恐畏れて、すなわちともに、同心同時に、各舌相を出して、遍く三千世界に覆って、誠実の言を説きたまう。汝等衆生、皆まさにこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問わず、ただ能く上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心に専ら、弥陀の名号を念ずれば、定んで往生を得ること、必ず疑い無きなり。この故に一仏の所説は、すなわち一切仏、同じくその事を証誠したまう。これを人に就いて信を立つと名づく。
次、行に就いて信を立つとは、然るに行に二種有り。一には正行、二には雑行なり。云々前の二行の中に引く所のごとし 繁を恐れて載せず見ん人意を得よ。
「三には回向発願心」。回向発願心と言うは、過去および今生の身口意業に修する所の世出世の善根および他の一切の凡聖の身口意業に修する所の世出世の善根および他の一切の凡聖の身口意業に修する所の世出世の善根を隨喜し、この自他の所修の善根を以て、ことごとく皆真実深心の心の中に回向して、彼の国に生ぜんと願ず。故に回向発願心と名づく。また回向発願して、生ぜんと願ずる者は、必ずすべからく決定して真実心の中に回向し願じて、得生の想いを作すべし。この心深く信ずることなおし金剛のごとく、一切の異見・異学・別解・別行の人等の為に動乱破壊せられず。ただこれ決定して一心に投じ正直に進んで、彼の人の語を聞いてすなわち進退し、心に怯弱を生ずること有って、回顧落道して、すなわち往生の大益を失うことを得ざれ。
問うて曰く、もし解行不同邪雑の人等有って、来って相い惑乱し、あるいは種種の疑難を説いて往生を得ずと道い、あるいは云わん汝等衆生、曠劫より巳来、および今生の身口意業に一切凡聖の身上において、つぶさに十悪・五逆・四重・謗法・闡堤・破戒・破見等の罪を造って、いまだ除尽すること能わず。然るにこれ等の罪は、三界の悪道に繋属す。云何ぞ一生の修福念仏をもって、すなわち彼の無漏無生の国に入って、永く不退の位を証悟することを得んやと。
答えて曰く、諸仏の教行、数、塵沙に越え、稟識の機縁、隨情一に非ず。譬えば世間の人の、眼に見つべく信ずべきごときは、明能く闇を破し、空能く有を含み、地は能く載養し、水は能く生潤し、火は能く成壊するがごとし。かくのごとき等の事、ことごとく待対の法と名づく。目に即して見つべし。千差万別なり。何にいわんや仏法不思議の力、あに種種の益無からんや。隨って一門を出ずれば、すなわち一煩悩門を出ず。随って一門に入れば、すなわち一解脱智慧門に入る。これに為って縁に随って行を起して、各解脱を求む。汝何を以てか、すなわち有縁に非ざる要行を将て、我を障惑するや。然るに我が愛する所は、すなわちこれ我が有縁の行なり。すなわち汝が求むる所に非ず。汝が愛する所は、すなわちこれ汝が有縁の行なり。また我求める所に非ず。この故に各楽う所に随って、その行を修すれば、必ず疾く解脱を得るなり。行者まさに知るべし。もし解を学せんと欲せば、凡より聖に至り、乃至仏果まで、一切無礙に、皆学することを得よ。もし行を学せんと欲せば、必ず有縁の法に籍れ。少し功労を用いるに、多く益を得るなり。
また一切の往生人等に白す。今更に行者の為に、一の譬喩を説いて、信心を守護して以て外邪異見の難を防がん。何者か是なるや。譬えば人有って、西に向って百千の里を行かんと欲するがごとき、忽然として中路に二河有るを見る。一にはこれ火の河、南に有り。二にはこれ水の河、北に在り。二河各闊さ百歩、各深くして底無く、南北辺無し。水火の中間に一の白道有り。闊さ四五寸許りなるべし。この道、東岸の西岸に至るまで、また長さ百歩なり。その水の波浪こもごも過ぎて道を湿し、その火の焔、また来って道を焼く。水火相い交って常に休息すること無し。