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教育の本質

2012-08-30 08:43:40 | Weblog
ある日、私の属する自分史サークルの定例会が行われ、その時に講師の先生の合評が執り行われた。
その先生も会員の一人として『バイトに明け暮れた高校から大学時代』という題目で作品を連載され、それについて短い著者自身の趣旨説明と、それに対する会員相互の合評が行われた。
この時は『教官群像』というサブタイトルで、在学中に先生自身が関わりをもたれた様々な教官の群像を面白おかしく綴られていた。
だが、それを読み、話を聞いた私は、なんとも不可解な気持ちに陥った。
先生はその当時、つまり戦後の初期の段階で、ある学芸大学(国立)に入学を許され、そこに在籍され、そこで教員になるべく教育を受けられた。
この頃の日本社会はそれこそ日本の全ての階層が貧乏で、人々は飲まず食わずの生活を強いられていた時期で、先生の作品には当時の時勢が忠実に再現され、嘘偽りはないと思うし、それが真実であればこそ、私の憂いは深化し、憂慮する気持ちがふつふつと沸き立った。
それは同時に、当時の日本の大学、つまり「学問の府」の普遍的な在り様であって、この大学だけの特異な現象ではなかったに違いない。
あの時代の日本の大学、特に新制大学の大部分は、この大学と似たり寄ったりではなかったかと思う。
つまり、当時の学芸大学は、先生の言葉でいうと、「粗製乱造でも教員免許を早く取らせて義務教育の職場に送り込む、それが第一目標であって、……」となっているが、私としてはこの部分に引っ掛かりを覚える。
敗戦からの復興の最中において、教育に関するものの考え方も、占領軍によって無理やり方向転換させられ、義務教育の現場も、それを支える個々の先生方も、暗中模索、試行錯誤の連続であったことは察して余りある。
しかし、いかなる学制の元でも、最高学府である筈の「学問の府」が、卒業生を粗製乱造していては、大学そのものを否定していることになるような気がしてならない。
これは戦時中の大学が、当時の国策に則り、兵士の不足を補うために大学在学中の若者を一人でも多く戦地に送り出すべく、本来全うすべき学業を放棄して、繰り上げ卒業をさせた構図と同じ発想だと思う。
敗戦によって復員してきた若者や、外地や戦地から引き揚げてきた若者に、一日も早く仕事を与えるという意味と、戦後復興の潜在能力としての初等教育の充実という両面からの施策ではあろうが、教育が教育の本質を蔑にしては本末転倒だと思う。
教育の本質を考えた時、俗に言われていることは、アメリカの大学は「入るのは簡単だが出るのは難しい」とされているが、学校教育というのはこれでなければならないと思う。
教育を受けようと蝟集してきた若者に対して、ろくに内容のない授業を実施し、学生の指導もいい加減なものであったとしたら、普通の組織であれば職務怠慢、職責蜂起ということになり、組織の存在意義を失うことになるのが筋である。
教育を受けるチャンスは、間口を広く開けておいて、その中で一定のカリキュアムを設定して、そのカリキュラムをクリアーした人だけを卒業生として認める、というのが教育の本質だと思う。
教える側として、規定のカリキュラムを習得した者にのみ、それを習得した証明として卒業証書を授与するのが学校教育の本旨ではないかと思う。
カリキュラムをクリアーする部分において、そこがいい加減で、教えるべき、教わるべき内容が不十分のままスルーしたとしたら、教育の意味をなさないではないか。
日本の場合は、篩の目を細かくしておいて、その細かい目をクリアーした人は、大学在学中に何をしても、しなくても皆一律に卒業できるというのは、真の学校教育ではないと思う。
戦中は大学生の勉強するチャンスを無理やりへし折り、戦後は、教える側も教わる側も、勉強らしい勉強をしないまま、職場、公立学校の先生という職場に送り出すという発想は。そのまま戦中の繰り上げ卒業の発想と軌を一にしている。
この結果が戦後の日本社会を築き上げたということになるのであろう。
先生は在学中に受けた奨学金の返済義務を全うされた後、教職を離れられたが、先生の同期生、あるいは先輩・後輩は、ここで述べられている教官の教育的影響を受け継いだまま、教職を続けられたに違いない。 
学芸大学という教員養成機関の学生が、その本来の教育に関する授業をほとんど蔑にしたかのような状態のままで卒業して、県下の公立学校に赴任して、精神的にも真っ白い白紙のような児童に、将来の日本を託せるような教育が施せるものだろうか。
初等教育、日本の場合、小学校や中学校までの教育は国家主権と大きく関わり合って当然だと思う。
如何なる主権国家でも、将来を担う小国民には、「こういう人間になってもらいたい」という強い国家としての希望を抱いて、その線に沿って国が教育を主導するのは当然のことだと思う。
戦後の日本でも、近未来の日本の設計図を、少国民をはじめとする教育界に示すことは、国家の主権の範疇である。
戦前・戦中は不幸にして、それが軍国主義に席巻されて、軍国少年少女を輩出してしまったが、それをコントロールすべきが本来は教育界でなければならなかった。
戦前の日本の教育界が無能であったが故に、軍国主義の浸透を許し、祖国は奈落の底に転がり落ちたということにつながる。
教育界、つまり人にモノを教える立場の者は、ヒエラルキ―を完全に容認しなければ安らない。
教える側と教えられる側が対等であってはならず、教える側は常に教える側の上位に居なければならないが、戦後の民主教育ではそれが全否定されて、教員養成機関を出た先生方は、その期間中にろくな教育を受けていないので、その教育の本質に目覚めることなく来てしまったという事だ。
戦前の教育界は軍部に屈し、戦後の教育界は民主的という美辞麗句に屈してしまったが、教育界という小学生や中学生の前でしか威張れない学校の先生の支配する世界というのは、この程度のものでしかないという事なのであろう。まさしくデモシカ先生そのものではないか。
今、アジア諸国の対日感情は極めて悪いが、これはそれらの国々が国策として、戦後六十七年間も、日本の悪口を彼らの少国民に言い続け、教育し続けているわけで、それはある種の民族意識にまで昇華してしまっている。
それは戦前、日本がしてきたことと同じ道であるが、ここでも教育の在り方が大きく関わり合っている。
戦前の日本には、海軍兵学校と陸軍士官学校があって身体強健、学術優秀な若人はみなそこに憧れて、世間の評価も一段と高く、今でいえば、オリンピックで優勝したかのようにもてはやされたものだ。
しかし、日本の敗戦はそういう人たちが引導したわけで、負けるような戦いならば何もそういう人がやらなくともバカでもチョンでも出来る。
彼らは、そういう特殊な学校に入学する前は、近郷近在でも優れた人材であったのに、なぜ、日本が奈落の底の転がり落ちるのを止められなかったかと問えば、官僚主義にどっぷり浸かり切って、事の本質を見失っていたからに他ならない。
つまり、学芸大学の教官が、学生にろくな教育を施さないまま卒業させて、そういう教育を受けた学生が先生として県下の教育現場に散って行った構図と瓜二つということが言える。
つまり旧軍の高級幹部と戦後の公立学校の先生の在り方としての共通項は、いずれも事の本質を全く理解していないという点である。
旧軍人にしろ、今の先生にしろ、「自分が今すべきことは何か」と自覚すれば、普通の人ならば、自分のすべきことはおのずと判ってくるはずであるが、それがそうならないということは、他者の存在が大きく影響を及ぼしているということである。
これは先生だけの問題ではなく、日本のあらゆる組織の全てにおいて言えることではある。


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