この人すでに空曠の迥かなる処に至るに、更に人物無し。多く群賊悪獣のみ有り、この人の単独なるを見て、競い来って、殺さんと欲す。この人死を恐れて、ただちに走って西に向えば、忽然としてこの大河を見る。すなわち自ら念言すらく、この河南北辺畔を見ず。中間に一つの白道をみ見るも極めてこれ狭少なり。二岸相い去ること近しといえども、何に由ってか行くべき。今日定めて死すこと疑わず。まさに到り回らんと欲すれば、群賊悪獣漸々に来り逼む。まさに南北に避け走らんと欲すれば、悪獣毒虫、競い来って我れに向う。まさに西に向い道を尋ねて去らんと欲すれば、また恐らくはこの水火の二河に堕すことを。時に当たって惶怖また言うべからず。すなわち自ら思念すらく、我れ今回るともまた死なん。住まるともまた死なん。去るともまた死なん。一種として死を勉れず、我れ、むしろこの道を尋ねて前に向って去らん。すでにこの道有り。必ずまさに度るべし。この念を作す時、東岸にたちまち人の勧むる声を聞く。仁者ただ決定して、この道を尋ねて行け。必ず死の難無けん。もし住まらば、すなわち死なん。また西岸の上に人有って、喚んで言く。汝一心正念にただちに来たれ。我れ能く汝を護らん。すべて水火の難に堕すことを畏れざれと。この人すでにここに遣り、かしこに喚起ぶを聞いて、すなわち自ら身心を正当にして、決定して道を尋ねて、ただちに進んで、疑怯退の心を生ぜず。あるいは行くこと一分二分するに、東岸の群賊等喚んで言く、仁者回り来れ。この道嶮悪にして過ぐることを得じ。必ず死すこと疑わず。我等すべて悪心をもって、相い向うこと無しと。この人喚ぶ声を聞くといえども、また回り顧ず。一心にただちに進んで、道を念って行けば、須臾にすなわち西岸に到り、永く諸難を離れ、善友と相い見えて慶楽巳むこと無し。これはこれ喩なり。
次に喩を合せば、東岸と言うは、すなわちこの娑婆の火宅に譬う。西岸と言うは、すなわち極楽の宝国に喩う。群賊悪獣詐り親しむと言うは、すなわち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩う。人無き空迥の沢と言うは、すなわち常に悪友に随って、真の善知識に値わざるに喩う。水火の二河と言うは、すなわち衆生の貧愛は水のごとく、瞋憎は火のごときに喩う。中間の白道四五寸と言うは、すなわち衆生の貧瞋煩悩の中に、能く清浄の願往生の心を生ずるに喩う。すなわち貧瞋強きに由るが故にすなわち水火のごとしと喩う。善心微なるが故に白道のごとしと喩う。また水波常に道を湿すとは、すなわち愛心常に起って、能く善心を染汚するに喩う。また火焔常に道を焼くとは、すなわち瞋嫌の心、能く功徳の法財を焼くに喩う。人道の上を行きて、ただちに西に向うと言うは、すなわち諸の行業を回して、ただちに西方に向うに喩う。東岸に人の声あって、勧め遺るを聞いて、道を尋ねてただちに西に進むと言うは、すなわち釈迦すでに滅して後の人見ざれども、なお教法有って尋ぬべきに喩う。すなわち是を喩えるに声のごとし。あるいは行くこと一分二分するに、群賊等喚び回すと言うは、すなわち別解・別行・悪見人等の妄りに見解を説いて、迭いに相い惑乱し、および自ら罪を造って退失するに喩う。西岸の上に人有って喚ぶと言うは、すなわち弥陀の願意に喩う。須臾に西岸に到れば、善友相い見えて喜ぶと言うは、すなわち衆生久しく生死に沈んで、曠劫に輪回し、迷倒自纏して、解脱するに由し無し。仰いで釈迦発遣して西方に指し向わしむるを蒙り、また弥陀の悲心をもって、招喚したまうに藉って、今二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず。念念に遺るること無く、彼の願力の道に乗じて、命を捨てて巳後、彼の国に生ずることを得て、仏と相い見えて、慶喜何ぞ極らんというに喩う。また一切の行者、行住坐臥、三業に修する所、昼夜時節を問うこと無く、常にこの解を作し、常にこの想を作す。故に回向発願心と名づく。また回向と言うは、彼の国に生じ巳って、還って大悲を起し、生死に回入して、衆生を教化するをまた回向と名づく。三心すでに具すれば、行として成ぜずという事無し。願行すでに成じて、もし生ぜずば、この処有ること無し。またこの三心は、また通じて定善を摂する義まさに知るべし。
『往生礼讃』に云く。問うて曰く、今人を勧めて、往生せしめんと欲せば、いまだ知らず、若為が安心し、起行し、作業して、定んで彼の国土に往生することを得るや。
答えて曰く、必ず彼の国土に生ぜんと欲せば、『観経』に説くがごときは、三心を具すれば、必ず往生を得。何等を三とす。一には至誠心、いわゆる身業に彼の仏を礼拝し、口業に彼の仏を讃歎称揚し、意業に彼の仏を専念観察す。およそ三業を起すに、必ずすべからく真実なるべし。故に至誠心と名づく。二には深心、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして、三界に流転して、火宅を出でずと信知し、今弥陀の本弘誓願、名号を称すこと、下、十声一声等に至るに及ぶまで、定んで往生を得と信知して、乃至一念も疑心有ること無し。故に深心と名づく。三には回向発願心、作す所の一切の善根、ことごとく皆回して往生を願ず。故に回向発願心と名づく。この三心を具すれば、必ず生ずることを得。もし一心をも少けぬれば、すなわち生ずることを得ず。『観経』につぶさに説くがごとし。まさに知るべし。
私に云く、引く所の三心は、これ行者の至要なり。所以は何ん。『経』にはすなわち「三心を具する者は、必ず彼の国に生ず」と云う。明らかに知んぬ。三を具して必ず生ずることを得べし。『釈』にはすなわち「もし一心をも少けぬればすなわち生ずることを得ず」と云う。明らかに知んぬ。一も少けぬれば、これ更に不可なることを。これに因って極楽に生ぜんと欲せん人は、全く三心を具足すべし。その中に至誠心とはこれ真実の心なり。その相、彼の文のごとし。ただし外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くとは、外は内に対する辞なり。謂く、外相と内心と調はざるの意なり。すなわちこれ外は智にして内は愚なり。賢は愚に対するの言なり。謂く、外はこれ賢にして、内はすなわち愚なり。善は悪に対する辞なり。謂く、外はこれ善にして、内はすなわち悪なり。精進は懈怠に対する言なり。謂く、外には精進の相を示し、内にはすなわち懈怠の心を懐く。もしそれ外を飜じて内に蓄えば祇に出要に備うべし。「内懐虚仮」等とは、内は外に対する辞なり。謂く、内心と外相と調はざるの意なり。すなわちこれ内は虚にして、外は実なり。虚は実に対する言なり。謂く、内は虚、外は実なる者なり。仮は真に対するの辞なり。謂く、内は仮にして外は真なり。もしそれ内を飜じて外に播さば、また出要に足るべし。
次に深心とは、謂く深く信ずるの心なり。まさに知るべし。生死の家には。疑を以て所止と為し、涅槃の城には、信を以て能入と為す。故に今二種の信心を建立して、九品の往生を決定する者なり。またこの中に、一切の別解・別行・異学・異見等と言うは、これ聖道門の解行学見を指す。その余はすなわちこれ浄土門の意なり。文に在って見るべし。明らかに知んぬ。善導の意、またこの二門を出でず。
回向発願心の義、別の釈を俟つべからす。行者まさにこれ知るべし。この三心は総じてこれを言えば、諸の行法に通じ、別してこれを言わば往生の行に在り。いま通を挙て別を摂す。意すなわち周し。行者能く用心して、あえて忽緒せしむること勿れ。
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